はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

「短歌研究 2011年1月号」詠草・うたう☆クラブ

2011年01月23日 15時43分31秒 | 日詠短歌

「詠草」

精神科を「心療内科」鬱病を「鬱症状」と友達に言う

感心をする削げ方よケータイの目玉おのれの頬に向けおり

苦笑してただ見つめ入る 白刃が我の頭を切り飛ばす様

緑みどり緑しか無い六月の里山公園 風なまぬるく (☆)

ぽんと投げ結局なにもなかったと歌に残して終わる本厄


「うたう☆クラブ」

朝靄の河原に濡れる黒馬の吐息はすべて朝もやとなる (☆)

霧雨を受けとめているアスファルトしゃーっしゃーっと車が過ぎる

三十一拍に自分を捏ねあげて放る あくまもとっくにしんだ
(放る=ひる)

冬の陽に窓と網戸は重なってナナホシテントウを閉じこめる

鳥に沿い鴉 谷に沿い谺 ジャングルジムに沿って雅と



『短歌研究』の「詠草」欄と「うたう☆クラブ」に、(ほぼ)毎月投稿しています。
備忘録の意味と、一応作歌活動もしてるんですよ、という報告として、このブログにも載せていくことにしました。
(☆)の付いたものが、採られた歌です。
一応、「詠草」の方を連作的に、「うたう☆クラブ」はランダムに、という分け方はしています。
あくまで「一応」ですが。
しかし、こうして改めて見ると、意味の分からない歌ばっかりだな、我ながら。
まあ、いつものことですが。


「口語化」について私はなぜ頭を抱えたのか(3)

2011年01月15日 22時27分48秒 | インターミッション(論文等)

   (続き)


 話は少しずれるが、ちょうど今『短歌と日本人 Ⅶ~短歌の想像力と象徴性』(岡井隆編 岩波書店)を読んでいて、その中の座談会で、永田和宏が発言している。

 岡井  (中略)短歌というのは基本的には文語定型だと思いますか?
 永田  まさにそれ以外のものではあり得ないと思います。
 岡井  いま、口語短歌的なもの、あるいは口語と文語の混合体が非常に盛んですね。
 永田  いまの口語短歌が成熟する頃には、それは文語になっているんだと思うんです。なぜいまの口語短歌は軽くて物足りないかというと、口語で定型におさめるほどには助詞、助動詞が成熟していないという気がします。
   (中略)
    みんな口語的なものをどんどん入れようとしていくんだけれども、それが快く感じる頃にはある種の文語的な感じられ方をして、うまくおさまっている。そういうものだと思います。

 それはちょっとないんじゃないの、と僕なんかは思う。
 もちろん、前後の文脈をすっ飛ばして気になる部分だけをあげつらってどうこう言うのが、卑怯だということは承知している。
 この座談会は1998年に行われたものだから、10年以上たった現在とは事情が違う、ということも分っている。
 それでも、そりゃないよ、とどうしても思ってしまう。
 口語を使っていかにして短歌を作るか。
 四苦八苦してそれを行い続け、ようやく短歌に馴染んだ口語表現を作り上げたと思ったら、「それはもう文語なんだよ」と言われてしまうと、どうしても恨み言のひとつも言いたくなる。
 永田氏は、僕の大好きな尊敬する歌人であるから、なおさらそう思うのかもしれないが。
 まあ、これは余談。


 斉藤氏は、『短歌時評』の終わりで
「口語で歌を詠むべきである、べきであるのに口語に限界を感じ、深いところの必要から文語を選びとる歌人がおのずから生まれて、はじめて口語化の流れが止まる」
と述べている。
 100%、同意見である。
 同意見ではあるが、それでも思う。
 「口語に限界を感じ」ながらも、口語にこだわり続ける歌人たちも、またそう簡単にはいなくならないのだろうな、と。


   (お終い)

「口語化」について私はなぜ頭を抱えたのか(2)

2011年01月15日 22時25分28秒 | インターミッション(論文等)

   (続き)


 で、話は斉藤氏の論に戻る。
「完全口語をつらぬくには特殊な動機が必要であり、すなおな自己表現をめざしている人は早晩、文語を取り入れるようになる。」
 その論自体に異論は無いが、ここでこだわりたいのは
「特殊な動機」
を有している人たちのことだ。
 氏の論は今までに見ない斬新な物であるが、「すこし本気を出」した歌人たち(あるいは短歌愛好者たち)の中には、それでも口語にこだわり続けている人も少なからずいる、という現実には、あまり触れられていない。
 短歌の世界では極端に顔の狭い僕だが、それでも、口語にこだわりながら何年も地道に短歌を作り続けている人たちを、(作品の上のみではあるが)何人も知っている。
 では彼らは、先達たちの作品に目も向けず、ただ自分の自己表現のみに邁進しているのか?
 否。断じて否、である。
 彼らの作風を見れば分る。
 それぞれ、アプローチの仕方の差異はあるだろうが、短歌のみならず、あらゆる文芸から貪欲に吸収し続けていることが、痛いほどに分る。
 それでも彼らが、口語にこだわるのは何故か。
 僕には、「自己表現しやすい」から、という単純な理由だけとは、どうしても思えない。
 誤解を恐れずに言えば、彼らは「文語を恐れている」のではないだろうか。

 「恐れている」と言っても、当然のことながら、使い慣れていない語を使うのが怖いとか、語彙や文法を学ぶのが億劫だとか、そんな表層的な理由ではない。
 先ほど書いたことと重なるが、彼らは、文語があまりにも短歌に馴染み、表現が自在に《出来過ぎる》ことを、恐れているのではないか。
 斉藤氏が「特殊な動機」と表現したように、短歌を知りつつも口語にこだわる人たちは、ある程度の屈託を抱えている。
 表現を変えれば、口語で短歌を読むことに、屈折した(と言っていいだろう)誇りを抱いている。
 つまり彼らは、文語という高性能なヴィークルを乗りこなして自己のより深い表現を目指すより、口語という不完全で乗り心地の悪い乗り物をあえて選び、その未知の可能性に賭けたのだ。
 仮に、使いやすいから、という単純な理由で使い始めたにせよ、その性能が分った現在でもあくまで愛馬に固執する。
 その限界を見極めたいと願っている。
 そんな一群も存在していることが、僕には嬉しく、誇らしい。
 自分が、半分その乗り物からドロップアウトしているからこそ、なおさら。


   (続く)


「口語化」について私はなぜ頭を抱えたのか(1)

2011年01月15日 22時23分17秒 | インターミッション(論文等)

 『短歌研究』1月号を読んで、頭を抱えたのである。

 『短歌時評』のページで、斉藤斎藤が「口語化の流れを止めるために」という題で論を展開している。
 ちなみに、同誌が主催する「現代短歌評論賞」の今年の課題は、『現代短歌の口語化がもたらしたもの、その功罪』。
 それに応募するべく、「こんなことを書こうかな」と漠然と思っていた、まさに「こんなこと」を、斉藤氏はたった2ページで(いや、前半は「電子書籍」に関しての考察だから、1ページ強か)明快に論じているのだ。
 しかも、僕が思いも至らなかった結論にまで言及して。
 またテーマを探し直さなきゃならない憂鬱はこの際置くとして、せっかくなので氏の論についての感想や、それに関連して自分が考えていることを、メモ風に書いていきたいと思う。

 斉藤氏はまず、「若手歌人の口語化の流れには、数年前から歯止めがかかっている」と言う。
「口語で歌をつくりはじめた初心者が、すこし本気を出せば気づくことだが、口語だけで短歌をつくりつづけるのは、実際とてもむずかしい」
「完全口語をつらぬくには特殊な動機が必要であり、すなおな自己表現をめざしている人は早晩、文語を取り入れるようになる。」

 論として賛成できるものであり、実際、身につまされる言葉でもある。
 僕自身、「すこし本気を出」した初心者であったし、本気を出せばどうしても近現代の先達たちの歌を、または「和歌」と呼ばれた時代の歌を読むようになる。
 そこで出会うのは、圧倒的なまでの文語であり、圧倒的なまでの表現の豊穣だ。
 私事になるが、漠然とそう感じていたこともあり、昨年の『題詠100首』では慣れぬ文語で作歌を行った。
 結果、思い知らされたのは、五七五七七という短歌の定型と文語との、呆れるほどの相性の良さだった。
 短歌という表現方法の中で文語を用いると、どんなに拙い表現をしても、一応《短歌》として認知されうる形態となるのだ。
 千三百年、とひとくちに言うが、短歌という形式が積み重ねてきたものに、改めて脱帽せざるをえない。
 もしもこの「文語」というヴィークルを、自在に乗りこなすことが出来たら……
 肌が泡立つほどの誘惑に駆られたのは、正直、事実だ。


   (続く)