さんぽみちプロジェクト

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和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

政策で対立も吉宗と親交 尾張藩7代藩主・宗春の生涯

2018-05-27 19:11:55 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号に続き、時の将軍、徳川吉宗から偏諱を授かった、尾張藩7代藩主・徳川宗春の奇策と障害を紹介したい。

享保の改革で質素倹約を進める吉宗に対し、規制緩和で民を自由にしようと城下に遊興施設を設け地域経済の振興に貢献した宗春であったが、行き過ぎた政策に目を付けられ、天文4年(1739年)幕府から隠居謹慎の命を受けてしまう。

隠居謹慎後の宗春は、名古屋城三の丸の屋敷で余生を過ごすことになる。外出は墓参りですら許されないものであったという。
宗春を謹慎へと追い込んだ幕府であるが、実際は老中の松平乗邑が主導したもので、謹慎中に吉宗からの使者が送られ、不足するものは無いか、気鬱になっていないかと気遣いがあったとされる。
吉宗が死去した後は下屋敷へと移り、尾張徳川家の菩提寺や祈願所への参拝が許された。

宗春が尾張藩主の頃、吉宗から朝鮮人参を拝領しており、謹慎後も屋敷で栽培を続けた。
尾張藩9代藩主の宗睦は、宗春が作った薬草園を活かし医学の振興を図り、後にその行動が名古屋における医学の発展に大きく貢献したとされる。
政策では正反対の吉宗と宗春であったが、かつてからの親交や互いの信頼が途絶えることはなく、世を良くしようという思いは生涯通じ合うものであったのかもしれない。

宗春が死去したのは明和元年(1764年)のこと。それから75年の時を経た天保10年(1839年)、尾張藩12代藩主・斉荘が就任する際、宗春に「従二位権大納言」が贈られ、歴代藩主に名を連ねるまで名誉を回復。


【写真】宗春時代の賑わいを思わせる「金シャチ横丁」>

14代藩主・慶勝は薬草園跡地で宗春の菩提を弔うなど、尾張発展の立役者として名古屋の人々に受け継がれることになった。


(次田尚弘/名古屋市)
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吉宗から偏諱を授かる 尾張藩7代藩主・宗春の奇策

2018-05-20 13:36:14 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号から、天守閣の建て替えが始まった名古屋城内で、ご当地の食文化を発信しようと今年3月末にオープンした「金シャチ横丁」を取り上げている。

「金シャチ横丁」は、尾張藩初代藩主・義直にちなんだ「義直ゾーン」と、7代藩主・宗春にちなんだ「宗春ゾーン」の2つのエリアで構成。


【写真】観光客で賑わう「金シャチ横丁」

宗春の名が使われた理由は名古屋に華やかで新しい文化を生み出そうと、時の将軍・吉宗が進めた質素倹約の政策と真逆のやり方で名古屋の文化を創り出したことにちなむ。

実は宗春の「宗」の字は、吉宗から1字をもらったものであるという。今週は、徳川宗春について紹介したい。

徳川宗春は元禄9年(1696年)、尾張藩3代藩主・綱誠の第20子として生まれる。享保15年(1730年)、宗春の兄・継友の急死により尾張藩7代藩主となる。時の将軍・吉宗から偏諱(名から1字をもらうこと)を授かり、宗春と名乗るようになる。
尾張藩主になる以前から御家門衆のひとりとして吉宗と親交があったという。

藩主就任後まもなく名古屋城へ入った宗春は数々の奇策に出る。
当時、享保の改革を進める吉宗に対し、規制緩和を行い、民を自由にしたいと「温知政要(おんちせいよう)」という自身の著書を藩士に配布し、行き過ぎた倹約は庶民を苦しめ、規制は違反者を増やすのみだと主張。幕府の倹約方針に異を唱えた。

宗春は自ら奇抜な衣装で巡視に出向き、城下に芝居小屋や遊郭などの遊興施設を設け、夜間の外出を認めるなど、経済の振興に大きく貢献。
しかし、まもなくして幕府から詰問を受ける。乱れた藩の士風や財政悪化もあり享保20年(1735年)から引き締めに入るも、幕府に目を付けられた宗春は、天文4年(1739年)隠居謹慎の命を受けてしまう。

(次田尚弘/名古屋市)
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天守閣の建て替え始まる 名古屋の文化を発信「金シャチ横丁」

2018-05-13 17:01:35 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、名古屋市民から信仰を集め、三種の神器の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祭られていることで知られる「熱田神宮(あつたじんぐう)」を紹介した。

名古屋市民に愛され親しまれる名古屋城は、木造天守復元のため今月7日から入場禁止となり、来年9月から解体が始まる。五層五階建ての新天守は2020年に着工し22年12月に完成予定。
しばし名古屋のシンボルが見られなくなるが、今年3月、城内にご当地グルメを集めた施設がオープンし話題を集めている。
今週は新たな賑わいを創出しようと作られた「金シャチ横丁」を紹介したい。


【写真】金シャチ横丁「義直ゾーン」

金シャチ横丁は3月29日にオープン。ご当地名物の「なごやめし」の数々や、新たな名古屋の食を提供する飲食店をはじめ、伝統工芸品、土産品を販売する店舗が立ち並ぶ。

名古屋城正門側に「義直(よしなお)ゾーン」、東門側に「宗春(むねはる)ゾーン」と名付けられた2つのエリアにわかれて構成。
義直ゾーンは、尾張藩の初代藩主・義直にちなんだネーミングで、木曽産の木材を使用し城下町を思わせる和風の佇まいが特徴。名古屋コーチンを使った料理や、ひつまぶし、みそかつなどの名古屋めしを提供する店舗が軒を連ねる。

一方、宗春ゾーンは尾張藩7代藩主・宗春にちなんだネーミング。義直ゾーンとは異なり、モダンな佇まいの建物で、若手経営者による新しい名古屋の食文化の発信をめざしているという。
宗春の名が使われた理由は、祭りや芸能を推奨、消費を促進し経済を活性化しようとした派手な性格の持ち主として知られるから。
時の将軍、徳川吉宗の質素倹約を重視する政策とはまさに正反対で、名古屋に華やかで新しい文化を生み出したとされる。

(次田尚弘/名古屋市)
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