はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

心に残った言葉

2010年01月23日 21時10分23秒 | インターミッション(論文等)

『佐々木幸綱の世界7 評論編2』(河出書房新社)より。

 現実の私は生活の中できわめて多面的な存在の仕方をしている。公的私、私的私、肉体的私、精神的私、というふうに分類するならば、私は無数の面としてとらえられるであろう。 私は、国民として、都民として税金を払わされ、学校組織内の一人として給料をもらっている。患者として歯医者に治療を受け、父親として小さな息子を風呂に入れ、教師として教壇に立ち、客として煙草を買う。空想する私、夜中に夢を見る私もいる。そのどれも私であるにはちがいないのだ。そして、これら多数の私の経験が作歌時に総動員される。
 作歌とは、こうした私の多面的様態をフォローしてゆきながら、一方で、では結局私とは何なのかという問いへ向かって、相矛盾する存在の様態の基部へと下降してゆく行いであるにちがいない。

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 歌い手である私と、歌われている〈私〉との関係についての考察。
 そして、「作歌」という行為の究極的目標について。
 最後の節は、SF風に言えば「サイコダイビング」ということだろうか?分かるようで分からない。奥が深い。


『降蝉』(こうせん)について

2010年01月15日 21時49分29秒 | 日詠短歌

 下の30首は、「第21回歌壇賞」に応募した作品です。
 予選落ちしてしまいましたが、記念に挙げてみました。
 なんと言いましょうか、暗い歌が並んでおります。

 私事になりますが、異動した職場に馴染めず、去年の夏から心療内科に通っております(今はだいぶ良くなりました)。
 これらの歌はその前後に作ったものです。
 あの頃は、昼休みや休日になると近くの公園に行き、何をするでもなくぼーっとしていました。
 こんな時でも、なんでか歌は出来るもので、いつのまにか溜まった作品を並べ直して応募しました。

 降蝉(こうせん)という題は、たぶん僕の造語です(少なくとも「大辞林」には載っていなかった)。
 公園で聞いていた、物的質量を伴うくらいやかましい蝉の声から思いつきました。


降蝉

2010年01月15日 21時47分09秒 | 日詠短歌

 降蝉


太陽が寒く感じる八月は嫌ないの汗を拭って

『衆議院選挙整理券』きみはまだ生きているぞと知らせが届く

複眼で俺を見詰める信号機こっちにこいと呼んでるようで

うずくまり顔を抱えている俺のそばでミイラになった紫陽花

飛行機雲製造現場の下にいた 両腕を背もたれに預けた

法師蝉が吐いた最後の一息に肺活量で負けている俺

この夏も蝉がうるさい 日本の戦後よそろそろリセットされよ

どうやって予後を生きるか谷の間に小鳥を釣って暮らすのも良い

爪先が濃き影を蹴る草を蹴るその太陽を取り替えてくれ

都市ガスで直に焙った中ぶりのトマトみてえな面しやがって

ひるぞらにペットボトルの皮を剥く首を捕まえむりむりと剥く

走り方忘れた俺を嘲笑い少年少女は木陰とびだす

「ざけんな」と叫ぶときだけ裏声の脛なめらかな少年達よ

生きてゆくみんな胃液を吐きながら吐いた胃液を見返りながら

噛んでいた爪でひとすじ引っ掻けばああ生きてるね液が出てくる

そこここに赤き傷ある我が腕の血管はこんなに浮き出ていたか

太陽が傷を嬲って黒蟻は黒蟻としか話をしない

1分は1分のまま過ぎてゆく蝉鳴き狂う午後のベンチに

ストローがパックの中に落ち込んでちゃぽんちゃっぽん陽にも透けずに

全身にあらゆる刃つぎつぎと(例えば手動紙裁断機)

太陽が沈む速度で延髄に押し当てられてゆく硬きもの

チョコレートホールケーキが熱されたナイフでずいと裂かれるように

「揺れている」腰を浮かせた目の前をゆららたまゆら幼な子歩む

中身だけ崩れて沈んでいくようで蝉喰う蟻を必死に見てた

いつのまに林に帰る銀蜻蜒おれの背中を袈裟斬りにして

内側に細かいものが降り積もる一生分の蝉を聞く夏

歌なんざ人をモノだと見ちまえば何十首だって作れるさ、ピース

羽根すこし開いた蝶が手に触れるくらい近くを歩いていった

老嬢が力まかせに引く首輪夕陽はすでに草に吸われて

もう行くか右の鎖骨にふかぶかと淡き獸をぶらさげたまま


 (「第21回歌壇賞」応募作品)

心に残った言葉

2010年01月10日 20時52分46秒 | インターミッション(論文等)

『短詩型文学論』岡井隆 昭和38年紀伊国屋書店刊(金子兜太と共著)

 散文体にあっては、叙述の目的が韻律美の創造ではないために、不規則な母音順列にしかすぎないものを、短歌において、あきらかに美感を伴う母音律にまでたかめるもの、それが短歌定型の組織力である。
 たんに論理的であるにすぎぬ意味展開を「意味のリズム」にまで、たんに同音量の五回反復にすぎぬものを「句わけのリズム」にまで、たんに視覚上の変転推移にすぎぬものを「視覚のリズム」にまで、たかめ、鍛え、まとめあげるはたらき、それが短歌における定型の機能である。

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 『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』(篠 弘著 短歌研究社刊)から孫引き。
 最近、「調べ」「韻律」「リズム」について興味がある。
 そんな時に出会った言葉。
 今さら過ぎるが、岡井隆はすごい。

コミケに行ってきました

2010年01月03日 08時02分54秒 | たんたか雑記
 あけましておめでとうございます。
 皆様、本年もよろしくお願いいたします。

 さて、もう先年のことですが、東京ビッグサイトで12月30日に行われた、コミックマーケット(コミケ)に行ってまいりました。
 当ホームページによく来てくださる、やすまるさんが出店されているとのことなので、顔を出しに行ったのです。「コミケ」にも興味がありましたし。

 当日は上天気。やすまるさんは、相方さんとペアで、歌集や詩集を中心に販売されていました。
 意外でしたが、イベント名は「コミックマーケット」でも、文学関係の出店は多いそうです。
「いやあ、おひさしぶりです」
と挨拶しながら、いろいろ見せていただきました。

 結局、短歌の個人誌(品の良い和綴じ本)と、9.5×3.5㎝の折本(アコーディオンのように広がる)を購入。栞もサービスしてもらいました。
 やすまるさん、ありがとうございました。


 で、コミックマーケットの印象ですが

「人多い」

 これに尽きます。

 国際展示場駅を下りたとたんに、人人人。
 会場が目の前にあるのに、交通規制で延々と歩かされ、やっと着いた会場内でも人人人。
 なんかもう、むっちゃ人。
 初詣で行った川崎大師なんか可愛いものです。
 いや、初詣なら老若男女さまざま居ますが、こちらは若い人限定。
 もしも万一、ここでテロだの天変地異など起ころうものなら、日本の高齢化率がまたコンマ数%上がるんじゃないかと思うほどの人でした。いや冗談じゃなく。

 実は、やすまるさんから注意は受けていたのです。ちょっと体調が良くないと伝えたら、
「迎えに行きましょうか?」
とまで言われてしまいました。
 心配してくれるのはありがたいけど、大げさだなあと思い、
「なんとか自力でたどり着きます」
と応えたのですが、
「自力で、ですか。勇敢だー。」
とお返事がありました。
「体調が万全でないようでしたら、コミケは来られない方がいいかと思います。はんぱない人込みですから。」
「携帯電話もメールも通じにくいことがあるようで」
って、なんだそれは。
「みんな電波でも出してるんですかー」
なんて冗談を言っていたら、冗談じゃありませんでした。
 やすまるさんは、嘘をつくような人ではなかった。

 そんなこんなで、やすまるさんのブースを発見したときには思わず
「エイドリアーン!!」
と叫びそうになりました。

 当初の心づもりでは、噂の「コスプレ」(コスチュームプレイ)なども見に行こうと思っていたのですが(風紀の問題か、別会場で行われている)、もはやそんな気力無く、ざっと会場内を回っただけでエネルギーは尽きたのでした。

 そんなわけで、やすまるさんお疲れさまでした。
 今度お邪魔するときは、覚悟とエネルギーを溜めて参ります。
 皆様も、コミケに行かれる際にはお気をつけて。
 ほんとに、ハンパないですから。