はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

心に残った言葉

2010年07月27日 21時50分25秒 | インターミッション(論文等)

『私の戦後短歌史』岡井隆×(聞き手)小高賢(角川書店 2009年刊)から


岡井  だから、文学は滅びました。短歌は滅びました。「岡井さん、どうなのですか。短歌は滅びますか」ときかれて、滅ぶのではない、もうすでに滅んだのだ。過去形。だけれど、それは「あの」短歌が滅んだので、「この」短歌はまだ生きているという、そういうことなのではないかな。新古今なら新古今の短歌は滅びました。だけど、近世和歌というものは生きていますというようなことと同じ経緯なのではないかな。

小高  そのなかでも新しい短歌というか、言うならば短歌というのが本質的には生き残っていくということですか。

岡井  そうそう。でも、それは残念ながらわれわれが最初に覚えた短歌とは多分違うのでしょうね。まあ、小説だって完全にそうでしょう。われわれが知っている小説は今やないのです(笑)。


完走しました(中村成志)

2010年07月19日 18時44分54秒 | 題詠100首blog2010

 《題詠100首2010》、完走しました。
 どうもありがとうございました。

 さて、今年は、二つの試みに挑戦してみました。


   ①文語での作歌
   ②詞書を添える


 ①について。

 これまで漠然と、口語で作歌をしてきましたが、ちょっと思うところがあり、
「これからは、文語をなるべく使わず、より意識的に《口語》で短歌を作ろう」
と決めました。
 決めてから気付いたのですが、
「じゃあ、『文語で作歌する』とは、具体的にどういうことなんだ?」
 分からなければ作ってみよう、ということで、作ってみました。
 もちろん、文語文法などほとんど知らないので(古文漢文の授業、何十年前の話だ?)、見様見真似の『なんちゃって文語』ですが。

 で、作ってみて。
 歌が、『短歌らしく』なるのに驚きました。
 自分でも、ろくでもないテーマだなと思っていても、文語で現すと、あら不思議。
 俺は茂吉か迢空か、といった気分になれます。
 もちろん、これは『気分』であって、中身がろくでもないことは変わっていないんですが。

 五七五のリズムに、文語が持つ流れが加わると、ものすごい力を発揮するようです。
 ある年齢以上の歌人たちが、
「短歌は、文語で詠むのが基本である」
と繰り返すのも、分かるような気がしました。

 同時に、この力に負けないほどの歌を作り上げるのも容易ではないようです。
 なまっちょろい中身は、すべて『気分』によってズタズタにされてしまいます。
 正直、生半可な気持ちで取り組むものじゃないな、ということがよく分かりました。

 今後も、基本は口語で作歌をするつもりですが、機会があれば、文語にまた挑戦してみたいと思っています。


 ②について。

 《詞書》についても、以前から興味は持っていました。
 これを使いこなせれば、散文的な状況説明は歌の中から省くことが出来、しかも組み立てによっては構成に厚みが出るのではないか。

 で、やってみて。
 そんな甘いもんじゃないことが、よく分かりました。
 自分でも、何でこんな歌が出来たのか理解できていないのに、その状況説明をするなど、無謀の極みです。
 結局、ほとんどが詞書というより、後追いの一人突っ込みになってしまいました。
 これも、今後の宿題ということですね。
 それが分かっただけでも、やってみて良かった試みでした。


 百首並べて改めて見ると、今までの自分の作風と全然違うような、全く変わっていないような、複雑な気分です。
 正直、コメントしづらい。
 まあ、これが後々の自分に、少しでもプラスになることを願って。


 お読みいただき、本当にありがとうございました。
 ご感想などありましたら、ぜひお聞かせください。