(新春座談会「前衛短歌とは何だったのか」
佐々木幸綱 三枝之 永田和宏 角川『短歌』平成22年1月号)
佐々木
今、いろいろな雑誌で、角川『短歌』もそうだけれど、「老年の短歌」の特集をやっている。それには前衛短歌の問題はまったく出ないね。つまり成熟、円熟ということが前衛短歌運動の意識の中に全くなかった。だから今でも、「老年の短歌」は近代短歌の延長上で考え、作り、論じている。
三枝
そう。(略)短歌ってどこかマラソンみたいな長距離ランナーの詩型という要素があるんだが、(前衛短歌は)二百メートルか四百メートルのトラック競走として短歌という詩型をとらえていた。そのことは一つの前衛短歌の突出力であると同時に、前衛短歌の狭さというか、短歌というものをどう捉えるかというときの歪みにも作用している。
佐々木
トラックの話はおもしろい比喩だね。岡井隆さんは、長距離ランナーにはならないで、もう一つ別のトラックを見つけて走るみたいなかたちでいってるよね。
三枝
そう。一直線ではなくて、あの人は別の競技場へ(笑)。
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佐々木
大もとは短歌革新運動から来ているわけだ。古典和歌の美学は、様式の前ですべてのものが相対化される、短歌形式の前ですべての人間が平等であるという、これが大前提だった。〈われ〉を非常に小さく見ていた。短歌革新運動はそれを否定して〈われ〉を前面に出そうとした。子規の病気の歌、晶子の恋愛の歌、啄木の貧乏の歌、みんな〈われ〉の歌です。前衛短歌はそれに対する揺り返しなんだ。大きな図式を書くとね。
三枝
今の話が非常に興味深いのは、だから、前衛短歌の様々な発言は本当に正しく受け継がれたか。そこはどうも、もう一度洗い直したほうがいいということですよね。
永田
中途半端にしたまま、また近代に帰っているという部分もあるのでね。
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『現代短歌史』(篠 弘著 短歌研究社刊)全3巻をやっと読み終わった、ちょうどその時に、タイムリーな企画が出た。
「現在から見て、前衛短歌とはいったい何だったのか」
という問いを、
「様々な角度から、このメンバー(佐々木幸綱、三枝之、永田和宏)にゲストを交えて評論を展開していくという連載」(編集後記)だという。
『現代短歌史』は、(特に後半は)前衛短歌を中心に語られていたので、この問いには、すごく興味がある。
佐々木、三枝、永田という人選も絶妙で、まさに前衛短歌全盛の頃に頭角を現してきた三氏だ。
と言うわけで、プロローグ座談会から特に興味深い発言を(かなり長いが)抜き出してみた。
これからどのような論が展開されるのか、とても楽しみだ。