はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

「 〈現代〉と〈現在〉のあいだ~『サラダ記念日』を基点として 」について

2010年09月21日 19時51分59秒 | インターミッション(論文等)

 下に挙げた文章は、『短歌研究』の「第二十八回 現代短歌評論賞」に応募した物です。
 一次予選落ちでしたが、けっこう頑張って書いたので、供養のためここに載せてみました。

 かなり長いので、章ごとに六つに分けました。
 少々読みづらいですが、よろしければ目を通してみてください。


 今年の評論賞の課題は、

「いかに現代を詠うか ―――現代短歌の諸相を分析する」

という、取りようによってはむちゃくちゃ曖昧なテーマでした。

「そもそも、『現代短歌』ってどっからよ?」

という疑問が、この文章の発端です。


 ご意見等、お聞かせいただければ嬉しいです。




〈現代〉と〈現在〉のあいだ~『サラダ記念日』を基点として (6)

2010年09月21日 19時49分26秒 | インターミッション(論文等)

   引用文献等


① 『現代短歌史Ⅱ』篠弘(短歌研究社)
② 俵万智ホームページ『チョコレートBOX』
③ インターネット『ウィキペディア』
④ 『男たちのサラダ記念日』サラダ倶楽部(泰流社)
⑤ 「秘密のサラダ作戦」笹公人(『短歌研究』2009年一一月号)
⑥ 『薬菜飯店』筒井康隆(新潮文庫)に所収
⑦ 『わたくしたちのサラダ記念日』俵万智編(河出書房新社)
⑧ 社会保険庁広告(週刊文春 1987年一二月二四日号に掲載)
   スマートな男の背中が好きなんて彼女も言ってくれるじゃないの
   「このうす味がいいね」と君が言ったからこれから毎日健康記念日
⑨ 『サラダ記念日』いでまゆみ(イラスト)(講談社 1988年2月)。
⑩ 『サラダ記念日』渡辺典子(ソニー・ミュージックレコーズ 1988年4月1日)
⑪ 『「カンチューハイ」とハイドン』岩城宏之(『魔法の杖 俵万智対談集』(河出書房新社)) 
⑫ 『サラダ記念日』TBS「東芝日曜劇場」(1988年)。
⑬ ミュージカル『サラダ記念日』劇団JMA(1988年8月25日初演)
⑭ 『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』山田洋次監督 松竹(1988年12月24日公開)
⑮ 「対談「詩歌のかたちとことば」」岡井隆 松浦寿輝(『短歌研究』2010年一月号)
⑯ 『私の戦後短歌史』岡井隆 小高賢(角川書店)
⑰ 『短歌を詠む』俵万智(岩波新書)
⑱ 『短歌の友人』穂村弘(河出書房新社)
⑲ 『現代短歌作法』小高賢(新書館)
⑳ 『考える短歌』俵万智(新潮新書)




〈現代〉と〈現在〉のあいだ~『サラダ記念日』を基点として (5)

2010年09月21日 19時47分44秒 | インターミッション(論文等)

   (5)まとめ


 以上、マスメディア、歌壇双方の面から、『サラダ記念日』ブームについて考えてきた。

 この文の始めにおいて私は、〈現代短歌〉と〈「現在」短歌〉の区切りを、この歌集刊行の2年後である1989年に設定した。
 その理由については、今までに述べてきたとおりだが、とりわけ、先に挙げた岡井隆の

 〈(俵万智は)最初のランナーではなくて最終ランナーだった〉

という発言が、端的に物語っているだろう。

 比喩を許してもらえるなら、『サラダ記念日』ブームとは、ある一つの島を襲った暴風雨だった。
 それはあまりにも大きなパワーを持っていたので、島にある多くの物が吹き飛ばされ、多くの物が混乱に巻き込まれた。
 島のある部分では、地形や植生まで変化してしまった。
 そして暴風雨が去った後、変化した部分の土壌には新種の種子が土着し、成長し始めた。

 変化した地形・植生と新たな種子のその後について語ることは、この文の本義ではない。
 とにかく、このようにして『サラダ記念日』ブームは歌壇に少なからぬ変化をもたらし、新たな土壌を作るきっかけとなった。

 時代の区切りとしての役割を、十二分に果たしたのである。



〈現代〉と〈現在〉のあいだ~『サラダ記念日』を基点として (4)

2010年09月21日 19時46分04秒 | インターミッション(論文等)

   (4)それ以後


 1988年終盤になるとブームは、少なくとも表面上は徐々に沈静化してゆく。短歌周辺も落ち着きを取りもどしていったように見える。
 しかし歌壇は、やはりその影響を如実に受けつつあった。
 総合誌主催の新人賞、新聞等の投稿欄、カルチャーセンターでの実作などには、俵万智調の歌風が飛躍的に増えていった。
 結社誌、同人誌などにおいても同様で、そのような場での選歌、指導を受け持つ歌人はそれ相応の対応を迫られ、短歌愛好者への姿勢を修正せざるを得なくなってくる。

 同時に、「ライトヴァース世代」と呼ばれていた新人歌人たちが、満を持して歌集を発表するのもこの時期である。
 数例を挙げると、

   荻原裕幸『青年霊歌』(1988年)
   水原紫苑『びあんか』(1989年)
   穂村弘『シンジケート』(1990年)
   梅内美華子『横断歩道(ゼブラ・ゾーン)』(1994年)
   東直子『春原さんのリコーダー』(1996年)

 彼らは『サラダ記念日』以前から作歌を始めていた者がほとんどで、特に俵万智の歌風から積極的影響を受けたわけではない。
 しかし、彼らの作風が、今までの短歌にはない種類のものであったことは確かだ。
 それらは「ライトヴァース」(後には「ニューウェーブ」と呼ばれる)と一口に括られるにはあまりにも多様であるが、明らかに歌壇に新風を吹き込むものだった。
 仮に、『サラダ記念日』ブームが無かったとしよう。
 その場合、これらの歌集は、すんなりと歌壇に受け入れられていただろうか。
 『サラダ記念日』刊行の数年前から「ライトヴァース」議論は行われてきたが、その際、多くの歌人が示した拒否反応を思い返してみると、首を傾げざるを得ない。
 最終的には受け入れられたとしても、実際とはかなり違った形になったのではないだろうか。




〈現代〉と〈現在〉のあいだ~『サラダ記念日』を基点として (3)

2010年09月21日 19時43分12秒 | インターミッション(論文等)

   (3)『サラダ記念日』の短歌的立ち位置


 次に、文学的な影響面から見た、歌集『サラダ記念日』について考えてみる。

 当時のみならず現在においても、『サラダ記念日』は(良きに付け悪しきに付け)歌壇を変革した張本人として見られている。そのような発言は探せば数限りないが、近いところでは詩人でフランス文学者の松浦寿輝が、岡井隆との対談において、

 〈(中村補注・言文一致、口語体の変化は、)短歌の世界はよく知らないんですけど、俵万智の『サラダ記念日』が元凶ではないのですか。〉(⑮)

と言っている。これが、歌壇あるいは文学界における『サラダ記念日』の一般的認識なのだろう。
 これに対し、岡井隆は違った見方を示している。

 〈女性が自由にうたうというフェミニズム的気分と、口語短歌のその両方が重なり、俵万智が出た。短歌史的にはそうなります。つまり出発点ではなくて、大きな六〇年代からの流れの、片方では短歌の口語化、片方では短歌の女性化と言ってもいいしフェミニズムと言ってもいい、それの集大成のようなかたちで、俵さんが出たのですよ。だから僕は、最初のランナーではなくて最終ランナーだったと思う。〉(⑯)

 第二次大戦後の「フェミニズム的」女流短歌は、中城ふみ子から始まったというのが定説である。
 その後、馬場あき子、尾崎左永子らによってこの動きは確固としたボディを得、さらに河野裕子、栗木京子らに引き継がれる。
 それらの流れは、(紆余曲折を経ながらも)俵万智まで続いている。

 また、短歌の口語化そのものは、短歌革新運動のころから断続的に実験が為されてきたが、現在につながる口語短歌の祖としては、村木道彦、平井弘の二人が挙げられるだろう。
 俵自身も、自著でこの二人を取り上げており、特に村木については

 〈村木道彦の作品に出会ったとき私は、もうすっかり「ハマってしまった」という状態だった。〉(⑰)

とまで語っている。

 それとは別に、俵の歌の技法について、このような考察がある。

 〈引用歌(中村注・省略)の結句七音だけをみてゆくと、(中略)いずれも「二音/五音」の分割による「連体形/体言止め」のかたちになっていることがわかる。これは戦後の前衛短歌が開発した句またがりという技法の口語的なバリエーションなのだが、読者はそんなことは全く知らないまま、読み進むうちに、この安定したリズムを心地よいものとして受け入れるようになるだろう。〉(穂村弘)(⑱)

 〈消費文化の影響や口語文体だけが突出して語られがちであるが、俵万智に流れ込んでいるのは、(中略)戦後短歌、前衛短歌以来の現代短歌の技法なのである。愛唱性はおそらくその技術の裏づけによっているのだろう。〉(小高賢)(⑲)

 穂村や小高の論によれば、俵は前衛短歌が磨いた技法もバックボーンとしていることになる。

 さらに私論を付け加える。
 俵の歌風は、ある種の短歌愛好者にとっては渡りに船の存在だったのではないか。
 アララギ以来の写生、日常詠が生み出した一つの現象として、「日記あるいは備忘録としての短歌」がある。そのような短歌を詠む人たちがよく口にする台詞だが

 〈「(前略)私は、日々のできごとや思いを、そのまま素直に、短歌として書きとめられれば、それで充分なんです」〉(⑳)

 短歌で日常を語りたい。しかし今までの短歌では言葉や語り口が難しすぎてどうもお手本にしにくい。俵の(一見)平明な語り口は、そんな「日記としての短歌」愛好者たちにとって、ある意味待ち望んでいた文体だった。
 それが、この歌集が幅広い世代で支持された理由の一つだろう。
 事実、これ以後、各誌の投稿欄等では、若者だけでなく、むしろ中高年において『サラダ記念日』の影響力が顕著に見られるようになる。

 今まで挙げてきた論をまとめる。

  1.第二次大戦後からの女流歌人の歴史
  2.短歌革新運動以来実験が繰り返されてきた口語短歌
  3.前衛短歌に端を発する様々な技法
 それらの潮流を受け継いだ集大成としての俵万智の歌が
  4.アララギ以来の伝統が変形した「日記短歌」愛好者を大きく刺激した

 それが、短歌的立ち位置から見た『サラダ記念日』ブームの概要だろう。




〈現代〉と〈現在〉のあいだ~『サラダ記念日』を基点として (2)

2010年09月21日 19時40分14秒 | インターミッション(論文等)

   (2)マスメディアブームとしての『サラダ記念日』


 まず、『サラダ記念日』刊行までの経緯を、俵万智の歌歴に沿って見ていく。
 俵は1962年大阪府生まれ、1981年早稲田大学入学、佐々木幸綱の講義に影響を受け作歌を始める。
 1983年結社「竹柏会」入会。1984年第三〇回角川短歌賞に『賢造日誌』で応募、候補作に残る。翌年も『野球ゲーム』で第三一回同賞に応募、このときは次席。1986年『八月の朝』で第三二回同賞を受賞。
 1987年5月、河出書房新社から第一歌集『サラダ記念日』を刊行。初版八千部(以上②)。
 ちなみに、なぜ賞まで取った『短歌』の発行元である角川書店で歌集を出版しなかったのかというと、社長の角川春樹が俳人でもあったため「句集、歌集は売れない」との判断をしたから、という説がある(③)。
 その後、短期間で増刷を重ね、1988年には二六〇万部を突破し、大ベストセラーとなる。
 書籍、雑誌、新聞、テレビ、ラジオ等、あらゆるメディアが『サラダ記念日』を取りあげた。

 『サラダ記念日』がこれだけ爆発的に売れた理由の一つに、その愛唱性と真似のしやすさが挙げられるだろう。平易な語り口と滑らかな文体は、読む人に「自分にも出来る」という思いを起こさせた。そしてそれは、それは結果的にパロディ、真似、便乗作品の氾濫を招く。

 いくつか例を挙げよう。
 まず書籍関連を見ると、『サラダ記念日』刊行のわずか三ヶ月後、『男たちのサラダ記念日』(④)が出版される。これは『サラダ記念日』に対する男からのアンサーソングとして書かれているが、笹公人はこの本について

 〈『男たち~』の作者は、果たしてこの二つの歌の間に横たわる根本的なレベルの違いに気付いていたのだろうか。否、気付いていまい。それと同じく短歌をやっていない多くの読者もそのことに気付いていないのである。そうでなければ、こんな本が二十万部も売れるわけがないのである。だが、短歌と散文の違いをえるのに、これほど最適なテキストは他にない。〉(⑤)

とし、作品をいくつか対比させ論考を行っている。
(なお、この本の著者であるサラダ倶楽部は、1988年末までに『~の「サラダ記念日」』というタイトルの本を十二冊出版している。)
 そして、小説家筒井康隆は、1988年に「ヤクザが歌った短歌」という設定のパロディ作品『カラダ記念日』を発表(⑥)。
 また、パロディではないが、「愛唱性と真似のしやすさ」を証明する例として、『わたくしたちのサラダ記念日』(⑦)も挙げておく。これは『サラダ記念日』の読者から寄せられた短歌を俵万智自身が選・編集したものだが、動機の純、不純はともかく先に挙げた笹公人の論を証明するような内容となっている。

 次に雑誌、新聞等だが、、代表的なところでは、週刊文春に連載されている『タンマ君』で「モツ煮込み記念日」。
 スポーツ新聞で「ナミダ記念日」「クワタ記念日」。
 広告でも、社会保険庁で、明らかにパロディと思われる数首が並び(⑧)、また、日本生命のコマーシャルに、歌集から2首が引用された。

 ちなみに、筒井康隆の『カラダ記念日』が収録されている『薬菜飯店』(新潮文庫)には、俵万智自身が解説を寄せている。その中で俵は、自歌のパロディ作品の多さについて

 〈『作者としては、どういう気持ちです?こういうのって』という質問をよく受けた。(中略)。が、私はべつに腹はたたなかった。パロディが成立するということは、モト歌が親しまれているということだ。そう思えば、むしろ嬉しく感じてしまったくらいである。ただ、言葉が好きな人間としては、あまりにもお手軽なものが多いのには、ちょっぴり寂しい気がした。〉(⑥)

と語っている。
 この解説は、ブームに対する俵自身の見解としても読め、また『サラダ記念日』の自己解説にもなっている点で、重要な文章と言えよう。

 この他のメディアに目を向けてみると、コミックでは、漫画家いでまゆみが俵の歌にイラストを付けた漫画を出版(⑨)。
 音楽では、渡辺典子が俵の短歌をメロディに乗せて歌ったCDを発売。(⑩)。音楽家の長井則文が、女声合唱組曲を作曲。また、作曲家林光も俵の歌に曲をつけている(⑪)。
 テレビでは、TBSが「東芝日曜劇場」でドラマを制作(⑫)。
 舞台では、劇団JMAがミュージカルを上演(⑬)。
 映画では、松竹が『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』を上映(⑭)。

 以上、数が多いので比較的有名なもののみ挙げてみたが、これだけでも分かるように、『サラダ記念日』ブームとは、まさに全メディアをあげての大ブームだったのだ。

 このブームに、当時の歌壇はどのように反応したか。

 1.歓迎派 これで歌壇が変わる。世間的に認知され愛好者も増え、短歌はメジャーな文芸となる。
 2.拒否派 短歌の伝統、文学性が崩れる。素人や安易な歌が幅を利かせ、歌壇の存亡に関わる。
 3.辟易派 ただのブームでで終わるだろう。それほど騒ぐこともないが、それまではうるさくてかなわない。

 意見は大きく言うとこの三つに分かれた。当時の歌誌等を読むと、歌人たちの多くはこの三角形の中を行き来していたように見える。そして、そんな歌壇の状況とはほとんど切り離された形で、マスメディアによるブームは、1年半に渡って続くのである。



〈現代〉と〈現在〉のあいだ~『サラダ記念日』を基点として (1)

2010年09月21日 19時37分53秒 | インターミッション(論文等)

   (1)主旨


 〈現代短歌〉の始まりには諸説あるが、大きく言って

     1.合同歌集『新風十人』が発表された1940年(菱川善夫説)
     2.第二次大戦敗戦による「戦後」が始まった1945年
     3.前衛短歌勃興期の1954年(篠弘説)(①)

の3つが挙げられよう。
 しかし西暦も2010年となり、菱川説から70年、篠説から見ても56年が経過している。「現代短歌の諸相を分析する」と言っても、その〈現代短歌〉の歴史的範囲が広すぎはしないか。
 今後の短歌史研究において、より詳細に分析が進められていくためにも、〈現代短歌〉に一つの区切りを入れることを提案する。

 私案として、その時期を1989年に設定する。
 その数年前から議論されていたライトヴァース問題、そして俵万智の第一歌集『サラダ記念日』に端を発する大ブームが一応の集結を見たのがこの年だからだ。
 これ以降の時代を、仮に〈「現在」短歌〉時代と呼ぼう。
〈現代短歌〉と〈「現在」短歌〉。この二つを区切る出来事はどのように進行し、どのような意味を持っていたのか。
 ここでは、特に『サラダ記念日』ブームを中心に論を進めるが、問題点を整理するため、マスメディアを中心とした反応と、文学的な影響の二側面に分けて考えてみる。



心に残った言葉

2010年09月02日 09時01分52秒 | インターミッション(論文等)

 『自然詠の終焉――短歌構造の本質に関する一説』 岡井隆
         (『遙かなる斎藤茂吉』思潮社 1982年刊 所収)から


わたしは、結局、近代における自然詠の位相を、つぎのようにかんがえておきたい。

(一)近代の自然観に逆行する。とくに、自然科学的自然観に対立する。自然は制禦と征服の対象としてあらわれることなく、むしろ、讃嘆と同化の対象として示される。こうした理念を先行させた自然詩は、一見汎神論的にみえるが、実はいかなる宗教詩ともちがうものである。自然が、もはや畏怖すべきものでも神化の対象でもないことを、この詩人たちは生活感情としては知っている。機械文明のなかの自然詩は、「失われた自然」を恢復しようとする感傷的な自然詠に堕するか、それでなければ、信仰なき汎神論――つまり擬パンテイスムの支えを必要とする。

(二)短歌は、近代人の文芸観に逆行する。歌は、五句三十一音それだけでは、円環的表現を完了することができない。そのわけは、短かさ、定型、文語、この三つの特質があるからである。充分に長く、自由に(非定型)、言文一致体で書こうとする近代人の傾向に、ことごとく抵抗する性質をもっている。短かさは、単純化を要求し、ことばの象徴機能を高めるように働らく。定型は、特殊な句法上の工夫(たとえば対句や切断と溶接、助詞助動詞の省略や活用)を生み、リズムに影響する。即ち定型律である。文語は、リズムにも韻にも影響する。が、そのもっとも大きな効果は、印象としての反時代性を強める点にある。

(三)したがって、そこがまた面白いところだが、反時代的だという点で、〈自然詩〉は目立ったのである。(後略)


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《中村 註 》
この文が1967年に書かれたことに、まず留意したい。
僕は最近、文語・口語について少々思いを巡らせているが、
文語の「もっとも大きな効果」が「印象としての反時代性を強める点にある」という一節に特に興味を引かれた。
〈昔からそうだから〉〈語意が豊富だから〉といった消極的な理由ではなく、このアグレッシブな発想。