さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

五穀豊穣を祈る郷土料理 だんじりグルメ「くるみ餅」

2019-05-26 13:40:14 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、岸和田歴史的まちなみ保全要網の制定に伴い、紀州街道を中心とした歴史的建造物の保全と魅力あるまちづくりの取り組みを取り上げた。
今週は、だんじり祭に欠かせないとされるこの地域特有の食文化を紹介したい。

秋の風物詩ともいえるだんじり祭。この季節ならではの「だんじりグルメ」がある。
一般的に3つあるとされ、ひとつは「ワタリガニ」。この時期はワタリガニが卵を持つ旬の時期。近くの漁港で水揚げされるシャコエビを使った塩ゆでなども食べられ、だんじり祭の別名として「カニ祭り」と呼ぶ人もいるとか。

2つめは「関東煮(かんとだき)」。いわゆる「おでん」だが、客人が多く来訪し大いに盛り上がるこの時期、大勢の客人に振る舞うためだそう。夜になると涼しさを感じはじめる頃。日本酒で一杯やるには最高だろう。

そして、3つめが「くるみ餅」。これが実にユニークなのだ。くるみという言葉から、胡桃が入っている餅を連想してしまうが、胡桃は一切使われていない。その名の由来は、大豆を原料とした餡で白玉団子をくるんでいるというもの。
かつて水田や田畑の栄養分(窒素)を出す「大豆(畔豆)」が畔に植えられており、大豆が豊富に存在したことから、だんじり祭の趣旨である五穀豊穣、豊作を祈り、作られるようになったという。


【写真】泉州の郷土料理「くるみ餅」(写真提供:岸村敏充さん)

とろみがあり甘すぎない餡が白玉団子にまとわりつく、餡が主役の郷土料理。一般にも販売され地域を代表するお土産としても親しまれている。
紀州街道を往来する和歌山の人々もこの味に舌鼓を打っていたことだろう。

(次田尚弘/岸和田市)
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「紀州街道」を資源に 城下町の賑わい、今も

2019-05-19 13:32:01 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では岸和田市中心部を通る紀州街道に架かる「欄干橋」の歴史と、現代に息づく地域の人々の思いについて取り上げた。
欄干橋を中心とした紀州街道の沿道は、今も賑わいの拠点となっている。

今週は年に一度開催される「紀州街道にぎわい市」と「鍵曲り(かいまわり)」に込められた、地域の魅力を紹介したい。

紀州街道にぎわい市は、桜の季節に合わせて催される岸和田城お城まつりと時を同じくし、本町地区で開かれる催し。今年で21回目を迎え、4月7日(日)に開催。同地区の紀州街道の沿道で地元の野菜や手作り雑貨の販売が行われ、約80の店が軒を連ねた。

また、高校生による泉州地域特産の「泉だこ」を用いた商品の販売や、観光案内所を兼ねた「まちづくりの館」では甲冑の試着体験など、昔ながらの商家が残るこのエリアならではの試み。

これらの催しは、平成6年に制定された「岸和田歴史的まちなみ保全要綱」で、同地区が歴史的まちなみ保全地区に指定されたことに始まる。
基本計画に基づき、歴史的建造物の保全と魅力あるまちづくりを実践。近年では「こころに残る景観資源発掘プロジェクト」と題し、特に優れた資源を市長が指定する啓発の取り組みが行われるなど、大阪と紀州(和歌山)を結ぶ紀州街道の歴史と魅力を後世に伝える、行政と市民が一体となった取り組みが進んでいる。


【写真】紀州街道を資源としたまちづくり(本町地区)

また、同地区の北端を通る紀州街道の鍵曲りは、だんじり祭の見せ場として知られる。
鍵曲りとは、城を攻めようとする敵に対し、まるで行き止まりであるかのように錯覚させるために設けられた、城下町に特有の道路構造。
城下町の面影が地域の資源として、いまなお息づいている。

(次田尚弘/岸和田市)
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岸和田市章の由来? 紀州街道に架かる「欄干橋」

2019-05-12 15:55:34 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
岸和田市の歴史や文化を現代に伝える、紀州街道について取り上げている。

今週は前回取り上げた「紀州街道本町一里塚跡(一里塚弁財天)」より大阪市方面へ約500mの所にある、「欄干橋(らんかんばし)」を紹介したい。


【写真】欄干橋と岸和田市章

欄干橋は、紀州街道と府道39号岸和田港塔原線の交差点のほど近くに位置する。
古城川を渡る石橋で、当時はこの地域における「道路元標」とされ、他の地域からの距離を表す目印となった。

橋の名の由来は定かでないが、元禄・享保年間の紀行文には「ぎぼし(橋の欄干に施されるネギの形をした装飾)のある橋」と紹介され、天保年間の地図には「欄干橋」、文化・文政年間の文書には地名に習い「魚屋町橋」と記録されているという。

地域に残る俗謡(大衆で親しまれた音楽)で「石の欄干橋ドンと踏めば、憎や雪駄(せった)の一緒が切れた」と歌われ、当時としては珍しかったであろう、装飾が施された欄干付きの石橋として、地域の人々の誇りや愛着を感じさせるもの。
欄干橋の周囲には商店が建ち並び、明治期にはガス灯が設けられたとされ、紀州街道を中心とした街の発展を想像できる。

大正9年(1920年)に定められた岸和田市の市章(当時は岸和田町章として)は朱色で「干」の字に似た形。一般公募で選ばれたもので、「岸」の字を模したもの、あるいは、頭文字の「キ」、欄干橋の「干」を用いたなど諸説あるが、この地域の歴史のうえでこの橋が愛され親しまれてきた証であることに違いない。

(次田尚弘/岸和田市)
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