はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

『ちるとしふと』(千原こはぎ)雑感

2018年05月18日 22時22分32秒 | インターミッション(論文等)



 歌集『ちるとしふと』(千原こはぎ 書肆侃侃房)の感想を書こうと何度も想い、その都度挫折している。
 好きな短歌や歌集の感想は、これまでいくつも書いてきた。それぞれの特性に合わせ、アプローチも少しずつ変えていた。が、今回はその方法のどれもがしっくりこない。
 何故なんだろうと考え続けて、ようやく気づく。
 私は、千原こはぎの短歌とその歌の集成である「歌集」が好きなだけなのではなく、『ちるとしふと』という本、物理的に目の前にあるこの本自体に愛着を感じ、感想を言いたいのだと。

 仕方がない。できれば納得する形で書けるまで待ちたかったが、こういうものには旬がある。
周りのブームという意味ではなく、自分内部のテンションの問題だ。これ以上先延ばしにすると時機を逸する。
 本格的な論考はまたの機会に取っておき、今回は頭に浮かんだ感想をランダムに書き付けていくことにする。


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 『ちるとしふと』を手に取りぱらぱらとめくると真っ先に気づくのが、絵の多さだ。
 カラーのカバーイラストが三種類(折り返しのカット含む)、本文中のイラストが22(1ページを占める大きな物が4、小18)。
 画文集でない純粋な歌集(141ページ)では異例の数だろう。しかも既存のカットではなく、すべて著者自身の描きおろしである。

 そもそも、表紙からして目を引く。少し暗めのペパーミントグリーンを基調にし、星空の中を鳥や水生動物が泳ぐ。たくさんのランプを吊り下げた木の下に本を拡げた女性。周りには花、猫、ペンギン、様々な小物。原色をふんだんに使ったイラストは、女性がほぼ白抜きであるだけにいっそう目を引く。帯も表紙に合わせてペパーミントグリーン(というより青竹色と言った方がいいのだろうか。落ち着く色だ)。

 書肆侃侃房「新鋭短歌」シリーズはこれまでに40冊弱が出版されている。判型は統一されていて、表紙も、今までは基本的に余白を多く残した感じで構成されていた。
 が、シリーズ第四期(今のところ三冊)では、どれもイラストがかなり大きくなっている。出版社で若干の方向転換があったのだろうか。『ちるとしふと』はその中でも余白の多い方だが、その代わり原色とそれに近い色をふんだんに使ったかなりカラフルな仕上がりになっている(他の二冊は、薄くヴェールを被せたような淡い感じのイラスト)。
 だが、色合いの割に落ち着いた雰囲気を感じさせるのは、絵柄と構成の勝利だろう。書店に平積みになった場合、自然にふっと目が止まり、イラストをじっくりと眺める。そんな自然なアピール感を持っている。

 千原こはぎはイラストレーター・デザイナーを職業としているのだから絵を描くのはお手の物。表紙が上手くても、イラストが多くても不思議ではないじゃないか。そんな声もあるかもしれないが、私の言いたいのはそういうことではない。
 この表紙と裏表紙、そしてふんだんに挿入されているイラストのすべて(百歩譲ってもその大部分)が、『ちるとしふと』という本を構成するに当たって欠くべからざる要素となっているのだ。

 これは後に書く「ストーリー性」の問題とも関連してくるのでここでは多くを述べないが、通常、歌集に添えられるカットの多くは、言葉は悪いが「添えもの」であり、せいぜいが連作の雰囲気を壊さないよう視覚化を助ける程度の働きしか期待されていない(短歌と同程度のスペースを持って対等に並べられる「画歌集」は除く)。
 しかしこの本におけるイラストはそうではない。短歌の末尾あるいは冒頭に置かれるそれは、歌を補助しふくらみを持たせるばかりでなく、逆に歌たちの魅力を存分に吸収した後、咀嚼して還元し、初読のときに気づかなかった意味を新たに提示させるのである。
 一つ例えを挙げれば、歌集の半ば76ページからの連作で、読者はクライマックスの一つと言って良いコラボレーションを目にするだろう。(これからこの本を読む人の楽しみを奪うのは本意ではないので具体的内容は避けるが、キーワードはクジラ)。

 くどいようだが、絵の多さが問題なのではない。短歌と絵の対比、同調、その絡ませ方が絶妙なのだ。誰でも同じ事が(イラストと短歌その両方をこなせるというだけで)出来るかどうかは、言うまでもないだろう。


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 せんだっての五月十三日、滋賀県草津のジュンク堂書店で『ちるとしふと』刊行記念トークショーが行われた(聴き手は嶋田さくらこ)。
 面白い話が目白押しの一時間半だったが、その中でも特に興味深かった発言を引く(録音をしていたわけではないので、大意であることをお断りする)。



「今までに作った9800首の中から頑張って選んで選んで、1600首くらいにしたんですね。それを(監修である歌人の)加藤治郎さんにお渡しして、400首くらいになって帰ってきて。それをまた一から並べ直したんです」
――もともと、連作が中心なんですよね、こはぎさんは。
「そう。30首とか40首とか一連のなかでストーリーが出来るように読んでるのに、その中から10首、こっちから8首とか、全然繋がらないわけですよ(笑い)。苦労して組んだんだけどやっぱりどうしても繋がらなくて『すみませんやっぱり並び替えても良いですか』って治郎さんに言ったり(笑い)」



 先に「ストーリー性」のことを言った。歌集を通して読めば分かることではあるが、千原はストーリー・物語を非常に重視する歌人だ。一首の屹立性よりはむしろ一連の中でどう物語が進行するか、その場面のどの部分を表しどの部分を水面下に静めるか、に神経を張り巡らせる。

 『ちるとしふと』は一応、千原こはぎの第一歌集と銘打たれているが、実は先行して私家版の短歌本が刊行されている。『これはただの』という文庫サイズの短歌本は2015年9月に発表され、文学フリマや通販、有志の書店で現在も販売中だ。。
 これは『ちるとしふと』よりもさらにストーリー性が高く、フルカラーのイラストに20の連作が綾を成すように展開する。しかも、そのほとんどが恋愛、性愛、逢瀬の歌だ。



「恋の歌、めっちゃ好きなんです。それしか詠めないくらい。他の方の歌を読むときは職業詠とかもすごく好きなんですけど、自分で詠むのはとにかく恋歌」
――ネットプリントとかブログとかでも。
「そう。なのに(加藤)治郎さんから新作詠めって。新作?9800首あるのに、入れたくて落とした歌いっぱいあるのに、この上新作?って。しかも、職業詠!どうやって歌うの職業詠って!!(笑い)」
――うわあ。
「仕方ないんで必死になって詠んだんですけど、やっぱり私、恋歌好きすぎるんで自分の職業詠が良いのかどうか、全然分からないんですね。治郎さんや他の皆さんに褒めていただいて、ほっとしてるんですけどやっぱり……」



 一からすべてを自分自身だけで作り上げた『これはただの』と、有名歌人が監修し商業出版社から刊行された『ちるとしふと』の一番の違いは、おそらくそこにある。

 単に職業詠の有無だけではない。夥しい歌の中から、監修という冷徹な第三者が選択した短歌は、必ずしも恋歌のみではなかった。
 そもそも、恋をモチーフに連作を作ったとしても、そのすべてが直接に恋愛感情や逢瀬を詠んでいるわけではない。むしろ、激しく切ない恋愛の合間を彩るように、生活を描写した短歌も数多く歌われている。
 千原の感覚ではそれも恋歌の一バリエーションなのだろうが、連作という枠から外されたとき、それは活き活きとした生活詠として別の光を放つのだ。

 そういった日々の営みを語る歌と、従来からの恋愛歌。それらを改めて織り上げることにより、『ちるとしふと』は『これはただの』とは違った側面を語り得る作品となった。
 おそらく、ではあるが、加藤治郎は半ば意図的にそういった選歌を行ったのではないか。
 加藤が『これはただの』を手に取っていたかどうかは不明だが、千原の持つ表現領域を、彼女自身に自覚させたかったのではないだろうか。あなたは、こんな風にも歌えるんだよ、こんな歌も歌ってきているんだよ、と。


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 ここで、極めて個人的な感想を書く。
 二年半前、『これはただの』を手にしたとき、私は文字通り躍り上がって喜んだ。何度も読み返し、好きな歌に付箋を貼り、機会あるごとにこの本を周りにみせびらかした。
 しかし(ほんとうに小さな声で言ってしまうが)今にして思えば、この歌集の恋愛的ストーリーの濃さに、少々当てられていた気味も無いではなかった、ようだ。『ちるとしふと』を読んで初めて自覚したことではあるのだが。

 私はもともと、恋歌一般はさほど好きではない。嫌いだという意味ではなく、職業詠・生活詠・想像詠など、短歌の無数のバリーションの一つとして認識しているだけで、突出して好むということはあまり無かった。自分で作歌するときも、恋の歌はまず作らない。
 そういった意味では、私は千原こはぎの「恋愛歌が好き」なのではなく、千原が織り成す(愛も含めた)「歌の世界」そのものが好きなのだ。
 恋人と逢瀬を重ねているときはもちろん、喫茶店でひとりぼんやりし、終電で街の灯を眺め、猫とたわむれ、体調管理に苦労し、今日と明日の狭間を思って眠りにつく。そんな、当たり前の生活を当たり前の言葉で活き活きと目の前に示してくれる、歌の数々に魅了されたのだ。
 『これはただの』の世界に浸りながらも、「もう少し、もうちょっと」と自分でも意味不明の呟きが漏れたのは、恋愛の連作に垣間見える日常をもっと見たい、と無意識に思っていたのかもしれない。

 ゆえに、今回の『ちるとしふと』はある意味、私の理想の歌集でもある。
 この本の中では、とある普通の女性が生きている。
 仕事にこだわり悩み、人間関係に苦労しつつも人々を大切にし、料理と猫と季節の移り変わりと風と歌が好きで、自家中毒と自己嫌悪に苦しみながらもしたたかな柔軟さを持ち、そして恋と恋人を心から愛する、肩の上で髪を切り揃えた少し痩せぎすの、どこにでも居る女性が生活している。
 その女性を千原は、平易に描写している。凝った仕掛けやアングルを用いず、愛しさを込めながらも、同時にまるでレンズを通して見るかのようにほんの少し突き放して、そしておそらくはデフォルメして活写している。
 恋愛だけの世界ではない。
 恋も大いに含んだ、とある生活の物語。
 それが、私に手渡された『ちるとしふと』の世界だ。


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 これから、千原こはぎがどのような歌の世界を織っていくのか、それは分からない。
 彼女はもともと、根っからのクリエーターである。私家版はもちろんのこと、商業出版の歌集でも可能な限り自分の神経と血液が隅々まで行き交うように、努力に努力を重ねてきた。それは、この歌集をひもとき、先のトークショーを聞いただけでも充分に伝わってくる。

 自分が納得のいくものを。手にする人が喜んでもらえるものを。私が力の限り作ったものですと胸を張って手渡せる物を。
 おそらく、彼女はその事のみを念頭に、この歌集を練り上げてきた。
 口で言うのは容易い。だが本当に(文字通り)体を張って自分の本を育て上げる事の出来る歌人が、いや作家が、どのくらいいるだろう。情熱だけでなく、技術をも伴って出来る人が。

 だからこそ、千原は『ちるとしふと』が一端を示した世界に拘らないかもしれない。
 彼女にとっては、(言葉は悪いが)第三者に言われて心ならずも歌い、練り上げた風景だ。「良いか悪いか自分では分からない」世界よりも、主戦場であると彼女が認識している恋の歌を突き詰めていくのかもしれない。

 それは、いい。
 どちらの方向に(あるいは、私などが全く想像もつかないような方向に)進むにせよ、種は蒔かれ、成長し、収穫されたのだ。
 『ちるとしふと』という形に織られたこの世界は、影になり日向になり、千原こはぎの歌を滋味深く深化させていくだろう。

 自分の好きな歌人が、さまざまな影響を受けつつも自力で進んでいく。
 短歌ファンとして、その光景を見続けるほどスリリングで幸福なことはあるまい。



     了



「湾岸戦争におけるニューウェーブの役割」について

2012年09月21日 20時15分59秒 | インターミッション(論文等)

下の文章は、短歌研究『第三十回 現代短歌評論賞』に応募した文章です。
例によって一次予選堕ちでしたので、こちらに供養のため載せました。

今回の課題は、『機会詩としての短歌の可能性を探る』。
必然的に、先の大震災を念頭に置いてしまうテーマですが、あまのじゃくな中村は、ご覧のように湾岸戦争を題材にしました(湾岸戦争なんて、どれくらいの人が覚えているんだ?)。

ここ数年、ライトバースやニューウェーブの時代に興味を持ってまして、その極北でもある荻原裕幸氏の一連を挙げない手は無いだろう、と。

中村の文章の出来はともかく、氏の連作は、今も(今でこそ)現在短歌のひとつの基点になると思うのですが、如何。

ご意見等、いただけたら嬉しいです。


追記
ブログの設定上、横書きにしか出来ませんでした。
荻原氏の連作をご覧になるなら、ぜひ『資料』でお楽しみ下さい。



湾岸戦争におけるニューウェーブの役割~荻原裕幸「日本空爆 1991」を題材として (4)

2012年09月21日 19時54分13秒 | インターミッション(論文等)

   4.まとめ


連作「日本空爆 1991」を近的、遠的に眺めてきた。
これは、ニューウェーブ運動全体から言っても、一種の極北的作品であり、一首としてはともかく、連作ではこれ以上過激な一連は発表されていない(発表されても、すべてこの連作の亜種としてしか見られなくなっている)。
実際、荻原裕幸も、この一連を含む記号短歌を作った後、盟友である穂村弘や加藤治郎から「そろそろ帰ってこいよ」と言われた、と述懐している(2011年『未来』創刊六〇周年記念大会「ニューウェーブ徹底検証」席上において)。
それほどまでにこの一連は実験的であり、同時に荻原裕幸自身の短歌観が詰まった作品だった。

同時に、短歌が示すことの出来る機会詠、時事詠としても、この作品は、その裾野をぐっと広げた、と言って良いだろう。
湾岸戦争以後、日本を波状攻撃的に襲い、今も襲い続けている様々な事件について、短歌が曲がりなりにも対応を示し続けている一つのきっかけとして(反発、拒否も含め)、この「日本空爆 1991」は位置してはいないだろうか。

初出誌に付されたコメントで、荻原裕幸はこう言っている。

「日本もまた湾岸戦争といふ物語を、悪意があるかないかは知らないが、特殊な演出をしながら報道してゐるやうにしか見えないのだ。なぜこんなにリアリティがないのだらう。(中略)「日本空爆 1991」は、リアリティを失つて困つている僕の、精一杯のところで出した答である。」

また、歌集『あるまじろん』のコメントでは、こうも言っている。

「湾岸戦争でのアメリカ軍の力はもの凄かつたけれど、湾岸戦争そのものが世界にふりまいた力は、そのアメリカ軍もかすんでしまふくらゐに烈しかつたと思ふ。(中略)一九九一年、それはぼくたちが、そして言葉が、いかに無力かといふことを思ひ知らされた年だつた」

「リアリティ」を失い、「言葉」の無力を思い知らされる。
我々は、何度もその思いを噛みしめてきた。
「湾岸戦争」とはこうした、世界が高度に情報化され、同時に、言葉が単なる言葉として機能することが難しくなるほど複雑化された《現在》への、入口だったのかも知れない。


湾岸戦争におけるニューウェーブの役割~荻原裕幸「日本空爆 1991」を題材として (3)

2012年09月21日 19時50分41秒 | インターミッション(論文等)

   3.「日本空爆 1991」


そういった作品群の中で、ひときわ異彩を放ったのが、荻原裕幸による「日本空爆 1991」だ。
初出は、俳句誌の『地表』Vol.29・No.5(1991年5月20日発行)。その後、改稿され、歌集『あるまじろん』(1992年)に載せられている。
ここでは、初出を中心に見ながら、話を進めていこう。

内容は、15首による連作。
見開き2ページに掲載され、末尾に10行二段のコメントが付されている(別紙参照)。
ちなみに、これが歌集『あるまじろん』になると、歌は20首に増やされ、前半の歌の並びも変えられている。コメントも新しく書き直され、歌群の始めに置かれている。なにより、ページ数が5ページに増え、それによって読者が受けるインパクトや印象が、少なからず違ってくることになる。

細かく見ていこう。
まず、最初の二首。

  空爆のけはひあらざるあをぞらのどこまでもあをばかりの一日

  ジンセーの沸点である二十代を越えつつもはや待つものもなし

歌集での一首目は

  おお!偉大なるセイギがそこに満ちてゐる街路なりこの日本の街路

という、初出では無かった歌が配置され、「空爆のけはひ~」は二首目に置かれている。
「セイギ」とカタカナで書かれた、どこか胡散臭い当時の空気を示す歌で始まる歌集も良いが、タイトルのすぐ左にまた「空爆」の文字を持ってきた初出も、ビジュアル的に見て悪くない。
つづいて、やはりカタカナの「ジンセー」(末尾を伸ばすことにより、より胡散臭さを増している)で始まる二首目。「待つものもな」い、と空しさを歌い、空爆を待ち望んでいるかのようにも見える。
三~五首目、

  むかしむかしわれの異国でありソコクならざる父は軍人だった

  日日はしづかに過ぎゆくだらう虹彩を揺れながらゆく燕あるのみ

  おだやかと言ふほかになきごみの日のごみ袋にはサヨクシソーが

荻原裕幸の父が軍人であったかどうかは、ここでは関係ない。「むかしむかし」、今とは全く違う日本は軍事大国であり、そこに生きるすべての人は「軍人」だったのだ。
「しづかに」「おだやかに」と、しつこいほどに平穏さ(その底に流れる空しさ)を強調している。
六、七首目。

  戦争で叙情する莫迦がいつぱいゐてわれもそのひとりのニホンジン

  四月のある日に猫にどうでもいいことの履行を求めてゐるひるさがり

「戦争で叙情する」とは、短歌や文学のみを指しての語ではないだろう。
「戦争」という言葉に生々しさを持てず、気分的に反対、賛成を叫ぶ「ニホンジン」全体を示すものと思われる。
猫に「どうでもいいことの履行を求め」るような、虚しい毎日。いや、主体は本当に、猫に求めているのかもしれない。
ここまでの七首のうち四首で、あえて漢字をカタカナに変換している(セイギ、ジンセー、ソコク、ニホンジン)ことに留意。これが、後半になって生きてくる。

八首目から、有名な、記号による絨毯爆撃が始まる。

  世界の縁にゐる退屈を思ふなら「耳栓」を取れ!▼▼▼▼▼BOMB!

第四句までは、前半の続き。いい加減「退屈」にうんざりした主体が「耳栓」を取ったとたん、世界が異界に変わる。

  ▼▼雨カ▼▼コレ▼▼▼何ダコレ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼BOMB!

  ▼▼誰カ▼▼爆弾ガ▼▼▼ケフ降ルツテ言ツテヰタ?▼▼▼BOMB!

  ▼▼▼▼▼ココガ戦場?▼▼▼▼▼抗議シテヤル▼▼▼▼▼BOMB!

九首目以降はひらがなが消え、カタカナ、漢字、記号のみの世界となる。
平和日本において、降ってくるものは「雨」しか無かった。
爆弾は普通、予告されてから落とされるものではない。
「抗議」という単語が出てくること自体、主体が今まで甘っちょろいニヒリズムの中にいたことを示している。

  しぇるたーハドコニアルンダ何ダツテ販売禁止?▼▼▼▼▼BOMB!

  ▼▼金ガ▼▼▼アマツテ▼ヰルノカ▼▼遊ブノハ止セ▼▼▼BOMB!

平和で情報豊富な日本では、「しぇるたー」の存在は知られている。が、見たことのある者も、そこらで「販売」されている物でないことは知らない。
「金」が余って「遊」んでいたのが、たった今までの自分たちであった、という皮肉。

  ▼▼▼街▼▼▼街▼▼▼▼▼街?▼▼▼▼▼▼▼街!▼▼▼BOMB!

  ▼▼▼▼▼最後ニ何カ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼BOMB!

最後の二首。
「▼」という記号は、もちろん降ってくる爆弾をイメージしたものだろうが(第二次大戦やベトナム戦争の大空襲)、音として読んでも、短歌のルールを逸脱していないことに留意。
仮に「▼=ど」、「BOMB=ボム」として読むと、

  どどどどどココガ戦場?どどどどど抗議シテヤルどどどどどボム!(十一首目)

  どど金ガどどどアマツテどヰルノカどど遊ブノハ止セどどどボム!(十三首目)


句跨り等はあるものの、八首目以降すべて定型に収まっている(八首目のみ、初句七音)。
これはもちろん、詠者のこだわりだろう。新規なるものを短歌に加える代わり、それ以外のルールの逸脱を嫌ったのだ。
それはともかく、この十四首目はどう読んだら良いだろう。
いろいろな街に、あるいは街のあちこちに、爆弾が降り注いでいる。そう読んでもおかしくはないが、三つの「街」の上に付けられた▼は街の名を表している、と見ることも出来る。
タイトルは「日本空爆」であり、ひとつの都市のみが攻撃を受けている、と規定することもないのだ。
ただそうなると、日本では都市を○○街と呼ぶ習慣(べーカー街やニューヨーク街のように)があまり無いことがネックになる。無理読みではあるが、可能性の一つとして考えても良いだろう。
ラスト十五首目は、五文字と「BOMB!」以外、すべて▼で埋まる。最後に言い残すことが出来る、とまだ信じている主体の甘さが悲しい。

この一連が発表され、一年後に歌集に収められたとき、短歌界では賛否両論が巻き起こった。
そのほとんどは、大胆すぎる記号の取り扱いについて論じられたが、今見てきたとおり、連作「日本空爆 1991」は、決してアイデアにのみ寄りかかった、発作的作品ではない。
実に用意周到にストーリーや伏線が張り巡らされた一連であり、連作という点で見れば、伊藤左千夫の連作論以降、営々と築き上げられた伝統をフルに活用している。
旧仮名遣い、文語使用(混合ではあるが)、調べの重視等、先に言ったように、短歌のルールを頑ななまでに守る姿勢。
それらがあるからこそ、記号とアルファベットの過剰仕様が生きてくるのだ。

さらに「短歌の伝統」、ということで言えば、「縦書きの効能」が挙げられる。
この一連が発表された当時は、インターネットはまだほとんど普及しておらず、パソコンはおろかワードプロセッサーでさえ、ようやく仕事場などで使われ出したころだ。
それでも、日本語が従来の縦書きから横書きへと、公用文書さえも含めて移行しつつあるのが、この時代だった。
実際、この数年後には、短歌でも横書きの作品は珍しくもなくなる。
だが、この連作に関して言えば、縦書き以外では絶対に効果を発しない。
これを横書きにした時点で、作品の意図、面白味は全て失われ、意味も分からない文字の羅列と化すだろう。
ニューウェーブの旗手の一人である詠者は、数年後に訪れる横書き全盛の時代を、おそらく予感していたはずだ。
だからこそ、日本の伝統である縦書きでしか表現できない作品群を、この時代の変換点に留めたかったのではないか。
 タイトルの「1991」のみ横書きであるところに、詠者の逆説的な意図が伺える。

もうひとつ、特に初出に関して、挙げなければならないことがある。
八首目以降最終首に至るまで、文字数が全く同じであることだ。
カギ括弧やクエスチョン・エクスクラメーションマークも1文字と数え、三十二文字。
ページを開き、まず目に飛び込んでくるのが、その異様なまでの整然さだ。
縦も横も、まるで軍人の整列を見るように、過ぎるほどに揃っている。
見開き二ページの中に、これだけきっちりそろった▼マークが展開された場合、そのインパクトはかなりのものになる。末尾に並べられた「!」が、それをさらに強調している。
初出誌『地表』は、俳句の個人誌である。
俳句は通常、数句をまとめて載せる場合、均等割(頭と尻の文字を揃える)を行うが、その流れで、この一連も(前半七首を含め)綺麗に上下が揃えられている。
そのことが、詠者の意図(当然、意図的だろう)を、ますます浮かび上がらせている。
残念なのは、歌集『あるまじろん』では、そのインパクトが若干薄まっていることだ。
初出誌は、狭い紙面に十五首を詰め込まざるを得なかったハンデを逆用し、▼の破壊力が一目で分かるようになっている。
だが、歌集の場合、その常として、一ページにはそれほど多くの歌を詰め込まない。
もちろん、そこは工夫され、最後の八首は見開きの中に収まるようになっているが、どうしても初出のような密集感が薄れてしまっている。
これは仕方のないことだろう。


湾岸戦争におけるニューウェーブの役割~荻原裕幸「日本空爆 1991」を題材として (2)

2012年09月21日 19時47分44秒 | インターミッション(論文等)

   2.短歌が捉えた湾岸戦争


1990年、91年は、短歌における「ニューウェーブ」運動の最盛期としてよい。
もう少し具体的に言えば、その数年前から半ば自然発生的に展開していた「ライトヴァース」を、意図的に先鋭化、多義化したのが、この時期である。
ニューウェーブとは何か、について論ずると方向を見失う可能性があるので、
「ライトバースの影響を色濃く受けつつ、口語・固有名詞・オノマトペ・記号などの修辞をさらに先鋭化した一群の作品に対する総称」(『岩波現代短歌辞典』)
という定義に従って、とりあえず話を進める。

無論、この時期、短歌界がニューウェーブによって染め尽くされたわけでは無い
しかし、現在(2012年)の立場から見れば、その運動自体は収束しても、方法論はしっかりと短歌界に根付き、その土壌自体を大きく塗り替えた。
「短歌は滅びた」と岡井隆に言わせるほど、その浸透は大きかったと見るべきだろう。
だが、視野をもう少し広げてみれば、これは文学史、日本史、世界史レベルで起こった変革の、ほんの一端であり、「ニューウェーブ運動」と呼ばれるものがことさら起こらなくとも、短歌が現在ある姿になることは、すでに決定づけられていたのかも知れない。
言い方を変えれば、ニューウェーブ運動自体が、歴史に要請された自然発生的なものだったのだろう。

時代の変革が産み落とした、鬼子としての湾岸戦争。
同じく、時代の流れによって生まれた、ニューウェーブ運動。
先に筆者は「偶然によってこの二つは重なった」と書いた。
しかし、両者の発生時期が重なっているのは、別段何の不思議も無く、(グローバルとミニマムの差はあっても)同じ親から生まれた兄弟のようなものなのかも知れない。

ところで、ニューウェーブのみならず、短歌界いや文学界にも多大な影響を及ぼしたはずの湾岸戦争だが、当時の文献を調べてみると、意外にそれに関する評論が少ない。
たとえば現代詩で言えば、藤井貞和の『湾岸戦争論―詩と現代―』(河出書房新社)が比較的有名だが、短歌に限ってみると、まとまった論文も、座談会などの研究も発表されていない。
東北大震災における、活発な論議を目の当たりにしている現在から見れば、ちょっと拍子抜けするほどだ。
それでもコラムや時事評などから拾い上げてみると、
「テレビや報道などを鵜呑みにして作られた歌が多い」「対岸の火事として歌ってはいけない」「時事を扱うときは慎重にならなければならない」
等、今回の震災でも方々で言われた意見が目に付く。

歌われた作品を見ても、ちょっと驚くほど、話題になった作品が少ない。
二、三上げてみると、まず、一番早く目に付くのが、黒木三千代の「クウェート」(『歌壇』1990年11月号)

  侵攻はレイプに似つつ八月の涸(ワ)谷(ジ)越えてきし砂にまみるる

  生みし者殺さるるとも限りなく産み落とすべく熱し産道(ヴァギナ)は

  ペルシャ湾までやはらかな雲充つる最終の日のための、絵日傘

戦争勃発前の、クウェート侵攻を歌ったものだから、これは早い。
続いて、近藤芳美の「大地」(『短歌』1991年1月号)

  掌に掬うほどの温もりを平和とし愚かに日常のかぎりもあらず

  イスラムの世界を知らずかの神も誇りたかき怒りも大地の飢えも

  分割され分割され国土あり埋蔵油田ありなべて砂漠のひかりのくるめき

戦争勃発前の混乱時期に歌われたものだろう。
また、高野公彦「バグダッドの雀」(『短歌』1991年4月号)
これは、おそらく戦争中か集結間際。

  砲弾の焦がして火定三昧の跡のごときを人々囲む

  バグダッドに雀はゐるか雀居らば爆撃に破裂したるもあらむ

  女欲し戦恐ろし男とは思ふことみな羞しき一生

もちろん、この他にも様々な歌人が様々な手法で(例えば、日常詠の中に紛れ込ませたり)歌っているが、正直に言って、首を傾げるものが多い。
歌人はまず詩、作品であることを目指すため、あまり慣れない題材を扱うと、ぎくしゃくしてしまうのかもしれない。
むしろ、歌人に寄らない新聞等の投稿作品の中に、当時の情景を写す歌を見る。
 1991年の『朝日歌壇』から。

  戦争ははじまったかと行商の荷をほどきつつ媼たづぬる   松井 史

  受験など戦争ではない勉強する私たちなど戦士ではない   友岡佐紀

  命乞う捕虜が軍靴にキスをするおのれのために妻子のために   家弓寿美子

  「掃海艇に乗らなかったわけを聞いてくれ」何度も話す酒に酔いつつ   深津豊子

今回の震災を受けて、現在も「報道のみを題材に歌う事の是非」について論議が盛んだ。
だが、報道でしか情報を得るすべのない一般市民において、それを「非」とされることは、「歌うな」と言われるに等しい。
地球の裏側が戦場、誰も兵として赴かず、なのに情報だけは(おそらく偏って)ふんだん過ぎるほどに入ってくる。
そんな高度情報化社会に突入したばかりの時代。一つの時事に対してどのような態度を取るべきか。リトマス試験紙の一つとして、湾岸戦争は作用したのではなかったか。
投稿歌を読むと、生な歌い方がされている分、そんな一人ひとりの苦悩が伝わってくる。

考えてみれば、日本史的な流れで見ても、湾岸戦争は決して対岸の火事などではなかった。
国際連合加盟国の中でもトップの供出金を出しながら、軍隊を派遣しなかったことにより国際的非難を浴びた。
戦争終結後、掃海艇部隊を派遣したことにより、国内で議論が沸いた。
「世界の中の日本」が流行語になり、今まで金だけ出せば解決できると信じていた、高度経済成長期の神話が崩された。
言い方を変えれば、第二次大戦後(もう少し近く言えばベトナム戦争後)、初めて訪れた国家的規模の時事が、湾岸戦争だった。
それまで個人の叙情を歌うことに重きを置き、その技術を磨いてきた短歌にとって、「現代の戦争」という時事は、大きすぎ、生々しすぎる物だったのかも知れない。
そう考えれば、当時の時評・作品等に見られる、どことなく戸惑いを含んだ、腰の引け具合も納得できる。
この後、日本は様々な戦争、震災、事件を連続的に経験し、経済的な冷え込みが常態となり、時事に向き合わざるを得なくなっていく。
その、向き合った《現在的》時事の最初が、湾岸戦争であった、と筆者は考える。


湾岸戦争におけるニューウェーブの役割~荻原裕幸「日本空爆 1991」を題材として (1)

2012年09月21日 19時43分36秒 | インターミッション(論文等)

   1.当時の情勢


ここで言う「湾岸戦争」とは1991年に行われたイラク対多国籍軍による戦闘を指す。
まず、概略を記してみよう。

 1990年8月2日  イラクが隣国クウェートに侵攻。同日中に同国を占拠。
 1991年1月17日 国際連合の決議により、多国籍軍がイラクに攻撃開始。
 同年   3月3日  イラクが敗北を認め、停戦協定締結。戦争終了。

戦闘そのものは1ヶ月半、発端からでも7ヶ月。
人類有史から見れば、小規模の戦闘と片づけてしまっても良い。
だがこの戦争は、世界史上から見ても、日本史、あるいはミニマムな視点で見れば短歌史から見ても、極めて重要なターニングポイントの上に置かれていた。
戦争そのものが、ではなく、後になって「ここがポイントだった」と気づいたときに、偶然(あるいは必然か)この戦争が起こっていた、と言うべきだろう。

流れを分かりやすくするため、年表風に記してみる。

 1989年
  ベルリンの壁崩壊。天安門事件。
  昭和天皇崩御。平成始まる。
  『夢見る頃を過ぎても』藤原龍一郎、『びあんか』水原紫苑
 1990年
  韓国・北朝鮮分裂後初の両国首相会談。ドイツ再統一。
  第二次海部内閣発足。バブル景気崩壊。
  「現代短歌のニューウェーブ」荻原裕幸(朝日新聞)
  『シンジケート』穂村弘、『甘藍派宣言』荻原裕幸
 1991年
  韓国・北朝鮮国連に同時加盟。ソビエト連邦消滅、
  海上自衛隊ペルシャ湾掃海派遣部隊が出発(自衛隊初の海外派遣)。宮沢内閣発足
  『マイ・ロマンサー』加藤治郎、『最後から二番目のキッス』林あまり
 1992年
  ボスニア紛争。クリントン米大統領に。
  佐川急便事件。天皇初めての中国訪問。
  『あるまじろん』荻原裕幸、『ドライ ドライ アイス』穂村弘

『短歌ヴァーサス 十一号』「現代短歌クロニクル」(佐藤りえ作成)から抜粋、多少加筆した。
バブル景気崩壊の時期については諸説あるが、クロニクルに書かれた時期が一番妥当だろうと筆者も判断し、そのままとした。

世界史的に見れば、冷戦の終結、それによる新たな紛争の多発。
その紛争の代表的、サンプル的な一つとして、湾岸戦争は勃発した。
日本史的には、元号の変更、第二次大戦後から続いた好景気の終結。
それまでの歪みが一気に噴出する、その手始めとして、日本はこの戦争に関わった。
そして、有史の中では取るに足らないことではあるが。
短歌の歴史の中でも、この一時期は、重要なターニングポイントとして存在した。そしてその表現のあり方について、湾岸戦争は、深い問いを投げかけたのである。

「私性」ぐるぐる (3)

2011年10月08日 19時20分03秒 | インターミッション(論文等)

 いやいや、話が大きくなりすぎた。
 こんな、大風呂敷を広げて収集がつかなくなるような話をしたかったんじゃないんだ。
 戻そう。
 「私性」とは何か。
 何度も繰り返すが、初めは素朴だった「私性」観も歴史とともに進歩し多様化してきた。
 特に前衛短歌の時代でフィクションの概念が導入された(実はそれ以前からもあったらしいが)ことで、「私性」の範囲が一気に拡充する。有名なところでは寺山修司が死別した母を(実際は修司より長生きした)、塚本邦雄が父との思い出を(実際は乳児の頃に亡くなった)、平井弘が戦死した兄を(彼に兄はいない)。
 このフィクション性については今でも論議の的になるほどだが、現在歌人でもこの手法を取り入れている人は多い。と言うより、(大なり小なり)取り入れていない歌人の方が少ないんじゃないだろうか。
 この手法が「私性」の概念を大きく揺さぶったのは事実だろうが、「私性」の範囲の拡充には大きく貢献したものの「私性」そのものの破壊には繋がらなかった。
 なぜか?
 フィクション性を導入した歌のほとんどが、「If」の世界の中で「私」を歌ったからじゃないか、と僕は思う。
 さっきの例で言うと、寺山は「母が死んでいる世界の『私』」を想像した。塚本は「もし父が生きていたら」の世界の私、平井は「戦死した兄がいたら」の世界の私を。
 つまり「If」の世界を構築し、その中に自分を送り込んだ。送り込んだ自分本体は現実の自分と変わらないから、基本的に「私性」の定義からは外れていないわけだ。まあ、世界に引きずられて多少人格や行動が変わるかもしれないが。
 要するにここでも「一人称の文学」というあのテーゼが付き纏っているわけだ。どんなに飛躍しようとも同じ大地の上なんだから類似性は見つけられるし、戻ろうと思えば元の地点に帰ることも可能だ。
 世界じゃなくて自分を「If」とする手法もある。自分以外のもの、例えば友人でも異性でも、歴史上の人物でもスーパーヒーローでもいい(いっそ街路樹とかスベスベマンジュウウニとか人外の物もおもしろいかもしれない)。そういったものに自分がなったという「If」、そんな視点で作った歌というのも、当然あるだろう(今すぐに例が思い浮かばないのが情けないが)。
 でも、その手法でも先ほどのロジックから抜け出せている歌は少ないように思う。自分が女やヒーローや街路樹やスベスベマンジュウウニになったとしても、中に入った意識が自分本体であるならば、やはりそれは「私」なわけだ。同じ地平の上に存在することになる。
 結局、自分のパーソナリティから歌を切り離さない限り、「私性」「一人称」の問題は、夕闇に伸びる影のようにいつまでもついて離れない。ジャンプしたって木に登ったって、いずれ地に降りなきゃいけないのなら逃げられないのだ。

 「自分のパーソナリティから作品を切り離す」なんてこと出来るのか、とも思うが、他の文学では割合普通にやっているような気がする。小説は言わずもがなだし、現代詩もそれに近い試みをやっているはずだ。俳句は短歌と似た形式だけれど、その短さ故か他の特質があるのか、むしろ「私」を込めない方向で進化してきているように思う。
 「どんなに他者を描こうと、描く筆そのものは自分なのだから、パーソナリティを切り離したことにはならない」という理屈も成り立つが、短歌史の「私性」へのどっぷり具合と比べると、興味深いのは事実だろう。
 文学じゃないけれど比較するとおもしろいのは芝居だ。特に、俳優たち個々の、役への取り組み方の違い。
 ある役者は、役そのものに成りきる。台本にも書いていないその役の人生を作り出し、メンタリティまで別人となる。少なくともそれを目指す。
 別の役者は、どんな役でも自分を前面に出す。役作りをしないではないが、むしろ己の個性を完璧に把握し、その表現に全力を尽くす。役は後からついてくる、という考え方だ。
 この両極端を歌人に当てはめてみると、おもしろくないだろうか。

 ここで、「そんなに違った表現が好きならば、小説家に(または俳人に、役者に)なればいいじゃないか」と言うのは、ちょっとずるいと思う。
 短歌にそういうことが向いているかどうかはともかく、可能性の話を今はしているのだから。
 柔道の大会でレスラーが勝って、「あの戦い方は柔道じゃない」と言われても話が違うのと同じだ。


 さて、長くなった。スケッチや落書きをどれほど積み重ねても、役に立つ結論は出ない。
 でもまあ、「自分はこんな事を考えていたのか」という驚きを感じることは、(運が良ければ)できるだろう。

 最後に自分のこと。
 お前にとって、「私性」とはなんなのか。
(そんな難しい質問にすらすら答えられるくらいなら、こんなに文を連ねてはいないよ。)
 でも、強いて言えば「主人公を創造する」こと、だろうか。
 一首の、あるいは連作中の主人公。それは自分自身でも、他の誰かでもいい。詠み人が納得でき、読む人もそれに納得できる主人公を描く。それが、僕にとっての(今のところの)「私性」。
 更に理想を言えば、先に挙げた役者の、両極端の一方。自分がその役として歌うのではなく、役そのものが歌う。例えば、少女になった自分ではなく、そこに歩いている少女そのものが短歌を歌ったとしたら。ウルトラマンが、ポプラ並木が、揚げたてのコロッケが歌ったとしたら、どんな短歌を歌うだろう。
 そうやって歌われた歌に、「私性」はどのように宿るのだろう。

 いや、とっても美しい、見果てぬ夢物語だってことは分かってるんですよ?
 でもさ。それくらいの夢は、ね。

「私性」ぐるぐる (2)

2011年10月08日 19時17分16秒 | インターミッション(論文等)

 「私性」とは、大げさでなく短歌の根本に関わるほどの概念なんだけど、その割には(少なくとも近年は)あまり話題になってない気がする。特に若い歌人たちの間では。やっぱり「古くさい」っていうイメージがあるんだろうか。
 「なんだかよく分からん」っていうこともあるかもしれない。そんな声もいくつか、インターネットなどで見た。
 実際、この言葉を「これこれこうです」とすらすら説明するのは、とんでもなく難しい。いや、昭和前期くらいまでならばむしろ当然の概念として一言のもとに説明できたのだろう。でも、前衛短歌の時代にいわゆる「私性論争」というのが起きたそうで、そのおかげ(ばかりでもないんだろうが)でやたらにいろんな見方や考え方が飛び出した。さらにニューウェーブやら何やらが拍車をかけ、もはや収集がつかなくなっているらしい。
 例えば、『岩波現代短歌辞典』では穂村弘が2ページを使って「私性」について説明しているが、何回読んでも解るようでどうも腑に落ちない。文章の達人・穂村さんにしてこれなのだから、他は推して知るべしである。
 最近のもので比較的分かりやすいかな、と思ったのは角川『短歌』の共同企画「前衛短歌とは何だったのか」の22年5・6・7月号の一連。しかしこれも、「私性」についてのアウトラインや各個の考えは分かるが、「だから結局どうなの?」というキモが見えてこない。
 こんなもやもやを以前も味わったことがあるな、と思ったら「文語・口語」について調べた時がそうだった。
 これも、昔は一言で説明できるほど自明の単語だったのが、近代・現代・現在と進むにつれ見方が多様化し、非常にめんどくさいことになってしまった。論議する時にもまず「文語・口語とは何か」という規定をしてからでないと話が全然かみ合わなくなってしまう、というのも「私性」と同じだ。その違和感と来たら、某所で豊満な「あけみさん」を指名したらすごくスレンダーな「アケミさん」が出てきたような……いやまあ、それはともかく。

 一つには、「短歌とは一人称の文学である」という、あの有名なテーゼも影響している気がする。
 いつ頃からこの定義が出てきたのかは知らないが、少なくとも始めは「である」という言い切りじゃなくて「に向いている」というソフトな考えだったんじゃないだろうか。
 それがいつの間にか「である」になり、「ねばならない」になり、それにつれて視野も狭まって、それから外れそうなものはすべて「短歌ではない」になってしまった。
 そしてこの流れはそっくり、「狭義の私性」にも当てはまるんじゃないか。
(ここで言う「狭義の私性」とは、「歌イコール詠み人本人」という、最も素朴で歴史のある「私性」観だ。)
 「一人称の文学」「狭義の私性」。どちらも、先達の歌人が長い時をかけて練り上げ、考え抜き、実体験から拾い上げて抽出した概念なんだろう。
 そして、くどいようだけれど僕自身はそれを否定しない。全然否定しない。その考え方から多くのすばらしい短歌が生まれ、多くの優れた論が出た。それはかけがえのない財産だし、現在でも通用する立派な概念だと思う。
 ただ問題は、それらの概念があまりにも力を持ちすぎ、ある時点でひとつの「教義」にまで祭り上げられてしまったことだったんじゃないか。
 いったん「教義」となった概念は、硬化し、視野狭窄を起こし、そこから外れるものを無条件で排除するようになる。周りに押しつけるようになる。「こんなにもすばらしい教えに従わないものは、ここにいる資格はない」と。
 「教義」は単純であるほどいい。と言うより、いったん「教義」になると複雑な思想を含んだものも平べったく単純化して受け取られるようになる。
 この場合で言えば、「自分のことを」「事実のままに」歌にする、という「教義」。
 決して間違ってはいないのだが、その後ろにある膨大な理念を読み取るには簡潔すぎる。そしてだいたいにおいて、万人が理解し納得できる論というのは、どこか落とし穴がある。
 かくして、「日記文学」と揶揄される状況が始まる。それに抵抗する歌人は「邪道」とさげすまれる。非常におおざっぱではあるが。それが近代から続いた(ひょっとしたら現在まで続いている)状況のひとつなんじゃないだろうか。
 その考えに根拠があるのならいい。自分で絞り出したものならもちろん最高。そうでなくとも、先達の多くの文献を読み、これこれこういう理由でこうならなければならないのだ、と説得されるのなら、従うかどうかはともかく喜んで理解するだろう。
 でも、そんな説明も無しに「こういうものなのだ」「こう決まっているのだ」といきなり言われて従う人間がどれくらいいるだろう(いや、けっこう多くいるのかもしれないなあ、とは考えたくないが)。

 人のことばかりを言っているわけにもいかない。逆のことを考えてみようか。
 「私性なんて古くさい」「一人称なんて誰が決めたんだ」「テキストだけを見て善し悪しを決めればいいんだ」こういった考え方を、僕は「教義」化していないだろうか。
 上に並べた考え方は、前衛短歌の時代、遡ればモダニズムやそれ以前から提示されていたものだ。その後、ニューウェーブ等での歌人たちの屈力もあり、かなり浸透したものになってきた。
 けれど、さっきの話の流れを思い起こしてほしい。ある考えが浸透するということは、その考えが「教義化」する危険性も孕んでいるのだ。その考えがどこから来たのか、本当に自分の体内から絞り出したものなのか、納得して使っているものなのか。
 もしも安易に「そういうものなんだ」「それが正しいんだ」と、思っているだけだとしたら……

「私性」ぐるぐる (1)

2011年10月08日 19時14分37秒 | インターミッション(論文等)

 「私性」について、もろもろと考えている。

 『短歌研究』23年10月号の「作品季評」で、やすたけまりさんの歌集『ミドリツキノワ』が取り上げられたのだが、この評が色々な意味で興味深かった。
 読んだ当初は
「いろんな感じ方があるんだなあ、ははは」
と、むしろ面白がって流していたのだけれど、日が経つにつれて、なんだか首の凝りが増していくような違和感を感じた。
 インターネットなどで調べてみると、この「季評」にけっこう反応がある。
 そのほとんどが、評者が示すやすたけさんの歌への拒否反応、その根っこにある「歌は歌人の人生を反映するものでなければならない」という伝統的な短歌観。それらに対する反発だ。
 その問題については、僕個人は特に言うことはない。
 始めに書いたように、人それぞれいろんな読み方があるのだし、そういった古典的な短歌観へのアンチテーゼとしてモダニズム・前衛短歌・ ニューウェーブ・ゼロ年代短歌などが起こったのだ、と言えば言える。
 古典的短歌観が短歌世界全体を覆ってしまうのは何としても息苦しいが、逆にそれがまるっきり無くなってしまった世界というのも、かなりすかすかで頼りないんじゃないだろうか。優等生的な意見ですが、そう思う。

 引っかかったのは、別の箇所だ。

「田中  昔、「私性」という議論がありましたが、この場合はそういうのは完全に希薄化しているというか、作ろうとしていないですね。
 小池  全く無いね。そういうところから発想していない。」

 いわゆる新人歌人の中で、やすたけさんほど「私性」が感じられる人は稀なんじゃないか、というのが僕個人の見解なのだが、とりあえず今は置く(それを追求するとものすごく長くなる上、話題が明後日の方向に飛んで行ってしまいそうだから)。
 目に付いたのはここ。「『昔』、「私性」という議論があった」
 じゃあ何かい、『現在』では「私性」なんてのは取るに足らない概念なのかい、と揚げ足取りの難癖付けなのは百も承知だが、思ってしまったのである。

 そういうわけで、つれづれに「私性」について考えてみる。
 もとより、論考と言えるほど考えは纏まっていない。これから書くのはただのスケッチだ。自分の考えを浮かび上がらせるための落書きに近い。矛盾があってもあまり突っ込まないよーに。