はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

〈 「短歌語」と「非短歌語」 〉 について

2011年09月23日 16時05分58秒 | インターミッション(論文等)

 下に挙げた文章は、『短歌研究』の「第二十九回 現代短歌評論賞」に応募した物です。
 例によって、供養のためここに載せてみました。
 かなり長いので、章ごとに五つに分けました。
 少々読みづらいですが、よろしければ目を通してみてください。

 今年の評論賞の課題は
「現代短歌の口語化がもたらしたもの、その功罪」
という、自分にとっては(とっても、か?)けっこうタイムリーなテーマでした。
 日頃思っていることを全部突っ込んだため、今読み返してみると、かなり論点があっちこっちに移動した、総花的な文章になってますね。

 それにしても、論文を書くのって大変だけど楽しいです。
 文献漁りにいろいろなところに行ったり、目当ての文章の次ページに載っている全く関係ない記事をつい読みふけったり、当初考えていた流れに沿った材料が見つからず、結論を変えざるを得なかったり……。
 まあ時間、というか日常生活との闘い(もしくは共存)なんですが。

 おことわりが一つ。
 文中に書かせていただいた、やすたけまりさんの歌についての論は、第一歌集『ミドリツキノワ』刊行以前に書いたものなので、現在の僕の印象とは多少違っています(大元のところは全く変わっていませんが)。
 いつか、まとまった「やすたけまり論」を書いてみたいものです。

 ご意見等、お聞かせいただければ嬉しいです。


「短歌語」と「非短歌語」 (5)

2011年09月23日 16時02分01秒 | インターミッション(論文等)

  引用文献


『短歌の想像力と象徴性~短歌と日本人Ⅶ』 岡井隆 編 (岩波書店 平成三年刊)

『土地よ、痛みを負え』あとがき 一九六〇年筆 岡井隆全集Ⅰ (思潮社 平成一七年刊)

『目に余る「口語」―評者も甘過ぎる』 篠弘 (「短歌現代」平成二二年一月号)

『座談会 境界線上の現代短歌―次世代からの反撃』 (「短歌ヴァーサス 第一一号」平成一九年一〇月二五日刊)

『短歌時評 口語化の流れを止めるために』 斉藤斎藤 (「短歌研究」平成二三年一月号)

『〈口語〉うわさの真相』 谷村はるか (「Es コア 第二〇号」平成二二年一二月一五日刊)

朝日新聞文化欄『あるきだす言葉たち』平成二一年一二月一九日

『てんとろり』 笹井宏之 (書肆侃侃房 平成二三年刊)

『詩歌の岸辺で』 岡井隆 (思潮社 平成二二年刊)


「短歌語」と「非短歌語」 (4)

2011年09月23日 15時59分47秒 | インターミッション(論文等)

    4.「短歌語」と「非短歌語」の狭間で


 やすたけまり・笹井宏之の二人を例として、現代口語歌人のあり方について考えてきた。
 二人はあくまで例であり、彼らと同程度の「こだわり」を持ちつつ口語による作歌を続けている歌人は大勢いる。
 確かに、小池光・永田和宏が指摘するように、非短歌語を短歌に馴染ませるのは容易なわざではあるまい。篠弘が憤るように、短歌の歴史や文語と口語の関係をほとんど顧みずに歌を作っている短歌愛好者達が多いのも事実だ。斉藤齋藤が論ずるように、表現の拡大を求めるのなら歌人はいずれ文語に帰ってゆくのかもしれない。
 しかしそれでも、口語にこだわり続ける歌人はいなくならないだろう。非短歌語を短歌語に馴染ませてゆくのではなく、非短歌語のまま短歌に用いる挑戦者も後を絶たないだろう。先にも述べたように、短歌史を振り返ればこれら挑戦者こそが短歌を動かしてきたのであり、元型を守ろうとする力とのぶつかり合いこそが、短歌史そのものだった。子規・鉄幹の頃の旧和歌派、モダニズムに対するアララギイズム、前衛短歌を押さえつけた保守歌壇等、革新は常に保守よりも弱者だった。巨視的に見れば、革新は保守に勝利したことは一度もなく(一時的に優位に立ったように見えたことはあっても)、結局は保守に都合の良い部分だけ取り込まれ、残りは無視という切り捨てに会い、消えていった。「境界線がスライドした」とは「革新が保守に取り込まれた」の言い換えでもある。
 これが何度目のぶつかり合いになるかは分からないが、挑戦者たちの奮闘によっては、今度こそ飲み込まれることなく新しい短歌の「場」を確立することができるかもしれない。それは今までの挑戦者たちの悲願が達成される、ということでもあるのではないだろうか。
 その意味で言えば、むしろ心配なのはその「元型を守ろうとする力」の衰退の方である。ニューウェーブが一段落して以降の短歌世界は、その「保守」の力が妙な形で衰弱してきている。先の永田和宏の発言ではないが、新しいものが紆余曲折を経て熟れ、「短歌」への仲間入りの形で懐に入るのが本来の(あるいは今までの)プロセスであったとするなら、現況は新しいものが新しいまま、未消化のまま従来の短歌世界に浸食してきている。そしてそれを中堅以上の歌人たちもある程度容認している、そのような図式が強く感じられる。
 「今の若い歌人たちは争うということをしない。自分の好きなことをやっているだけだ」という嘆きが、古参の歌人からときどき聞かれる。しかし、その若い歌人たち(年齢的には必ずしも若者ばかりではないが)にしてみれば、「戦えって言ったって、誰と戦えばいいんだよ」と愚痴のひとつも言いたいのではないか。それほどに今の歌壇は物分かりが良い。
 「革新」が自力で「場」を形成するのならばよいが、「保守」の弱腰や弱体化のため結果的に場を与えられるのは理想的ではない。短歌に限らず、そのような強い力が存在しない世界は、膨張と変形のみに特化しやがては自壊する(もちろん、逆もまた真なりである)。
「革新」がもっと自覚を持ち、勉強し、自分の世界を確立していくのは、当然のことだ。
 だから「保守」も、嘆きや弱腰ばかりではなく、もっと戦ってほしい。口語など、「非短歌語」など絶対に認めない、と口に出して言い切る古参歌人たちこそが、もっと必要なのではないか。真剣に明日を見つめる挑戦者たちのためにも。