はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

「平成二三年四月某日~茅ヶ崎里山公園」 について

2011年10月29日 12時11分46秒 | 日詠短歌

 「第57回角川短歌賞」に応募した50首です。
 タイトルそのままの内容で、僕としては珍しく(比較的)空想妄想に走っていない作りになっています。
(特に終わりの方の「馬が来た」の歌。本当にアスファルトの細道を馬がギャロップで駆け抜けていったんです。あれは驚いた。ちなみに、道交法違反にはならないそうです。)

 スタイルが自由律・新短歌・大破調・短詩……風なのは、ちょうどこの頃、そういった作品を続けて読んでいた影響です。我ながら、興味を引かれたスタイルを見るとすぐに真似したくなるヤツです。
 でも、こういった歌は多分、今後歌いません。少なくとも、しばらくは歌いません。
 このスタイルは徹底的に自由に見えて、やはり構成などに関しての明文化されていない「決まり」があるように思うのです。その「決まり」を知っていればこそ、それに従うことも出来るし破ることも出来る(短歌も同じですよね)。
 それを感得しないうちに似たようなモノを作るのは、このスタイル専門にやられている方々に、やはり失礼なんじゃないかな、と思いました。
 まあ、作った後で言う台詞ではないんですが。

 でも、非常に楽しかったし、勉強にもなりました。


平成二三年四月某日~茅ヶ崎里山公園

2011年10月29日 12時10分35秒 | 日詠短歌

  平成二三年四月某日~茅ヶ崎里山公園


一面の曇りだが雲にも高低があるその隙を縁取る光

ワイパーを止める路肩に寄せる傘は、もういいだろう

土道にひいやり沈む靴底コート替えにはまだ早かったか

雨垂れが鳴り止まない日差しのなか眼鏡に映る木 葉 蝶

ようやくだようやくだようやくだよう森のなかの鳥の声

水音がんんんこんなにも心地いい 水はいい

むくむくと気に帰ってゆく最中の水を吸い込む

栗の木が芽吹いたことで今までが丸裸だったと気づいたことだ

木が揺れるこんなに深く春ってのは見えてたものがかくされること

漂うのは切り株の匂い(死のにおい)再生のための臭いだ、と

むしろ吸われることこそ心地良いこの、養分を欲している生命群のなか

黒のますます冴えわたる鶺鴒がコマおとしにしか見えない

彼女のせいか今年は緑がつらくないいや、辛さがここまで届かない

この有休で忘れられれば良いのだが(丁度眉月の頃でも無いし)

左肩が下がれば影もうつむく太陽光線は嘘をつけない

精神病という衣が甘いだからまだクローバーを憎まなければならない

辛いと感じはしないが――あらゆる緑を塗りたくる山

でも快晴のもとでは少しうざったい例えば遠くの菜の花の畑

筍の生々しく濡れる外皮そんなにも悪なのだろう風は

朝方の頁が妙に柔らかい親指一本で頁をめくる

ぷつりぷつりと集の終わりから読んでいく一人の歌人を過去にするため

柿の萌黄が特に美味そうだ小指先ほどの葉を嬲っている

沼上に緑羽小虫がけぶりとぶ春の嵐のその次の日なので

春とはまず虫のことその塊は常に斜め上にある

俺は別に何もしてない鴨二羽がへんに無様に羽ばたいてゆく

五位鷺の嘴からゆるいSえがき胃の腑へたどりつく時間を

少々下品な蛙の斉唱が突如止む俺のために

春なのに飛行機雲が形成しやすい湿気の状態らしい

一気圧とは一万メートルの空気の重さ(抗う軽さ)

金属製のヴィオラの話は聞いたことがあるよ 今もえている草原

ゲンゲ咲き詰められて多分明日、いや明後日には入る耕耘機

春女苑ひしめく道の端にいたらお前、だめだ と言われたのだ

むしろ野にある背黄青鸚哥のほうが無様だ ゆるゆると乾く道

農道の中央に伸びてゆく今年も轢き残されて萌える緑

土道の尽きるころ駐輪場が盛大に反射をかえす所

ひろいひろい芝生を抜けてきた風のおかげで腕の形態を知った

開ききる寸前は妙に剣呑たんぽぽの黄色が天上を突く

また地震そういえば直接草に座り揺れを感じたことなど無かった

揺れの中でも変わらない小鳥のトーンなら良いか 尻が冷たい

節電の声をかけられて気づくこと「日本全国便所の100w」

成長する石を持つ国 少なくとも国歌と決めた歌がそう言う

今年中に七〇億となる人口(辻褄合わせにもならない衝動)

「雑草なんて名前の草は無い!」という故に国民なんて名の人も無い

隆起する亀裂に沿って北東から南西に至る伏流の波

下り道桜並木のふもとからアスファルト傷つけ馬が来た

桜並木もただの樹となったやれやれとわずかに紅い蘂を残して

桜蘂がおとたてて降る削ぎ落とされた顔の野仏

口を開けてまぶたを開けて ああ、それでも「安らかでした」と言いたいのです

猫の群が這い出てくるそろそろ人と光が退く時刻

すべてのっぺらぼうになる瞬間(陽・色・戦)動いてはいけない動くと割れる


「短歌研究 2011年10月号」詠草・うたう☆クラブ

2011年10月22日 14時20分49秒 | 日詠短歌

「詠草」

殺人の現場へハイル・ヒトラーのようにケータイ突きつける群れ(☆)

終戦と勝戦記念日おなじ夏二十日のずれに作られた今

草刈りの終わったあとの土道の死屍累々の上を蝉声

戦犯にランクがあるという事実 土塊はまだ手に付着して(☆)

歌碑詩碑に埋め尽くされた南島の岬ゆっくり海に没する(☆)


「うたう☆クラブ」

天動く否、雲うごく朝焼けに寒鳥の声満ちる土道

一文字は新春号に満ちみちて短歌とは「死」の似合う器か (☆)

いつのまに嫉妬似合わぬ歳となり慈父の視線を送るしかない

静脈は空に向かって伸びきらず角の角から壊死がはじまる

桜濃き静岡の山車窓より低く連なり続くを見おり


(☆)のついているものが、取られた歌です。

「詠草」で3首とられたことはとても嬉しいしありがたいのですが、この歌群でとるかあ?と正直、複雑な気持ちです。
「うたう☆クラブ」でも、似たような傾向のをとられてるし。
こーゆうキャラで売りたいんじゃないんだけどなあ……


完走しました(中村成志)

2011年10月14日 19時44分56秒 | 題詠100首blog2011

 題詠blog2011、完走しました。どうもありがとうございます。

 ここ数年、このイベントでは自主的にテーマ、てゆーか縛りを課していますが、今回は50首までが文語による作歌、51首以降は二句・四句切れでした。
 なぜ、一年の途中でテーマが変わったか?
 まあ、ぶっちゃけて言えば「飽きちゃった」んですね。
 言い方が悪ければ、「新たなテーマが魅了的でそっちにあっさり鞍替えした」というか……どっちでも同じようなもんなんですが。

 それはともかく、50首読んできて文語の豊かさ、短歌への馴染み方は、去年にも増して身にしみて感じました。これについては、引き続き考えていきたいと思っています。

 さて、後半の「二句・四句切れ」について。
 最近、長歌にちょっと興味を持ってまして、[五七・五七……]というリズムを実感してみたいなあ、というのが主な動機です(これについては長くなるので、いつか別のところで話してみたいと思います)。
 わざわざ三行に分けたのは、リズムを(自分にとって)視覚的に認識できるかなあ、と考えたからです。
 この手法もやってみるとなかなか奥が深く、もう少し続けてみたいなあと思っています。
 なんだか手法フェチになっていきそうな自分が怖い……。

 題詠シーズンオフ中も、このブログは活動する予定ですので、お暇な時に覗いてみてくださいね。