はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

原牛(葛原妙子料理歌集)

2014年11月01日 21時05分55秒 | 葛原妙子料理歌集

 「原牛」


ゆきずりに眸縋りしくれなゐに唐がらしゆきリヤカーゆけり

雉はすみれいろなる首伸べて走れる汽車の窓に垂りゐし

唐突にわれのきたりし高原に樅(もみ)匂ふ さびしといはん

犬吠ゆる闇の近きに洋菓子のごとき聖壇ともりてゐたり

ひとつかみ卓上に置く銀杏(ぎんなん)の小さき角目あひよりにけり

散らばりしぎんなんを見し かちかちとわれは犬齒の鳴るをしづめし

あたらしき銀杏の實を數へをへ奇數なりしか堅き木の實の

とほき窓に火は匂ひをり牛の舌煮えゐる鐵の鍋(パン)のたぐひか

林檎を前齒にあてし少女はかたへの硝子の中にも部屋もつ

オートミル口にはこびておもはざる窓に斷立(きりた)つ山嶽をみし

タンブラーに水湛へきてふいに逢ふつらぬくごとき白きいなづま

生みし仔の胎盤を食ひし飼猫がけさは白毛(はくまう)となりてそよげる

指先にくちなし色のバター置きひだるき年は猫をやしなふ

赤ん坊はすきとほる唾液垂れをり轉がる玉を目に追ひながら

フラスコの球に映れる緋の柘榴さかしまにして梢に咲けり

胡桃ほどの脳髄をともしまひるまわが白猫に瞑想ありき

魚のうろこ流しをへしが一杯の炭酸水をわれは飲みたり

くりやの暗がりに置く茄子の實の累々たらむときにおどろく

果實倉庫に燈のともりつつ黄丹(わうたん)の李はヒメトスの蜜蠟に似ん

みどりのバナナぎつしりと詰め室(むろ)をしめガスを放つはおそろしき仕事

石灰岩に根下すオリーヴのき根をこほしめるとき月差しにけり

スコットランドの 荒地の ヒースとふ匂ひ草匂ふま晝の柱時計より

鳥の胸とあかきトマトを食べおはる曇れる街の地平は見えつつ

き木の實の憂愁匂ふうつくしき壯年にしてめとらざりにき

未明にてしばしかなしむ透きとほる藥を強く振りて飲むこと

めぐりなる山脈(やま)瀝の香をもてりピアノの高音打ちてあらそふ

馬糞の匂ひ辿りゆきつつおぼつかな漆となる森の緣(へつり)を

き影あぜをゆけるはひとりにて鹽の田に鹽の水を引くならし

鹽田に鹽しづみゐるまひるま結晶の犇たるかなしみに逢ふ

潮のいろしづかに變る大根の白花(しらはな)の十字そよぎ合へるも

ガラス工房曇らむとなしガラス器の乳博の胎黄白の胎

ひとひらの手紙を封じをはりしが水とパンあるゆふぐれありき

シャムパンの醉よりかろし日本海ますぐなる雨ふりそそげる

とらへがたく微けきひかり千鳥ゐて冷砂のあひに抱卵のさま

口暗き魚籃(びく)おのおのに影引けりひとゐぬ波止(はと)の石堤の上

海底に嵐の氣ありさわさわとみどりの爪をもつ蟹のむれ

二十四本の肋骨キリストなるべし漁夫濡れたる若布を下げて

南風に昏れざる漁村石に摺る菜のきしたたりは止まね

原牛の如き海あり束の 卵白となる太陽の下

殺したるをみなの目より粟・稗みのり垂れたる話

乳臭きかの銀杏(ぎんなん)と花粉飛ぶむなしきそらとかかはりはなし

悲傷のはじまりとせむ若き母みどりごに乳をふふますること

にはとりは高き體溫を抱きねむるきしきし砂嚢に貝殻を詰め

魚籃とわれ相似(さうじ) あさあけに濕らひし海の砂ありて

魚籃の闇とわが闇繫りゆきかひわれ坐りをり渚の砂の上

鯨油を煮し大釜空きをりて人をらぬ小屋ありしより歩みの早き

松の幹のあひだに見えて鋭き菜の花の帶 日はかげりこん

砂の丘ひたすらに下りゆきしがまばゆき菜の花を鳴らす風が吹いてゐる

おほき翳り菜畑の黄金(わうごん)に落ちゐたり 突如聽くなる魔王のうたを

父よ父よとわれの悲鳴の走らむに菜の花暗しまなこの暗し

鳥の歩み大膽となりしをのぞきゐつふとわれは暗き厨の窓より

皿に割りし卵黄に目あり 屹とわたしをみし如く思へり

蕎麥の莖小鳥の脚のかじかみに似つつ立ちゐむ野のうす曇り

戰争はふと思ふべく須臾(しゅゆ)たりしかの農の土にものを乞ひにける日よ

亡靈のあらはれしここちかたはらに猫をりてミルクの雫にふるへをり

病める猫草生をよぎる頭白し火の如き痢をわれは思へる

かすかなる顫音(せんおん)起る血と葡萄を詰めし夜の氷庫より

貝の汁に砂のこりしをこん日の憂鬱とせり雪ふれりけり

ロンドンの冬の果實はなになるかききそぶれ手紙の封をなしたり

白鳥を愛せし希臘のをとめレダ湖邊に白き卵を産みにき

乳白にかたまり合へる牡蠣の身に柑橘のするどき酸を搾りぬ

しづかなる緋(ひい)の夕ぐもコップに沈めるもろともにのみくだしたり

朱きかぼちや黄白(わうはく)のかぼちやをしたがふる冬夜ゆたかなるかなしみのごと

潜める柱に吊す唐辛子暗赤の莢(さや)焦げつつゐたり

土甕のうちらひた押す結氷のひしめきをおもひ暗夜なりにし

雪の匂ひ嗅ぐごとくせり凩の夜を透きとほるクリスタルより

木苺の燈火を欲りせり階のぼり耀く冬のラムプコレクション

黄衣にてわれもゆきたり巨いなる硫黄となりし銀杏樹(じゆ)の下

壁の一部とおもひゐたりし廣告がとある時間に飢餓の目をする

おそき夜の白き藥局に人をりぬ天秤に微かな分銅を置き

心臟の標本一つある窓にぶだうの蔓の影ある時間

齒のごとき鍵盤ありき冬となるピアノの蓋のひらかれしかば

エーテルの甘き匂ひのただよへば窓に降りゐる雪片はみゆ

數グラムの試藥の粉末を底に置き乳鉢の暗部ありと思ふも

危ふきくすり扱ふ君が雪降るに白衣のよごれ指頭のよごれ

芥子のはなとほくに充つる雪の日に唇(くち)少しあきてねむるわがため

ゆきずりの麺麭屋にある夜かいまみし等身のパン燒竈を怖れき

鶏冠(けいくわん)のごとき冬の苺みるところより地下に階つづきたり

草上晝餐はるかなりにき若者ら不時着陸の機體のごとく

山菜のみどり萌えゐるゆふぐれにみづうみの寒き胎をおもひき

薄やみの遠き窓あるは夢の中煙草炎々と人の指に燃えよ

ふしぎなる緯度にわれをり蛙樹上にをりて産卵をせり

しゃぼんの泡なせる蛙の卵塊の一つならざり水邊暗し

水中にみどりごの眸流れゐき鯉のごとき眸ながれゐき

はかりえぬ藥品の結晶しづめりとおもふあさあけみづうみの藍

薄黄(はくわう)のさくら湖岸に咲きたればまぶたに塗りぬ油一しづく

帆立貝の貝殻を積みし貨車に逢ふときわが汽車も夜も漆

かいまみし妻は緋鯉なりにし赤き胸びれに米をとぎゐし

林檎酒をつめたきひるにふふみしがあまた花の幻影をみたり

なめなめと油なじめる鍋(パン)二つ雨夜の壁に掛かりてゐたり

いはれなき生理的恐怖 そらまめの花の目、群るる人のあたまなど

一本のみどりのらうそく燃えつきしまはりにちらばるぎんなんのむれ

厨房の窓に人参の緋なるかいまみしとき宙なるあぱあと

夜の錘としづまる林檎 人ゐざる部屋のりんごの重きくれなゐ

裸木は窓に立ちをり斑(まだら)ある小禽の卵茹でてをりたり

びいかあに蒸留水の冷えをれば一顆のレモンをわれはおもへる

につぽんにレモンの花のこぼれゐるかなしまざるに海のれゐし

レモンの木にするどき棘のありしことかの鮮黄にかゝはりありや

スペインの城の寫眞にみいりてあなさびし銃眼と屋上の井戸

鐵(くろがね)の蔓草にかざりし井戸一つ石の井戸なれば石に影する

おりいぶの油暗に透きゐたり油に沈みし蟲の翅一つ

スペインは水涸れし荒土なるとき ひとみしづかに行かむ旅行者

てのひらに卵をのせてひさしきにさわだてるべしとほき雪の原

刻むごとき齒の痛みあるゆふべにてうしろをみたり うしろは壁

はらわたのごときヨルダン河は繋ぐき死海とガラリヤの湖を

ばりばりと頭髪を鹽に硬ばらせ死海より生れきし若者のむれ

くひちがひて噛みし犬齒をおそれたりわが飼猫を埋めむとして

濃き蜜にわれをやしなふさんらんとわれは女蜂の翅を光らせ

雪の道のへ消毒藥の匂ひして犬屋の白き犬は放たる

卓上にたまごを積みてをへしかば眞珠賣のやうにしづかにわれはゐる

葉かげよりジンジャの香(かをり)ながるるはをりをりにしてひるの白光(はくくわう)



 (原本 葛原妙子全歌集(二〇〇二年 砂子屋書房))