さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

音色は海を超えて 西陽子さん、筝曲コンサート

2016-12-25 20:15:21 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
和歌山市出身の筝曲家、西陽子さんが今年もブラジルを訪れ、日本の伝統音楽の魅力を伝える活動の一環として筝曲コンサートを開催。ブラジルから西陽子さんのリポートです。
 

私の8回目のブラジル訪問が終わりました。2009年から毎年、ブラジル日本研究者協会の一員としてブラジルのサンパウロや各地を訪れ活動を行っています。
ブラジル日本研究者協会の会長は、サンパウロ大学の渡部イッセイ名誉教授(お父様は和歌山県出身)です。

今年は、過去に東京、サンパウロでコラボレーションしたことのあるブラジル人音楽家、シェーン・リベイロさんの招きにより、11月17日、サンパウロ市内でコンサートを開きました。

ブラジルでのコンサートでは、私は地元のミュージシャンと積極的に交流し共演しています。
今回、尺八・フルート奏者のシェーンさんをはじめ4名のブラジル人ミュージシャンと共演しました。


【写真】西さん(左から二人目)と共演の方々

異文化の音楽環境で培った感性や表現力を組み合わせ、観客を魅了させる音楽を創りたいという想いは、お互い同じです。
さらに顔の色も言葉も違うのに、リハーサルでは昔から知り合いであったかのように息が合ってしまうというのは、海外でいつも感じる音楽ならではの不思議な体験です。

今回のコンサートは、日系人の方々だけでなく、地元のブラジル人も対象ですので、選曲もブラジルにあったものを選びました。
ラストに選んだブラジル曲の"TICOTICO"は、お琴とフルート、打楽器がうまく打ち解け合い、哀愁感ある音色が創り出せたと感じています。
満員の会場全体が陽気な雰囲気になり、皆身を乗り出して楽しんでくれました。

音楽って素敵です。国境や人種を超え、一緒に心を弾ませることができる。人種のるつぼであるブラジルで、そう強く感じました。

(箏曲家・西陽子/ブラジル)



西陽子さんのプロフィール

箏曲家 1964年、和歌山市生まれ。4歳から生田流筝曲の手ほどきを受け、12歳で沢井忠夫に入門。東京藝術大学音楽学部邦楽科を1986年に卒業。KAZUE SAWAI KOTO ENSEMBLEで多くの海外公演に参加。和歌山で筝曲教室を開き、母校の県立桐蔭高校筝曲部でも指導を始める。
桐蔭高校箏曲部員や卒業生・教室の方々と共に、2010年わかやま元気NPOまつりでの箏曲コンサート、2011年箏曲和歌山市民会館でクリスマスコンサート、2013年和歌山デスティネーションキャンペーンプレイベント熊野那智大社での箏曲コンサートの奉納、2016年東京浜離宮朝日ホールで「西陽子 箏リサイタル 〜夢を織る手〜」などを開催。
即興による「四季熊野」など5枚のアルバムをリリースしています。
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没後400年、墓碑を建立 幸村・大助を祭る「心眼寺」

2016-12-18 17:16:31 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では大坂夏の陣における最後の決戦「天王寺・岡山の戦い」での幸村の活躍(天王寺口の戦い)と最期を迎えた「安居神社」について取り上げた。

安居神社における幸村の死後、岡山口の戦いが繰り広げられた。
天王寺口からの銃声を聞いた徳川秀忠は本陣の進撃を命令。先鋒を務める前田勢が大野治房勢に崩され、井伊直孝勢、藤堂高虎勢が抗戦。
混乱に乗じ豊臣方の大野治房勢が秀忠の本陣へ到達し大混乱となる。
兵に混じり戦おうとする秀忠を本多正信が将軍自ら手を下すようなものではないと諌めたといわれる。

豊臣方の兵を防ぎながら本陣を後退させようとした秀忠であったが、徳川方の士気の低下を恐れ、数に劣る豊臣方の疲労状態を鑑み、陣を立て直し豊臣方へ反撃を開始。
大野治房勢をはじめ豊臣方は大阪城内へ撤退をはじめる。

後詰めとして大野治房勢の後方に控えていた大野治長らは豊臣秀頼の出馬を待っていたが、秀頼が淀殿の制止を振り切るのに時間を要し、秀頼が出馬した頃には豊臣方の軍勢は勢いを取り戻した徳川方に総崩れしておりなす術もなく壊滅。豊臣方は城内に総退却した。
まもなく真田勢を撃破した松平勢をはじめ徳川方が城内に到達し城は炎上。慶長20年5月7日深夜に陥落し、一連の大坂の役は終わった。

命を落とした幸村と息子の大助を祭ろうと、真田丸跡地に堂舎を創建し現在の「心眼寺」が成立。
寺の定紋を真田家の六文銭、山号を真田山とした。


【写真】幸村を祭る墓碑

当時の大阪は江戸幕府の直轄地であったため幸村の墓の建立は許されず、没後400年目にあたる2014年に墓碑が建立された。
豊臣家に忠誠を誓い、家族・親類を大切にした幸村の最期を弔いたい。

(次田尚弘/大阪市)
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真田幸村戦死の地 天王寺区「安居神社」

2016-12-11 17:34:14 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では大坂夏の陣における最後の決戦「天王寺・岡山の戦い」の激戦地で、徳川家の家臣である本多忠朝と墓がある一心寺について取り上げた。
引き続き、夏の陣・天王寺口の戦いを紹介したい。

徳川方の先鋒として豊臣方の毛利勢と衝突した本多忠朝であったが毛利勢の勢いは激しく本多勢は壊滅。
本多勢の救援に駆けつけた小笠原勢であったが毛利勢に崩され、続く徳川方の二番手、榊原・仙石・諏訪の軍勢も同様に混乱。
退却してきた二番手の兵と先へ進もうとする三番手の兵が入り乱れたことで家康の本陣は無防備となった。

その頃幸村は兵を複数に分け、天王寺口で松平勢と戦うも松平勢は真田勢を抜き大阪城へ進行。
一方、真田勢は家康の本陣へと進み、当時の和歌山藩主である浅野長晟(ながあきら)が豊臣方へ寝返ったと流布したことで徳川方を動揺させ3度に渡り本陣へ突撃を繰り返した。

家康本陣は大混乱となり家康は騎馬で陣を後にし避難。家康は切腹を覚悟しながら逃げたとされ、あと少しで豊臣方に討ち取られるところであったという。

その後体制を立て直し数に勝る徳川方は豊臣方の軍勢を側面から襲い次第に追い詰めていく。
幸村も自ら家康の首を狙い戦かうも陣へ退却することとなり一心寺近くの「安居神社」の境内で馬を下り休息。
その際、松平勢の兵(鉄砲組頭の西尾宗次)が休息する幸村を見つけ、幸村は境内の木の下で最期を迎えた。
「この首を手柄にされよ」と最後の言葉を残したという。享年49歳。慶長20年5月7日のことであった。


【写真】幸村が最期を迎えた「安居神社」

安居神社では幸村が腰を下ろしていた松の木を「さなだ松」とし、幸村戦死の地を伝える石碑なども建てられている。
安居神社は国道25号を挟み一心寺の真向いに位置する。

(次田尚弘/大阪市)
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夏の陣・天王寺口の戦い 本多忠朝の墓地「一心寺」

2016-12-04 15:25:16 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号より幸村が最期を迎える大坂夏の陣に縁がある名所を取り上げている。
幸村が伏兵を構えていた「四天王寺」から西へ約500m、茶臼山(天王寺公園)のすぐ北に位置する地域は、大坂夏の陣における最後の決戦「天王寺・岡山の戦い」の激戦地。

今週はこの戦場で討ち死にした徳川家の家臣である「本多忠朝(ほんだただとも)」と、忠朝の墓がある「一心寺」を紹介したい。

慶長20年(1615年)5月7日未明、大阪城を出立した豊臣勢が現在の阿倍野区から平野区に迎撃の体制を布き、徳川勢は夜明けと同時に大阪城へ向け進軍。大坂夏の陣最後の決戦が始まった。

茶臼山の本陣に幸村率いる真田一族、茶臼山の前方に真田の与力衆が、徳川勢は進軍の一番手に本多忠朝を大将とした兵を構えた。

本多忠朝は冬の陣でも活躍したが酒を飲んで不覚をとり、敵の猛攻に遭い敗走。
それを家康に咎められた忠朝は汚名を返上しようと先鋒となって徳川勢へ突入することを決意した。

忠朝は毛利軍へ正面から突入し奮戦するも戦死。死に際に「戒めるべきは酒なり(酒のために身を誤る者を救おう)」と言い残したとされる。
その後、家康と結びつきが強く冬の陣では家康の本陣が置かれていた「一心寺」に墓が建てられ、現在も「酒封じの神」として参詣者に崇められている。


【写真】「一心寺」西に通天閣を望む

一心寺は宗派を問わず参詣や納骨を受け入れ、集められた遺骨は10年分をひとまとめにし阿弥陀如来像を造立する「お骨佛の寺」として知られる。
現在は納骨堂に7体のお骨佛が祀られ、来年、平成19年から28年までの納骨で造立されるお骨佛が開眼されるという。

一心寺へはJR・地下鉄天王寺駅から北へ徒歩約15分。阪堺・地下鉄恵美須町駅から東へ徒歩約10分。

(次田尚弘/大阪市)
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