はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

笹短歌ドットコム お題「日本昔ばなし」

2008年11月30日 17時25分47秒 | 日詠短歌
旧聞になりますが、笹短歌ドットコム お題「日本昔ばなし」で取っていただきました。

 いま栗が爆ぜたところか台本を袂に仕舞う屋根上の臼
 (さるかに合戦)
 包丁の持ち出されくる気配聴きそつと片へに寄る桃太郎
 (桃太郎)
 上手投げ、おかっぱ、丸きお尻の絵(あれは欲情だったんでしょう)
 (金太郎)
 浦島は叩きつづけるあの子らの名の刻まれた亀甲墓を
 (浦島太郎)
 「ドラゴンはいずくにおるや」ダイナゴンと名乗る異人にニルスは出会う (×)
 (竹取物語)

5首投稿して、最後の(×)印が、取られなかった歌です。
こうして見ると、取られなかった理由も分かりますね。あまりに一人合点に過ぎる。

意外性と共感を、同じ語に納めなければならない。
今さらながらに、短歌とはむずかしいもんであります。

ともしび(斎藤茂吉料理歌集)

2008年11月26日 06時24分12秒 | 斎藤茂吉料理歌集
「ともしび」


 大正十四年

蕗(ふき)のたういまやふふまむ蓮華寺(れんげじ)の○應(りゆうおう)和尚を訪(と)ひがてぬかも
〔○=漢字〕

やけのこれる家に家族があひよりて納豆餅(もちひ)くひにけり

かへりこし家にあかつきのちやぶ臺(だい)に火○(ほのほ)の香(か)する澤庵を食(は)む
〔○=漢字〕

家いでてわれは來(こ)しとき澁谷川(しぶやがは)に卵のからがながれ居にけり

霜しろき土に寒竹(かんちく)の竹の子はほそほそしほそほそし皮をかむりて

たかむらのなかに秋田の蕗の薹(ふきのたう)ひとつは霜にいたみけるかも

いましがた童(わらべ)が居りて去りけらしあかつきの土にこぼれたる鹽(しほ)

さしあたりてただただ空(むな)し納豆を食(は)まむとおもふ念願(ねがひ)こそあれ

はしけやしこの身なげきて虎杖(いたどり)のひいづるときになりにけるかも

うまれし國にかへりきたりてゆふされば韮(にら)をくひたり心しづかに

丸山の夜のとほりを素通りし花月(くわげつ)のまへにわれは佇(たたず)む

茂吉には何かうまきもの食はしめと言ひたまふ和尚のこゑぞきこゆる

ひかりさす松山のべを越えしかば苔よりいづるみづを飲むなり

桑の實はいまだしとおもふなり息長川(おきながかは)のみなかみにして

烟草をやめてよりもはや六年(むとせ)になりぬらむ或る折(をり)はかくおもふことあり

梅賣(うめうり)のこゑの(すが)しさやわが身にははや衰ふるけはひがするに

ただ一つ生きのこり居る牡鶏(をんどり)に牝鶏(めんどり)ひとつ買ひしさびしさ

をさなごの熱いでて居る枕べにありし櫻桃(あうたう)を取り去らしめし

四五日まへに買ひてあたへし牝鶏(めんどり)が居なくなれりといふこゑのすも

逢坂をわが越えくれば笹の葉も虎杖(いたどり)もしろく塵(ちり)かむり居り

逢坂の山のふもとに地卵(ぢたまご)を賣るとふ家も年ふりて居り

その家に鶏(とり)の糞をも賣るといふ張紙(はりがみ)ありてうらさびしかり

山のべにかすかに咲ける木莓(きいちご)の花に現身(うつしみ)の指はさやらふ

山がはの鳴瀬(なるせ)に近くかすかなる胡頽子(ぐみ)の花こそ咲きてこぼるれ

毒(どく)ぐさの黄いろき花を摘みしときその花恐れよといへば棄てつる

やまこえし細谷川に棲むといふ魚を食ふらむ旅のやどりに

ふかやまのはざまの蔭におちたまり栗のいがこそあはれなりけれ

栗のいが谷まのそこにおち居れば夏さりくれどしめりぬるかも

山路來て通草(あけび)の花のくろぐろとかなしきものをなどか我がせむ

初夏の山の夜にして湯に沾(ひ)でし太き蕨も食(を)しにけるかも

細谷のすがしきみづに魚(うろくづ)の命とりたりと思ひつつ寝し

山水(やまみづ)にねもごろあそび居りぬらむ魚のいのちを死なしめにけり

すがすがし谿のながれに生(うま)れたる魚(いろくづ)をとりて食ふあはれさよ

おきなぐさ小(ちひさ)き見れば木曾山に染(し)み入るひかり寒しとおもふ

白頭翁(おきなぐさ)ここにひともとあな哀(かな)し蕾(つぼみ)ぞ見ゆる山のべにして

山かげのながれのみづを塞(せ)きとどめ今ぞ魚(うを)とる汗かきながら

魚とると細谷川のほそみづにいさごながれてしましにごりぬ

谷あひをながるる川の水乾(ひ)るとさざれに潛(ひそ)むき魚あはれ

と淵とこもごもあれど日の光あかきところに魚は居なくに

塞止(せきと)めて細きながれのにごるときはやも衰ふる魚ぞ哀しき

吾つひに薯蕷汁(とろろ)をくひて滿ち足らふ外面(とのも)に雨のしぶき降るとき

うろくづの香(か)のたえて無き食物(をしもの)を朝な夕なに殘すことなし

紀伊のくに高野(かうや)の山のくだり路(ぢ)につめたき心太(ところてん)をぞ食ひにける

年ふりしいまの現(うつつ)にたかのやま魚燒く香こそものさびしけれ

ひる未(まだ)き高野(かうや)のやまに女子(をみなご)と麥酒(むぎざけ)を飲みねむけもよほす

峠路のながれがもとの午餉(ひるがれひ)梅干のたねを谿間(たにま)に落す

山なかのほそき流れに飯(いひ)のつぶながれ行きけりかすかなるもの

山つみの目に見えぬ神にまもられて吾ら夕餉(ゆふげ)の鮎(あゆ)くひにけり

しづかなる眠(ねむり)よりさめ三人(みたり)くふ朝がれひには味噌汁は無し

栗(あをぐり)のむらがりて居(を)る山はらに吾はしまらく息をやすめぬ

あしびきの山のたをりにこころよし熟(う)めるしどみの香(か)をかぎ居れば

山なかに一夜(ひとよ)明けつつ味噌煮ると泉(いづみ)のみづはわれ汲みて來(こ)む

かすかなるものにもあるかうつせみの我が足元に痰(たん)なむる蟲

うつしみは苦(くる)しくもあるかあぶりたる魚(いを)しみじみと食ひつつおもふ


 昭和元年(大正十五年)

いちじゆくのあらき枝(えだ)には芽ぶかねばさへづる鳥の濡れたるが見ゆ

味噌しるのなかに卵を煮て食ふは幾年(いくとせ)ぶりに食ふにやあらむ

をさなごを遊ばせをればくりやより油いたむる音もこそすれ

ゆふぐれて吾(あ)に食はしむと煮し魚(いを)の白き目の玉噛みゐたりけり

さ夜ふけと春の夜ふけしひもじさに乳(ちち)のあぶらを麺麭(ぱん)にぬりつつ

うめのはな咲けるを見れば穉(をさな)くて梅の實くひしむかしおもほゆ

行春(ゆくはる)の部屋かたづけてひとり居り追儺(つゐな)の豆をわれはひろひぬ

きぞの夜に叫びもあげず牡鶏(をんどり)は何かの獸(けもの)に殺されて居り

ついでありてわれ郊外に來てみれば麥(むぎ)の畑はいろづきにけり

あまつ日の光はつよし米(こめ)負(お)ひて山に入るひとここにいこひぬ

秋に入りし歩道あゆみて我は見たり四角の氷を並(な)めて挽(ひ)けるを

秋づきて心しづけし町なかの家に氷を挽(ひ)きをる見れば

おのづから生(お)ひしげりたる帚(ははき)ぐさ皆かたむきぬあらしのあとに

道のべに黄いろになりしくわりんの實棄ててあるさへこよなく寂し

信濃路(ぢ)はあかつきのみち車前草(おほばこ)も黄色になりて霜がれにけり

みすずかる信濃の國は車前草(おほばこ)もうらがれにけり霜をかむりて

やま峽(がひ)の道にひびけり馬車(うまぐるま)は秋刀魚(さんま)をつみて日ねもすとほる

煉乳(ねりちち)の罐(くわん)のあきがら棄ててある道おそろしと君ぞいひつる


 昭和二年

食ひしものおのづからこなれゆくごとくつづけざまにも吉報をきく

いのち死にし友をぞおもふこのゆふべは鰌(どぢやう)を買ひてひとりし食はむ

かすかなる湯のにほひする細川に鱗(うろくづ)のむれ見ゆるゆふまぐれ

とどこほるいのちは寂しこのゆふべ粥(かゆ)をすすりて汗いでにけり

をさなごは吾が病み臥せる枕べの蜜柑を持ちて逃げ行かむとす

南かぜ吹き居(を)るときに々と灰のなかより韮(にら)萌えにけり

はやりかぜにかかり臥(こや)ればわれの食ふ蜜柑も苦(にが)しあはれ寂しき

うちわたす麥の畑(はたけ)のむかうより蛙(かはづ)のこゑはひびきて聞こゆ

あをあをとむらがりながら萌えて居(を)る藜(あかざ)のうへに雨ふりにけり

ものぐるひの命(いのち)終(をは)るをみとめ來てあはれ久しぶりに珈琲を飲む

しぐれこし吾が廢園(あれその)の帚(ははき)ぐさ赤らみにけりかたむきながら

秋さむくなりまさりつつ旅を來て北信濃路(ぢ)に鯉こくを食ふ

朝よひにおしいただきて食(は)む飯(いひ)は鱗(うろくづ)の香(か)ぞなかりけるかな

葛(くず)の花ここにも咲きて人里(ひとざと)のものの戀(こほ)しき心おこらず

夏山のみちをうづめてしげりける車前草(おほばこ)ぞ踏む心たらひて

大(おほ)き聖(ひじり)この山なかの岩にゐて腹へりしときに下(を)りゆきけむか

この巖(いは)より滲(し)みいづる水かすかにて苔(こけ)の雫(しづく)となりがてなくに

晝すぎし龍門外(りゆうもんぐわい)にわれは來て氷水(こほりみづ)をばむさぼりて飲む

山なかの畑を見ればきなくさき煙を立てて燃えをるものよ

しづかなるこの谷間(たにあひ)に々と稲田(いなだ)いくつかあるも親しき

道のべにどくだみの花かすかにて咲きゐることをわれは忘れず

ひと乗りてけふの朝明(あさけ)に駿河よりのぼり來し馬か山に草はむ

稻を扱(こ)く機械の音(おと)はやむひまの無くぞ聞こゆる丘のかげより

たどりこしこの奥谷(おくだに)に家ありて賣れる粽(ちまき)はまだあたたかし

湯の宿に一夜ねむりし朝めざめまたたびの實の鹽漬を食ふ

ゆふがれひ食ひつつ居れば川波の寒きひびきはここに聞こゆる

鹽づけにしたる茸(きのこ)を友として食へばあしびきの山の香(か)ぞする

かたばみの々とせし葉をぞ見る廢(すた)れし園(その)に霜ふりしかど

郊外の家の庭には唐辛子をむしろのうへにもり上げて干す

一人してしばしあゆまむ公園に時雨(しぐれ)は降りぬ橡(とち)の落葉ふかく

木曾やまに啼きけむ鳥をこのあしたあぶりてぞ食ふ命(いのち)延(の)ぶがに

朝あけし厠(かはや)のなかにゐておもふけふのゆふべは何を食はむか

ゆふぐれし机のまへにひとり居りて鰻(うなぎ)を食ふは樂(たぬ)しかりけり


 昭和三年

よるふけし街(まち)の十字にしたたかに吐きたるものの氷(こほ)りけるかも

墓地の木にすくふ鴉(からす)かむらがりて我がいへの鶏(かけ)おそふことあり

あわただしく起臥(おきふ)すわれに蕗の薹くふべくなりぬ小さけれども

あづさゆみ春ふけがたになりぬればみじかき蕨(わらび)朝(あさ)な朝な食ふ

五月雨(さみだれ)の雨のれたる夕まぐれうなぎを食ひに街(まち)にいで來し

ゆふぐれの光に鰻の飯(いひ)はみて病院のことしばしおもへる

さ夜ふけと更けわたるころ海草(かいそう)のうかべる風呂にあたたまりけり

朝がれひ君とむかひてみちのくの山の蕨を食へばたのしも

夕がれひの皿にのりたる木布海苔(きふのり)は山がはの香(か)をわれに食はしむ

にぎり飯(いひ)を持てこし見ればほほの葉に包まれながらにほふひととき

大井澤(おほゐざは)わたらむとして岩魚釣りその歸(かへ)り路(ぢ)の山びとに逢ふ

湯殿山(ゆどのやま)一の木戸なる藥湯(くすりゆ)のあつきを飲みていろいろ話す

笹小屋(ささごや)にひととき入りていこふなべ笹竹(ささだけ)の子の長きを食ひぬ

味噌汁に笹竹の子を入れたるをあな珍(めづ)らあな有難(ありがた)と云ひつつ居たり

峠にてほとほと疲れ心太(ところてん)みたりは食ひぬ腹ふくるるに

朝がれひ旨(うま)らに食へど足いたし諸足(もろあし)いたしかがみがたしも

さすたけの君がなさけは信濃路の高山(たかやま)の蕨けふぞ持てこし

あかつきに小芋(こいも)をいれて煮る汁の府中の味噌は君がたまもの

たちまちにいきどほりたる穉兒(をさなご)の投げし茶碗は疊を飛びぬ

夕飯(ゆふいひ)に鰻も食へどゆとりなき一日(ひとひ)一日は暮れゆきにけり

毬(いが)ながらけふおくりこし吉備(きび)の栗秋ふけゆかむ山しぬべとぞ

利根川を幾むらがりにのぼりくる鰻の子をぞともに養ふ

悠紀主基(ゆきすき)の田ゐのみのりをあまてらすすめ大神(おほかみ)ときこしをします

いやしかる御民(みたみ)のわれも酒のみて大臣(おとど)のごとく祝(ほ)がざらめやも


 (原本 齋藤茂吉全集第二巻(昭和四八年))

『現代短歌朗読集成』(同朋舎メディアプラン)(5)

2008年11月23日 17時50分44秒 | インターミッション(論文等)
(4)まとめ

 以上、おおまかにはこの3つのポイントに分けて、この集成は見ることが出来る。
 もちろん最初に言ったように、このポイントはそれぞれ独立しているのではなく、お互いに絡み合い、重なり合っている。
 声の質はそのまま歌い方に重なり、それは構成や演出を導き出す要素にもなる。
 歌い方や演出は、時代の拘束を多少なりとも受けることは、先に述べたとおりだ。

 また、3つの時代は決してそれぞれ断絶しているわけではない。
 30年、40年、あるいは70年の隔たりを飛び越えて、それぞれの時代は確かに地続きに繋がっている。
 願わくば、もう少し多くの時代、例えば10年20年刻みで記録が残っていたら、と思わないでもない。
 しかし、そんな無い物ねだりをするより、古い記録を大切に保存し、新しい記録を残し、それらを一つにまとめて提供してくれたことに感謝すべきなのだろう。

 堅苦しい文章を並べてしまったが、さまざまな意味においてこの『現代短歌朗読集成』が興味深く意味深いものであることは疑いようがない。
 短歌をこころざす者に有益であることはもちろん、昭和以降の現代史を音声によって眺める、そのことの一助にもなる。
 なにより、日本語をあやつり、また日本語に興味を持つ者にとっては、またとない宝物となるだろう。
 日本語の粋である短歌と、それを作り上げた歌人の「現代」を集めた、結晶として。

(了)

『現代短歌朗読集成』(同朋舎メディアプラン)(4)

2008年11月23日 17時40分32秒 | インターミッション(論文等)
(3)録音時の時代と背景が推察できる

 この『現代短歌朗読集成』は、3つの時代にわたって録音された朗読が収められている。
 はじめは1938年。次に1977年。そして2007年。
 歌集にある収録年一覧を見ると、それぞれ録音された時代の背景が浮かび上がってくる。

 1938年は日中戦争たけなわの頃。太平洋戦争は目前である。聖戦が叫ばれていた時代ではあるが、読まれたものに戦争賛美や天皇礼賛の歌がほとんど無いところを見ると、まだわずかなりとも文学の自由が残されていたのか。それともガス抜きのために、あえてこのような企画が催されたのか。

 1977年は高度経済成長も一段落し、そのひずみがあちこちで吹き出している時代だが、同時に数年後に来るバブル景気の基になった時代でもある。
 まだ人々は上を見上げ、新しいものを欲していた。その空気がこの録音にも繁栄されている。
 音楽を駆使し、構成の新規をこらし、新しさを求めた朗読は、ほとんどこの1977年に収録されている。
 その時代の熱気が今となっては少々気恥ずかしくもあるが、その気恥ずかしさは、今が「微熱の時代」であることの反証なのかもしれない。

 そしてその「今」である2007年。新しさや熱さよりも、確かさ、穏やかさを中心に据えたような構成がほとんどで、前の2つの時代と比べてとても対照的だ。
 まるで、静かであることが一番大切なことだとでも言うように。
 その中で福島泰樹の『短歌絶叫コンサート』は異彩を放っているが、うがった見方をすれば、この熱狂も「静かな温気」の裏返しであると言えなくもない。

 印象論ばかりでも仕方がないので、少し実際的なことにも目を向けよう。
 3つの時代を聞き比べると、その詠じ方にもそれぞれの特徴があることが分かる。
 1938年ごろは和歌の詠唱法が一般的だったのだろう、ほとんどの歌人はその影響を受けた節回しで歌っている。
 それから40年経つと和歌の影響はぐっと減り、現代話法の抑揚で歌われることが多くなる。歌人は声を張り、あるいはささやくようにして歌い、いったいにメリハリの付いた詠唱となる。
 さらに30年が過ぎると、抑制のきいた歌い方が主流になってくる。和歌の影響はもうほとんど無く、静かなることによって歌の本意を浮かび上がらせる手法が多く取られる。

 2007年の印象をもう一つ言えば、読み方が「うまく」なってきた、ということだろうか。
 声の質や明瞭さは別として、詠者は
「録音媒体によって自分の声を聴かせる」
ということに、他の時代よりも慣れているように思える。
 俗に言ってしまえば「プロっぽい」ということになろうか。
 TVその他の普及により、30年前よりもマスコミュニケーション的話法が浸透した。
 こじつけではあるが、そう思えなくもない。

『現代短歌朗読集成』(同朋舎メディアプラン)(3)

2008年11月22日 18時04分45秒 | インターミッション(論文等)
(2)歌人それぞれの朗読の構成、演出を楽しめる

 各歌人はそれぞれ3~10分程度の時間を持って朗読を行っている。
 解説等には特に書かれていないが、その持ち時間内での構成や演出(どの歌を読むか、どのように読むか)は、各歌人に任されているようだ。

 当然といえば当然かもしれないが、各歌人はその中で、自分の代表歌(と世間が見ているもの)を必ずしも歌わない。
 与謝野晶子は
「やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君」
を歌っていないし、北原白秋も
「君かへす朝の舗石さくさくと 雪よ林檎の香のごとく降れ」
を入れていない。
 穂村弘の朗読には
「ブーフーウー」「象のうんこ」「終バスの『降りますランプ』」
は含まれていないし、俵万智は歌集『サラダ記念日』から歌を選んだが、その中には
「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」
は入らなかった。
 各歌人が構成した「数分間の宇宙」には、これらの歌はそぐわないと判断されたのだろう。

 そのようにして選んだ歌を、歌人は各々工夫を凝らして読む。
 塚本邦雄は笛、前登志夫はピアノ、佐々木幸綱はギターの調べに乗せて、自作を朗読した。
 寺山修司は音楽、読み方、エコー等を駆使し、朗読を映画のように仕立てた。
 岡井隆は、語句の説明、ポイントの繰り返しなどで、朗読会の雰囲気を醸し出した。
 池田はるみは大阪弁を操り、独自の世界を作り上げた。
 三枝昴之は詞書の朗読に女性を配した。
 小島ゆかりはあえて長歌と反歌を歌った。
 もちろん、小池光のように、何の仕掛けも衒いもなく淡々と朗読を行った人もたくさんいる。それこそが自分の歌をもっともうまく表現できるのだと言うように。

『現代短歌朗読集成』(同朋舎メディアプラン)(2)

2008年11月21日 21時10分26秒 | インターミッション(論文等)
(1)歌人の肉声を聴くことが出来る

 何と言っても、歴史に残る歌人の声を聴くことが出来るのが、この集成の目玉だろう。
 中でも目に付くのが、北原白秋、斎藤茂吉、与謝野晶子。
 ひどい話だが僕は、これらの巨人が、録音技術がある時代に生きていたとは思っても見なかった。
 考えてみれば、三人とも亡くなられたのは戦中戦後である。朗読を吹き込むことが出来て何の不思議もない。
 聴いてみると、正直言って「年寄りの声」だなあとは思うが、これは仕方がない。録音時は3人とも50歳を過ぎていたのだから(今ではない、戦前の50歳である)。
 北原白秋は、意外に好々爺然とした印象の声。
 斎藤茂吉は木訥で、時にぶっきらぼうにさえ聞こえる。
 与謝野晶子の歌い方は独特で、スズメが前にととととっと歩くような、不思議な抑揚がある。

 他の歌人では、岡井隆、馬場あき子、佐々木幸綱の3人は、1977年と2007年の2回に渡って録音をしている。30年を経た声の違いを比べるのもおもしろい。

 若手を見ると、水原紫苑、穂村弘は、現代人らしく少し籠もった舌足らずな声だ。
 同年代の俵万智の声がよく透るのは、以前高校教師だったからだろうか。

 圧巻は葛原妙子で、始めはもごもごとした老人らしい歌い方に少しイライラするが、そのうちその声、抑揚が頭の芯に絡みついてくるような心地がし、呪言のようにさえ聞こえてくる。さすが「幻視の女王」と納得させられてしまう声だ。

『現代短歌朗読集成』(同朋舎メディアプラン)(1)

2008年11月21日 21時08分44秒 | インターミッション(論文等)
「北原白秋、斎藤茂吉、与謝野晶子から俵万智、穂村弘、水原紫苑まで」
現代短歌人52人の自作朗読を収めた、CD全4巻+歌集1冊。

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 『現代短歌朗読集成』(同朋舎メディアプラン 税込8,000円)が、すごく興味深い。
 どう興味深いのか。
 大まかに言って、3つのポイントが挙げられる。

(1)歌人の肉声を聴くことが出来る。
(2)歌人それぞれの朗読の構成、演出を楽しめる。
(3)録音時の時代と背景が推察できる。

 実際は、この3つの要素が混じり合い重なり合っているのだが、とりあえず一つずつ考えてみよう。

五首選会(一応)終了します

2008年11月17日 07時28分41秒 | イベント
そんなわけで、五首選会を(一応)終了いたします。
でも、「まだまだ、選が終わっていない!」「もっと選したい!」という方、焦ることはありません。
これは中締めと考えていただいて、これからゆっくりと皆さんの百首を読み込んでいってください。

さて、今年で3回目の「五首選会」でしたが、今回は(僕も含めて)18人もの方々にご参加いただきました。
喜んだのはもちろんですが、同時に少々のけ反ってしまいました。
皆さんも感じられたと思いますが、
「1,800首も読んで、90首しか選べないの!?」です(僕はズルをして180首選んじまいましたが)。
正直、最後の方はトライアスロンっぽかった(ぜえぜえ)。
特に今回は、初めてご参加の方がとても多く、文体を掴むまで苦労しました。
それだけ楽しみもあった、ということでもありますが。
また、すでにお馴染みの方々も、今年は独自の境地をそれぞれ開拓され、読んでいてとてもスリリングでした。
(お一人ずつへのコメントは、「(見本を兼ねて)」のコメント欄に掲載しますので、どうぞご覧下さい。)

皆さん、お疲れ様でした。そして、どうもありがとうございます。
ここでのご縁を大切に、今後もおつきあいしていただけたらと思います。

さて、『題詠百首2008』は終了し、皆さんそれぞれのストーブリーグを過ごされるかと思います。
冬眠に入る方、鑑賞や自作の点検をされる方、新たな地平を求められる方。
僕は、とりあえず自由詠を中心に、作歌を続けていきたいと思います。
この『はいほー通信 短歌編』も、出来る限り更新していきたいと思いますので、時々覗いてやってください。
また発作的にイベントを催す可能性もありますので、その節はぜひご参加下さいね。

それでは、また。

五首選会参加の皆様へ

2008年11月13日 21時42分34秒 | イベント
 ご参加ありがとうございます。
 予想以上にたくさんの方々に参加していただき、正直驚いています。
 選も大変でしょうが、無理をなさらないでくださいね。

 締め切りは一応、11月16日(日)に設定していますが、これはひとつの中締めと考えていただいてけっこうです。
 別に、締め切りを過ぎると罰金を払わなければならないとか、娘をいけにえに捧げなければならないとか、そんなことはありません(捧げられれば、拒みませんが)。
 先方さえよろしければ、締め切りなど気になさらず、ゆっくりと選を楽しんでください。

 以上、お知らせでした。

「五首選会」を開催します!

2008年11月01日 05時22分46秒 | イベント
 「題詠100首2008」終了を勝手に記念して、「五首選会」を開催することにしました。
 その名のとおり、「題詠100首2008」参加者が投稿した短歌の中から、5首を選ぶ会です。
 完走者(100首詠んだ方)でなくても大丈夫。
 「選」のみの参加も、大歓迎です。
 お気軽にご参加ください。

 選の基準は、なんでも可とします。
 「いいと思った歌」はもちろんのこと、「おいしそうな歌5首」「哀しい歌」「意味はわからないけどグッとくる歌」等々、さまざまな「選」をお願いします。

【参加資格】 
・「題詠100首2008」参加者(完走者でなくても、可。)
・他の参加者の歌を選ぶ、「選」のみの参加も可。
・「題詠」に参加していない人も、選のみでの参加は可。
【受付期間】 11月1日(土)~11月13日(木)
【投稿期間】 11月1日(土)~11月16日(日)
【ルール】
・参加希望者は、ご自分のブログに「五首選会参加」用の
 記事欄を作成してください(「五首選会参加(見本を兼ね
て」)を参照)。
 その際、できれば「自選五首」を書いていただけると、
 会が盛り上がります。
・そこから、ここのすぐ下の記事欄 「五首選会参加(見本
 を兼ねて)」にトラックバックしてください。
・参加者は、他の参加者のブログに行き、その人が
 「題詠100首2008」で投稿した歌の中から五首を選んで、
 コメント欄に記入してください。
 (参加者は、最低でも一人について選を行ってください。)
・その際、できれば鑑賞についてのコメントもお書きください。
 (全体についてでも、個々の歌についてでも可。)