はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

『ちるとしふと』(千原こはぎ)雑感

2018年05月18日 22時22分32秒 | インターミッション(論文等)



 歌集『ちるとしふと』(千原こはぎ 書肆侃侃房)の感想を書こうと何度も想い、その都度挫折している。
 好きな短歌や歌集の感想は、これまでいくつも書いてきた。それぞれの特性に合わせ、アプローチも少しずつ変えていた。が、今回はその方法のどれもがしっくりこない。
 何故なんだろうと考え続けて、ようやく気づく。
 私は、千原こはぎの短歌とその歌の集成である「歌集」が好きなだけなのではなく、『ちるとしふと』という本、物理的に目の前にあるこの本自体に愛着を感じ、感想を言いたいのだと。

 仕方がない。できれば納得する形で書けるまで待ちたかったが、こういうものには旬がある。
周りのブームという意味ではなく、自分内部のテンションの問題だ。これ以上先延ばしにすると時機を逸する。
 本格的な論考はまたの機会に取っておき、今回は頭に浮かんだ感想をランダムに書き付けていくことにする。


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 『ちるとしふと』を手に取りぱらぱらとめくると真っ先に気づくのが、絵の多さだ。
 カラーのカバーイラストが三種類(折り返しのカット含む)、本文中のイラストが22(1ページを占める大きな物が4、小18)。
 画文集でない純粋な歌集(141ページ)では異例の数だろう。しかも既存のカットではなく、すべて著者自身の描きおろしである。

 そもそも、表紙からして目を引く。少し暗めのペパーミントグリーンを基調にし、星空の中を鳥や水生動物が泳ぐ。たくさんのランプを吊り下げた木の下に本を拡げた女性。周りには花、猫、ペンギン、様々な小物。原色をふんだんに使ったイラストは、女性がほぼ白抜きであるだけにいっそう目を引く。帯も表紙に合わせてペパーミントグリーン(というより青竹色と言った方がいいのだろうか。落ち着く色だ)。

 書肆侃侃房「新鋭短歌」シリーズはこれまでに40冊弱が出版されている。判型は統一されていて、表紙も、今までは基本的に余白を多く残した感じで構成されていた。
 が、シリーズ第四期(今のところ三冊)では、どれもイラストがかなり大きくなっている。出版社で若干の方向転換があったのだろうか。『ちるとしふと』はその中でも余白の多い方だが、その代わり原色とそれに近い色をふんだんに使ったかなりカラフルな仕上がりになっている(他の二冊は、薄くヴェールを被せたような淡い感じのイラスト)。
 だが、色合いの割に落ち着いた雰囲気を感じさせるのは、絵柄と構成の勝利だろう。書店に平積みになった場合、自然にふっと目が止まり、イラストをじっくりと眺める。そんな自然なアピール感を持っている。

 千原こはぎはイラストレーター・デザイナーを職業としているのだから絵を描くのはお手の物。表紙が上手くても、イラストが多くても不思議ではないじゃないか。そんな声もあるかもしれないが、私の言いたいのはそういうことではない。
 この表紙と裏表紙、そしてふんだんに挿入されているイラストのすべて(百歩譲ってもその大部分)が、『ちるとしふと』という本を構成するに当たって欠くべからざる要素となっているのだ。

 これは後に書く「ストーリー性」の問題とも関連してくるのでここでは多くを述べないが、通常、歌集に添えられるカットの多くは、言葉は悪いが「添えもの」であり、せいぜいが連作の雰囲気を壊さないよう視覚化を助ける程度の働きしか期待されていない(短歌と同程度のスペースを持って対等に並べられる「画歌集」は除く)。
 しかしこの本におけるイラストはそうではない。短歌の末尾あるいは冒頭に置かれるそれは、歌を補助しふくらみを持たせるばかりでなく、逆に歌たちの魅力を存分に吸収した後、咀嚼して還元し、初読のときに気づかなかった意味を新たに提示させるのである。
 一つ例えを挙げれば、歌集の半ば76ページからの連作で、読者はクライマックスの一つと言って良いコラボレーションを目にするだろう。(これからこの本を読む人の楽しみを奪うのは本意ではないので具体的内容は避けるが、キーワードはクジラ)。

 くどいようだが、絵の多さが問題なのではない。短歌と絵の対比、同調、その絡ませ方が絶妙なのだ。誰でも同じ事が(イラストと短歌その両方をこなせるというだけで)出来るかどうかは、言うまでもないだろう。


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 せんだっての五月十三日、滋賀県草津のジュンク堂書店で『ちるとしふと』刊行記念トークショーが行われた(聴き手は嶋田さくらこ)。
 面白い話が目白押しの一時間半だったが、その中でも特に興味深かった発言を引く(録音をしていたわけではないので、大意であることをお断りする)。



「今までに作った9800首の中から頑張って選んで選んで、1600首くらいにしたんですね。それを(監修である歌人の)加藤治郎さんにお渡しして、400首くらいになって帰ってきて。それをまた一から並べ直したんです」
――もともと、連作が中心なんですよね、こはぎさんは。
「そう。30首とか40首とか一連のなかでストーリーが出来るように読んでるのに、その中から10首、こっちから8首とか、全然繋がらないわけですよ(笑い)。苦労して組んだんだけどやっぱりどうしても繋がらなくて『すみませんやっぱり並び替えても良いですか』って治郎さんに言ったり(笑い)」



 先に「ストーリー性」のことを言った。歌集を通して読めば分かることではあるが、千原はストーリー・物語を非常に重視する歌人だ。一首の屹立性よりはむしろ一連の中でどう物語が進行するか、その場面のどの部分を表しどの部分を水面下に静めるか、に神経を張り巡らせる。

 『ちるとしふと』は一応、千原こはぎの第一歌集と銘打たれているが、実は先行して私家版の短歌本が刊行されている。『これはただの』という文庫サイズの短歌本は2015年9月に発表され、文学フリマや通販、有志の書店で現在も販売中だ。。
 これは『ちるとしふと』よりもさらにストーリー性が高く、フルカラーのイラストに20の連作が綾を成すように展開する。しかも、そのほとんどが恋愛、性愛、逢瀬の歌だ。



「恋の歌、めっちゃ好きなんです。それしか詠めないくらい。他の方の歌を読むときは職業詠とかもすごく好きなんですけど、自分で詠むのはとにかく恋歌」
――ネットプリントとかブログとかでも。
「そう。なのに(加藤)治郎さんから新作詠めって。新作?9800首あるのに、入れたくて落とした歌いっぱいあるのに、この上新作?って。しかも、職業詠!どうやって歌うの職業詠って!!(笑い)」
――うわあ。
「仕方ないんで必死になって詠んだんですけど、やっぱり私、恋歌好きすぎるんで自分の職業詠が良いのかどうか、全然分からないんですね。治郎さんや他の皆さんに褒めていただいて、ほっとしてるんですけどやっぱり……」



 一からすべてを自分自身だけで作り上げた『これはただの』と、有名歌人が監修し商業出版社から刊行された『ちるとしふと』の一番の違いは、おそらくそこにある。

 単に職業詠の有無だけではない。夥しい歌の中から、監修という冷徹な第三者が選択した短歌は、必ずしも恋歌のみではなかった。
 そもそも、恋をモチーフに連作を作ったとしても、そのすべてが直接に恋愛感情や逢瀬を詠んでいるわけではない。むしろ、激しく切ない恋愛の合間を彩るように、生活を描写した短歌も数多く歌われている。
 千原の感覚ではそれも恋歌の一バリエーションなのだろうが、連作という枠から外されたとき、それは活き活きとした生活詠として別の光を放つのだ。

 そういった日々の営みを語る歌と、従来からの恋愛歌。それらを改めて織り上げることにより、『ちるとしふと』は『これはただの』とは違った側面を語り得る作品となった。
 おそらく、ではあるが、加藤治郎は半ば意図的にそういった選歌を行ったのではないか。
 加藤が『これはただの』を手に取っていたかどうかは不明だが、千原の持つ表現領域を、彼女自身に自覚させたかったのではないだろうか。あなたは、こんな風にも歌えるんだよ、こんな歌も歌ってきているんだよ、と。


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 ここで、極めて個人的な感想を書く。
 二年半前、『これはただの』を手にしたとき、私は文字通り躍り上がって喜んだ。何度も読み返し、好きな歌に付箋を貼り、機会あるごとにこの本を周りにみせびらかした。
 しかし(ほんとうに小さな声で言ってしまうが)今にして思えば、この歌集の恋愛的ストーリーの濃さに、少々当てられていた気味も無いではなかった、ようだ。『ちるとしふと』を読んで初めて自覚したことではあるのだが。

 私はもともと、恋歌一般はさほど好きではない。嫌いだという意味ではなく、職業詠・生活詠・想像詠など、短歌の無数のバリーションの一つとして認識しているだけで、突出して好むということはあまり無かった。自分で作歌するときも、恋の歌はまず作らない。
 そういった意味では、私は千原こはぎの「恋愛歌が好き」なのではなく、千原が織り成す(愛も含めた)「歌の世界」そのものが好きなのだ。
 恋人と逢瀬を重ねているときはもちろん、喫茶店でひとりぼんやりし、終電で街の灯を眺め、猫とたわむれ、体調管理に苦労し、今日と明日の狭間を思って眠りにつく。そんな、当たり前の生活を当たり前の言葉で活き活きと目の前に示してくれる、歌の数々に魅了されたのだ。
 『これはただの』の世界に浸りながらも、「もう少し、もうちょっと」と自分でも意味不明の呟きが漏れたのは、恋愛の連作に垣間見える日常をもっと見たい、と無意識に思っていたのかもしれない。

 ゆえに、今回の『ちるとしふと』はある意味、私の理想の歌集でもある。
 この本の中では、とある普通の女性が生きている。
 仕事にこだわり悩み、人間関係に苦労しつつも人々を大切にし、料理と猫と季節の移り変わりと風と歌が好きで、自家中毒と自己嫌悪に苦しみながらもしたたかな柔軟さを持ち、そして恋と恋人を心から愛する、肩の上で髪を切り揃えた少し痩せぎすの、どこにでも居る女性が生活している。
 その女性を千原は、平易に描写している。凝った仕掛けやアングルを用いず、愛しさを込めながらも、同時にまるでレンズを通して見るかのようにほんの少し突き放して、そしておそらくはデフォルメして活写している。
 恋愛だけの世界ではない。
 恋も大いに含んだ、とある生活の物語。
 それが、私に手渡された『ちるとしふと』の世界だ。


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 これから、千原こはぎがどのような歌の世界を織っていくのか、それは分からない。
 彼女はもともと、根っからのクリエーターである。私家版はもちろんのこと、商業出版の歌集でも可能な限り自分の神経と血液が隅々まで行き交うように、努力に努力を重ねてきた。それは、この歌集をひもとき、先のトークショーを聞いただけでも充分に伝わってくる。

 自分が納得のいくものを。手にする人が喜んでもらえるものを。私が力の限り作ったものですと胸を張って手渡せる物を。
 おそらく、彼女はその事のみを念頭に、この歌集を練り上げてきた。
 口で言うのは容易い。だが本当に(文字通り)体を張って自分の本を育て上げる事の出来る歌人が、いや作家が、どのくらいいるだろう。情熱だけでなく、技術をも伴って出来る人が。

 だからこそ、千原は『ちるとしふと』が一端を示した世界に拘らないかもしれない。
 彼女にとっては、(言葉は悪いが)第三者に言われて心ならずも歌い、練り上げた風景だ。「良いか悪いか自分では分からない」世界よりも、主戦場であると彼女が認識している恋の歌を突き詰めていくのかもしれない。

 それは、いい。
 どちらの方向に(あるいは、私などが全く想像もつかないような方向に)進むにせよ、種は蒔かれ、成長し、収穫されたのだ。
 『ちるとしふと』という形に織られたこの世界は、影になり日向になり、千原こはぎの歌を滋味深く深化させていくだろう。

 自分の好きな歌人が、さまざまな影響を受けつつも自力で進んでいく。
 短歌ファンとして、その光景を見続けるほどスリリングで幸福なことはあるまい。



     了



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