さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

西条松平家と地域の歴史を紹介 郷土博物館「隅切り葵」など展示

2018-09-16 13:31:26 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、かつて西条陣屋の北御門として使用され、版籍奉還後は所在を転々としていた歴史的な建造物を郷土の財産として後世へ残そうとする、郷土愛にあふれる市民の活動を取り上げた。
今週は北御門と大手門の傍に建つ「西条郷土博物館」を紹介したい。


【写真】西条郷土博物館

西条郷土博物館は西条陣屋の跡地に位置する。館内には西条藩に関する歴史的な資料をはじめ、300年以上続く御当地の祭事「西条まつり」の「だんじり(屋台)」や「みこし」にあしらわれた彫刻の紹介、かつては国内最大級といわれ、「輝安鉱(きあんこう)」という鉱石(アンチモン)を多く採掘した「市之川(いちのかわ)鉱山」の歴史と鉱石の現物の展示など、盛り沢山の内容。

他にも、西条市を中心に活躍した児童文学家の展示や、商店街に残る懐かしの品々を集めた商業遺産展など、期間限定の企画は、地域密着型で面白い。

紀州徳川家の分家として当地を治めた西条松平家が使用していた「隅切り葵」の展示もある。
御三家(紀伊、尾張、水戸)は三葉葵が、葵の御紋として馴染み深いものであるが、分家においては輪郭を施す決まりとなっており本家と区別。
ここでは、輪郭の四隅を切った「隅切り葵」として紹介されている。

毎年10月中旬に開催される「西条祭り」は西条市の無形民俗文化財に指定。
伊予西条藩4代藩主の「松平頼邑(よりさと)」は、宝暦元年(1751年)に屋台の総代につき、「祭事中は身分に関わらず裃の着用や小脇差を挿すことを申し出により許可する」という触書を出すなど、地域一体となった祭事として親しまれ、現代に受け継がれている。

(次田尚弘/西条市)
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郷土の財産を後世へ 有志で修復「西条陣屋・北御門」

2018-09-09 19:32:50 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では西条藩の藩政の要であった「西条陣屋」と、200年以上の時を超え現存する「大手門」の歴史について取り上げた。
今週も西条陣屋に残る遺構と、西条藩が存在したことを後世に伝えようとする市民の活動を紹介したい。

西条陣屋は、前号で紹介の大手門が建てられたとされる寛政年間(1789年から1801年頃)より前、寛永13年(1636年)に一柳直盛が立藩したもの。
その頃に使われていたとされる当時の大手門が、解体されることなく現存している。

当時の大手門は現在の大手門が作られた後、西条陣屋の北口を固める「北御門」として移築された。


【写真】修復された「北御門」

北御門は下級武士らの通用門として使用されていたという。
天保6年(1835年)西条藩9代藩主の松平頼学(よりさと)がお国入りした際、引き戸から開き戸へと扉の様式を変えたという。
中央に開き戸を持ち、左右に潜り戸がある。現在は強度を保つため固定されている。

版籍奉還後、北御門が裁判所や役所、武道場の門として所在を転々とし、昭和40年、西条市から西条高校へと譲渡。
以後、高校の敷地内(西条陣屋跡)へ仮設置されたが、その痛みは激しかったという。
それを見兼ねた高校教諭が西条藩の遺構を後世に残そうと強い思いを持ち、市民の有志らで委員会を設置。高校や行政の支援、一般市民や企業等からの寄付金を得ながら修復を進め、平成25年9月に完了。
大手門近くの西条郷土博物館の東側で、博物館を訪れる人々を見守り続けている。

一柳氏から松平氏へと藩主が移り変わった歴史を伝える貴重な郷土の財産を守り、後世へ伝えようとする市民の郷土愛を感じた。

(次田尚弘/西条市)
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高校の校門として現存 「西条陣屋」大手門の歴史

2018-09-02 17:31:36 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、紀州藩から西条藩への多数の出向者が、200年に渡り西条藩の繁栄を支援していた歴史と、盛んであった紀州藩と西条藩の交流について取り上げた。
今週は、現在も西条市内に残る西条藩の遺構を紹介したい。

西条藩の藩政の要となった「西条陣屋(じんや)」は、市の中心部、西条市役所本庁舎のほど近くに位置し、明屋敷という地名が残る。
市内を流れる加茂川の河口部にあたる三角州に築かれ、1万坪におよぶ敷地に堀をめぐらせていた。
陣屋とはいえ、堀との境に築かれた石垣や土塀は城の風格がある。

版籍奉還後、陣屋の建物は取り壊されたが、明治29年(1896年)跡地に愛媛県尋常中学校東予分校が開校。その後、愛媛県立西条高校となり現在に至る。

校舎や体育館、グラウンドなど、高校の施設の全てが堀の内側にある珍しい形式。
堀を両手に見ながら、堀の外側から内側の校舎へと続く通路を渡ると、木造の校門が見えてくる。
この校門こそが陣屋の正門にあたる「大手門」で、当時の姿のまま現存している。


【写真】現存する「西条陣屋」大手門

平成14年に行われた解体修理により、寛政年間(1789年から1801年頃)に建てられたものであると推測されたという。
使用されている瓦に記された刻印から、現在の大阪府岬町多奈川付近の「泉州谷川」の窯元で造られたものであることが明らかになったという。
当時の紀州藩で採用されていた建築様式や資材が、離れた西条の地でも採用されていたのだろう。

大手門の他にも、北御門や腰巻土塁などが現存し、その他、当時使われていた門が市内の各所に移築され、寺の山門などとして使用されている。

(次田尚弘/西条市)
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紀州藩からの出向者が活躍 200年に及ぶ、人と財政支援の歴史

2018-08-26 23:34:56 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号より「西条藩を知る」と題し、寛文10年(1670年)から版籍奉還までの約200年間、10代にわたり紀州藩の支藩として栄えた愛媛県西条市の歴史を取り上げている。

西条藩2代藩主の松平頼致は、従弟にあたる徳川吉宗が将軍となった際に紀州徳川家を継ぎ、紀州藩6代藩主徳川宗直と改め本藩である紀州を治めるなど、本家とのつながりが非常に強かったとされる。


【写真】西条市内に建つ西条藩の石碑

西条藩に残る「文化七年御家中官禄人名帳」によると、藩主に限らず家来衆の人的交流も盛んであったことがうかがえる。
文化7年(1810年)当時、紀州藩から27名が西条藩士として西条藩に入り、中には家老を務める者もいた。
いわば本家からの出向のようなもので、西条藩の上級藩士は紀州藩で占められていたという。
そのため、藩士とその家族らが江戸を行き来する際は紀州に立ち寄るなど、紀州と西条の結びつきは強いものであったという。

また、これらの藩士がもらう俸禄(給与)は紀州藩から支給され、それに加え「豫州(よしゅう)」と呼ばれる西条藩からの俸禄もあったという。
豫州(予州と書くこともある)とは西条藩のことで、両藩から禄が支払われるこの制度は稀なものであったとされる。

人だけでなく、藩財政についても本藩からの支援を受けていたという。
西条藩初代藩主の松平頼純は西条へ入る前の寛永八年(1631年)から紀州藩内で5万石を分知されていた。
西条藩へ入るにあたり分知されていた領地を返し、西条藩3万石の領地を手にするも、差額として2万石が発生。
この差額を紀州藩からの支給により補填されることとなり、合力米の名称で、紀州藩の財政状況により支給量は変動するも支援は版籍奉還まで続いたと、南紀徳川史に記されている。

(次田尚弘/西条市)
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紀州藩の支藩として栄える 愛媛県西条市「西条藩」の歴史

2018-08-19 22:14:11 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
74週に渡りお伝えしてきた「家康紀行」に続き、今週から「西条藩を知る」と題したシリーズを始めたい。
愛媛県西条(さいじょう)市は紀州藩の支藩として栄え、かつてから紀州とのつながりが深い地域であることをご存知だろうか。
和歌山市から西へ約200㎞離れた西条市の歴史と魅力を取り上げる。



西条市は愛媛県の東部、東予(とうよ)地方に位置する。人口は約10万6千人。松山市、今治市、新居浜市に次ぐ、愛媛県内で4番目の人口。瀬戸内海に面した穏やかな気候であるが、山間部は積雪がありスキー場があるほど。隣の今治市から瀬戸内海を経て尾道市へと続く「しまなみ海道」があり中国地方からのアクセスに優れた地域である。

かつてこの地域は「伊予国西条藩」として、寛永13年(1636年)から「一柳直盛(ひとつやなぎ なおもり)」が治めることとなったが、入封の途上で没し、3人の息子により領地を分割。
直盛の長男「直重(なおしげ)」が藩主となるも、藩主を継いだ息子の「直興(なおおき)」が職務怠慢のため、寛文5年(1665年)に改易処分となり、この地域は天領となった。

5年後の寛文10年(1670年)、紀州藩初代藩主「徳川頼宣」の三男「松平頼純(よりずみ)」が紀州藩の支藩として3万石で入封。紀州徳川家が途絶えた場合に備えるための、紀州徳川家の分家とされる。
頼純の息子で西条藩2代藩主の「松平頼致(よりよし)」は、従弟にあたる徳川吉宗が将軍となったため紀州徳川家を継ぐこととなる。
名を「徳川宗直(むねなお)」と改め、紀州藩6代藩主として41年に渡り紀州の地を治めるなど、本家とのつながりの深さがうかがえる。

西条藩は版籍奉還まで10代に渡り、紀州藩の支藩として治められ、西条市内には現在もその歴史が息づいている。

(次田尚弘/西条市)
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名古屋城天守閣の木造復元 寄付・記録で支える市民の思い

2018-08-05 17:16:04 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、数々の個性的な名古屋めしの味の決め手となっている岡崎市名産「八丁味噌」の歴史と特徴を取り上げた。
今週は、5月から入場が禁止された名古屋城天守閣の木造復元を支援する市民の動きを紹介したい。

名古屋城天守閣は家康の命により1612年に完成。1930年、名古屋市に下賜され城郭としては初めての国宝に指定されたが、1945年の空襲により天守や本丸御殿などの主要部を焼失。終戦後、市民による寄付で鉄筋コンクリート造の天守閣が再建された。

再建から50年が経ち、老朽化や耐震強度の問題が顕著になり、その課題の克服と本質的な価値を理解しようと、創建時の姿をできる限り忠実に再現した木造天守への建て替えが決定。2022年の竣工を予定している。

昨年7月から始まった「金シャチ募金」は名古屋市が主導。既に2億円を超える寄付が集まっているという。

寄付の方法は複数ある。「10縁募金芳名札」に募金者の氏名と共に、未来の子どもたちへのメッセージや名古屋城への思いを記載し募金。天守閣と共に次世代へ受け継ごうと企画されたという。名古屋市の区役所や支所、名古屋城内の募金箱で受け付けている。


【写真】市の施設に設置された「金シャチ募金」

他にも、ふるさと寄付金(納税)の対象となる寄付を受け付け、金額に応じて、竣工後の内覧会への案内や、「金シャチ手形」と呼ばれる無料入場券の発行、特別見学ツアーなどの体験型の催しへの案内など、様々な特典が用意されている。

木造天守の復元には、空襲による焼失までに名古屋市民が撮影した写真や、国宝指定時の計測図、江戸時代の修理や改築の細かな記録など、他の城と比べ情報量が膨大であったことが鍵であるという。
城への市民の愛着が、復元事業を支えている。

(次田尚弘/名古屋市)
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個性的な料理に姿を変える 名古屋の味の決め手「八丁味噌」

2018-07-29 13:34:13 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、地域の身近な食材や人々の暮らしから生まれ親しまれる「おにぎり」で、名古屋めしのひとつ「天むす」を取り上げた。
今週は、家康生誕の地、愛知県岡崎市名産の八丁味噌を用いた「味噌カツ」を紹介したい。


【写真】八丁味噌が使われた味噌カツ

味噌カツは濃い赤褐色をし甘辛い味が特徴の八丁味噌をベースに、鰹出汁などを加えたソースを並々と豚カツにかけたもの。
天むすと同様に三重県津市が発祥の地とされ、主に中京圏で親しまれている。

八丁味噌は原材料の全てを大豆とした豆味噌。直径、高さ共に約2メートルの桶に約6トンの味噌を仕込む。麻布をかぶせ、合計約3トンに及ぶ大小様々な石を均等に載せ、二夏二冬、じっくりと熟成。味噌汁など、調味料として広く活用される。

昨今は、味噌に含まれる遊離リノエール酸という成分が、シミ、ソバカスの原因となるメラニンの合成を抑えることから美白効果が期待され、また、コレステロールを抑制することから心筋梗塞や脳梗塞の予防にも効果があるなど、健康食としても注目されている。

味噌カツのほかにも「味噌煮込みうどん」「味噌おでん」「どて煮」など、八丁味噌をベースとした名古屋めしが存在するなど、地域の食文化を支えている。

和歌山県の特産品である「金山寺味噌は、八丁味噌とは異なり、米、麦、野菜などが加えられた、おかず味噌。
熟成期間は1週間から3ヵ月程度と短い。調味料にはならないが、おかずや酒の肴にそのまま食べられる。
徳川吉宗が幕府に献上したことから全国に広まったとされる。

個性的な料理に姿をかえる八丁味噌と、おかず味噌として倹約に貢献する金山寺味噌。
いずれも家康の精神が今に息づく伝統的な食文化といえよう。

(次田尚弘/名古屋市)
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地域の歴史と文化が凝縮 ご当地のファストフード「おにぎり」

2018-07-22 14:22:04 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
災害現場や避難所で提供される手軽な食べ物として重宝される「おにぎり」は、いわば、日本古来のファストフード。
おにぎりは、地域の食文化を知るうえで参考になるもの。今週は名古屋めしのひとつとして親しまれる「天むす」の歴史を紹介したい。


【写真】津市発祥、名古屋で愛される「天むす」

天むすは小エビの天ぷらを具にしたおにぎり。1950年頃、三重県津市の天ぷら屋の賄い料理として生まれた。
車エビの天ぷらを切り、おにぎりに入れたのが始まりとされ、現在は安価な「アカシャエビ」が使われている。

おにぎりの中にエビを包み込むのが初代の形であるが、昨今、一般的なのはおにぎりの上部に乗せられているもの。
一目で見て天むすであると識別でき、海苔巻きとのコントラストが食欲をそそる。
食す前からその美味しさを目で楽しませる仕掛けは、ご当地ならではの工夫なのだろう。

なぜ、名古屋で天むすなのか。伊勢湾はエビの漁獲高が多く、物流網が発達する前は地域内での早めの消費が不可欠。車エビを使った名古屋めしの代表格「エビフライ」の存在にも関係する。

三重県北部から広まった天むすであるが、三重県南部の熊野地方(東紀州)から和歌山にかけての紀伊半島で親しまれてきたのが「めはりずし」。
握り飯を高菜の葉で包んだ、読者の皆様もお馴染みの郷土料理。山仕事や農作業へ出かける際に持参し、その大きさや美味しさからその名が付いたといわれる。

作りの簡便さと持ち運びが容易であること、作業の合間でもボリュームと栄養を摂取できることが、この地域でのファストフードとして根付いたもの。

地域の身近な食材や人々の暮らしから生まれるおにぎり。そこから地域の歴史と文化が見えてくる。

(次田尚弘/名古屋市)
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孤立・帰宅困難への備え 知恵と工夫で外出時の災害対策を

2018-07-15 20:23:50 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
「家康紀行」のシリーズ中ですが、先週に続き大雨関連の話題をお伝えします。
 
◇  ◇

西日本豪雨では、各地でかつて体験したことがない大雨に見舞われ、現時点で200名近い死者を出す未曾有の災害となっている。

前号では有事の際の情報収集と自主的な判断基準の設定により、自ら考え行動する防災意識の向上について取り上げた。今週は外出時の対策について紹介したい。

おすすめしたいのが自動車への防災キットの搭載。


【写真】車載用の防災キット(筆者使用)

例えば携帯型のトイレ。尿をかければ中身が凝固し消臭機能があるもの。日頃の思わぬ渋滞の際でも活躍が期待される。
ミネラルウォーターはペットボトル容器が一般的なものよりも分厚い仕様で長期保存可能なものが最適。
ボトルに直射日光があたり集熱することにより起きる思わぬ発火や、高温の車内で水が劣化する可能性があるので、光を透過しない収納ボックスに入れるかタオルで巻くなどの工夫が望ましい。
車に水が浸水し立ち往生した場合、水圧で扉が開かない、電気系統の故障でパワーウィンドウが開かず車内に閉じ込められるケースも往々にある。
ガラスを粉砕する車載用のハンマーなどが市販されているので準備しておきたい。

交通遮断による帰宅難民の発生も都市圏においては深刻な問題となっている。
今回は始発から運転を見合わせる交通機関が多かったが、大阪北部地震の際は緊急停止した電車から降ろされ、復旧まで最寄りの避難所に待機したという人が筆者のまわりでも多数おり、土地勘の無い場所での被災は怖いと口を揃える。
無理をして帰ろうとせず安全な場所で待機する我慢強さも必要と話していた。

いつ、どこで発生し遭遇するかわからない災害。備えあれば憂いなし。知恵と工夫で来る災害に備えたい。

(次田尚弘)
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府県間の移動が困難に 自ら考え行動、防災意識の向上を

2018-07-08 13:34:34 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
「家康紀行」のシリーズ中ですが、大雨関連の話題をお伝えします。


6日未明から明け方にかけての激しい雨では平年1ヶ月間の総雨量(7月)の倍以上を記録。大阪と和歌山を結ぶ鉄道や空港バスは長時間運休し、阪和道や第二阪和国道をはじめ風吹峠や孝子峠を通る主要道路も一時通行止めとなり、府県間の交通網が麻痺した。

唯一、通行ができた岬と加太港を結ぶ県道・府道65号でも、山の斜面からは多量の水を含んだスポンジの如く水が噴き出し、こぶし大の落石や土砂が道路に広がり、茶色い水で冠水する箇所も見られた。


【写真】府県間の移動ができた県道65号(加太港-岬)

孝子へと続く府道752号和歌山阪南線(旧26号)の通行止めに伴い、阪南市付近から深日中央交差点までの和歌山方面車線では渋滞が発生。阪南市から和歌山市まで3時間以上を要する時間帯もあり、府県間の移動に大きな混乱をきたした。

明治以前では、和泉山脈は天然の要害となり海は輸送の要として重宝された。交通が発達し、労働や物資の調達を地域内で完結しなくなった現代において交通遮断による影響は大きい。
かつては重宝された特徴的な地形も、現代の異常気象にかかれば地域を孤立させる要因に。

いつ、どこで発生するかわからない豪雨であるが、気象予報サイトを見ればリアルタイムに自分に迫る危険を察することができる。
不要不急の外出を控え、やむを得ず出掛ける際には道路交通情報センターや県の道路情報サイトを使った情報収集も有効。

数十年に一度とされる水害が各地で起こる昨今。自ら情報を収集するアンテナの高さ、あらかじめ有事に備えた自主的な判断基準を設けておくなど、自ら考え行動できる防災意識の向上が求められている。

(次田尚弘)
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