南三陸町立戸倉中学校。
車で海岸線から何十メートルも登った所にこの学校はありました。
そんな高台の、さらに校舎の2階まで津波が押し寄せ、1階の窓ガラスやらが今も割れたままに放置されていました。
あの時から、もうかれこれ5年が経とうとしています。
遥か彼方に見下ろす静かな海原からは全く想像の出来ない出来事が起こっていた事を想像すると、
言葉を無くします・・・
ここの仮設からも人は少しずつ出て行き、
この校舎もこんなにキレイに残ったのに今は役を果たす事も無く廃校になっていました。
ぐにゃりと曲がった廊下の鉄骨は、今もそのまま残骸をさらしています。
東北での演奏は大震災以降初めてでした。
今回演奏でお世話になった「ホテル観洋」さんの方が被災地を案内してくれましたが、
その方も津波で家を流されて仮設住宅に住まれていました。
「観洋」さんの元結婚式場。
枠組みはしっかりと残っている感じに観えますが、中はぐちゃぐちゃです。
奥に盛り土された新しい街の土台が観えます。
この周辺も景色がどんどん変わって行ってるという事で、
近くには、最後まで津波の警報をアナウンスし続けた、南三陸町役場防災対策庁舎の鉄塔もありましたが、とてもシャッターを切る気にはなれませんでした。
その前でピースサインをして記念撮影して帰る者も入るという事でしたがそれでも、
「カメラに収めてください・・・
もうこの景色は今しか撮れませんから。」
と仰ってました。
ひとつの大きな盛り土がトラック200万台、
そんな盛り土の山が廻りには点在します。
元々あった道路を埋め、
路を何度も無駄に造り直し、
全てのものが埋めらてなくなり、
何もなかった事にされてしまうとも・・・。
人の流出が続くこの場所で、その完成した町に誰が住むのかは今は決まっていません。
そんな話は遠くに住んでいるとなかなか出て来ませんが、現地に行く事で識らされる事が沢山ありました。
早くから復活した仮設の商店街も、盛り土された場所に移転させられるらしいですが、
でも・それもいいのかどうか。
路よりも・街よりも・何よりも・・・
人が集い、住めて暮らせるまちづくりを、
そういう意味ではあの時から今も何も変わっていないといいます。
さらに、・新しい格差の問題が起こりつつもあります。
次の日は石巻に。
私があの時、
大阪でテレビで観た景色と同じ場所です。
地元の方達が、沢山その時やその後の街の話を聞かせてくれました。
でも・・・
誰もが・何が正しいのかは判りません。
多くの子供達が命を失った『大川小学校』にも行きました。
ただ・頭がボー然とする中、
聴こえてくる子供達が語りかけてくる言葉は、
やっぱり、
「わすれないでくださいぼくたちのことを・」
「わすれないでくださいわたしたちのことを・」
でした。
五月には宮城でのシンセサイザーでの演奏が決まりました。
再び宮城の地を訪れる事になります。
たぶん今回の演奏旅行が、
これからの東北での演奏旅行の始まりだった様な気がしています。
♪2016 3/11 「天と地のレクイエム」 わすれないで・・・
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