くもり。蒸し暑い。
中村桃子「翻訳がつくる日本語 ヒロインは『女ことば』を話し続ける」を読む。
明治以来の「翻訳文化」の中で
「日常」ではなく「フィクション」の中で「女ことば」が維持されているという指摘。
言われてみればなるほど。
「男ことば」の語尾の「さ」「だぜ」などについても同様。
宇能鴻一郎の「あたし~なんです」という文体や
池田晶子描くところのソクラテスの妻クサンチッペの「~でないの」などを思い出し。
「わ」「よ」といった語尾を使うと「女性」になるという「ルール」は
幼年期から接した数々の「フィクション」によって無意識に出来たものらしい。
それにしても。
「現実の女子」は決してそんな風には喋らないにもかかわらず
その「用法」がずっと維持されているという「謎」は興味深いところ。
ただ贅沢を言えば著者が引用する具体例にいささかの「偏り」があり。
もう少し「煮詰めて」もらうとありがたいのだけれど。
「ひまつぶし」にはそれだけでは足りず。
橋本治「知性の顛覆 日本人がバカになってしまう構造」を買って読む。
「経験と知識のアンバランス」がポイントか。
前者のみでも後者のみでもうまくいかず。
「知的であること」の中でいつのまにか「自分に正直になること」が中心になり。
「世の中で通用するため」には「自分を消すこと」が基本であることが忘れられ。
そもそも「自己主張」は「恥ずかしいこと」だということも覚えておきたいもの。
なぜなら「先人たちの歴史」を無視して「誰にでもできること」だから。
「知性とモラルの分離」という指摘にふむふむ。
「下品であるという感覚」が失われてしまったことが大きそう。
ここで「経済問題」が浮かび上がる。
「貧困層」と「富裕層」の「生活レベルの維持」に対する意識の差よ。
「無前提で現状維持をよし」とすることに対する疑いを持てないのは「怠惰」。
なぜ自分が常に不機嫌なのかを考えてみる必要もありそうで。
安倍もトランプも「下品さ」においては「同類」。
どんな種類であろうと結局「理」を重んじなければそうなるのみ。
とりあえずもっと「いいもの」に触れる機会を増やしたいものではある。
中村桃子「翻訳がつくる日本語 ヒロインは『女ことば』を話し続ける」を読む。
明治以来の「翻訳文化」の中で
「日常」ではなく「フィクション」の中で「女ことば」が維持されているという指摘。
言われてみればなるほど。
「男ことば」の語尾の「さ」「だぜ」などについても同様。
宇能鴻一郎の「あたし~なんです」という文体や
池田晶子描くところのソクラテスの妻クサンチッペの「~でないの」などを思い出し。
「わ」「よ」といった語尾を使うと「女性」になるという「ルール」は
幼年期から接した数々の「フィクション」によって無意識に出来たものらしい。
それにしても。
「現実の女子」は決してそんな風には喋らないにもかかわらず
その「用法」がずっと維持されているという「謎」は興味深いところ。
ただ贅沢を言えば著者が引用する具体例にいささかの「偏り」があり。
もう少し「煮詰めて」もらうとありがたいのだけれど。
「ひまつぶし」にはそれだけでは足りず。
橋本治「知性の顛覆 日本人がバカになってしまう構造」を買って読む。
「経験と知識のアンバランス」がポイントか。
前者のみでも後者のみでもうまくいかず。
「知的であること」の中でいつのまにか「自分に正直になること」が中心になり。
「世の中で通用するため」には「自分を消すこと」が基本であることが忘れられ。
そもそも「自己主張」は「恥ずかしいこと」だということも覚えておきたいもの。
なぜなら「先人たちの歴史」を無視して「誰にでもできること」だから。
「知性とモラルの分離」という指摘にふむふむ。
「下品であるという感覚」が失われてしまったことが大きそう。
ここで「経済問題」が浮かび上がる。
「貧困層」と「富裕層」の「生活レベルの維持」に対する意識の差よ。
「無前提で現状維持をよし」とすることに対する疑いを持てないのは「怠惰」。
なぜ自分が常に不機嫌なのかを考えてみる必要もありそうで。
安倍もトランプも「下品さ」においては「同類」。
どんな種類であろうと結局「理」を重んじなければそうなるのみ。
とりあえずもっと「いいもの」に触れる機会を増やしたいものではある。