さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

「木造天守閣」復元へ 名古屋城天守・本丸御殿の歴史

2018-03-25 21:01:25 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号より、御三家・尾張徳川家の居城「名古屋城」の歴史を取り上げている。引き続き、天守閣や本丸御殿の歴史と現代の取り組みを紹介したい。

慶長14年(1609年)11月、名古屋城の築城を発令し、翌年1月より城の建築が始まった。普請助役に任命された西国大名20名には、初代和歌山藩主の浅野幸長(浅野氏15代当主)も含まれ、石に刻印を打ち工事を分担。延べ558万人が携わり僅か1年足らずで石垣を完成させたという。

元和2年(1616年)、徳川義直が清州から名古屋城へ移り、同時に家臣や町人、寺社までもが移住。名古屋の都市を形成する「清州越し」として知られる。

天守は大天守と小天守を土橋で繋いだ連結式層塔型と呼ばれる形式で、5層5階、地下1階建て。高さは55.6m。屋根上には、金のしゃちほことして有名な「金鯱」が載せられた。これは金の板を貼り合わせたもので徳川家の威光を表すためとされる。


【写真】「金鯱」のレプリカ

本丸御殿は藩主が居住していたが元和6年(1620年)より上洛する将軍専用となり藩主は二之丸御殿に居住。徳川秀忠、家光、家茂が宿泊したという。

時は流れ明治3年(1870年)、明治維新に伴い徳川慶勝(尾張藩14代藩主)から新政府に対し城を破却し、金鯱を鋳潰して武士への手当や城跡の整備に充当しようと申し出たが、ドイツの公使や陸軍の訴えにより城郭の保存が決まった。しかし、昭和20年の名古屋大空襲で奇しくも焼失。現在の天守は昭和34年に再建された。

再建された天守は耐震性能の問題から、木造への建て替えを決定。
市長選では木造復元が争点になった。現在の天守は5月7日から入場禁止となり、木造天守の竣工は2022年の予定。名古屋市のシンボルは今、生まれ変わろうとしている。

(次田尚弘/名古屋市)
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御三家・尾張徳川家 居城「名古屋城」築城の歴史

2018-03-18 22:06:02 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、牧之原の茶畑開墾を許可し、紀州の海防にも尽力した勝海舟を取り上げた。今週から舞台を名古屋市へ移し、尾張徳川家の歴史に迫る。
そこには紀州徳川家との縁もある。まずは「名古屋城」の歴史を紹介したい。


【写真】名古屋城

名古屋城は名古屋市の中心部に位置する。金の鯱鉾にちなみ「金鯱城(きんこじょう)」「金城(きんじょう)」とも呼ばれる。
名古屋城の前身にあたる「那古屋(なごや)城」は今川氏親(今川義元の父)により築城。享禄5年(1532年)、織田信秀(織田信長の父)の策により当時の那古屋城主の今川氏豊を追放し居城とした。天文3年(1534年)生まれの信長がこの城で生まれたという説もある。

信秀から後を継いだ信長は那古野城の北西に位置する清州城に拠点を移し、天下統一に向け、小牧、岐阜、安土へと居城を変え、やがて那古野城の役割が薄れたことから天正10年(1582年)頃に廃城。周囲は雉が多く住む野原と化したという。

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利を得た家康が豊臣秀頼との衝突に備え、江戸城や彦根城、駿府城など多くの城の築城や拡張を進めた。
当時、清州城主であった福島正則を安芸国・備後国へ転封し、家康の第4子である松平忠吉を配置。
しかし、忠吉が病死したことから家康の第9子である徳川義直が入城。ここから、尾張徳川家が始まる。

清州城は尾張国の中心でありながら大軍を備える敷地がなく、さらに低地であることから水害に見舞われることが多々あったとされる。
そのため、家康は清州城に代わる城を建てようと那古野城跡地に目をつけ、慶長14年(1609年)11月、名古屋城の築城を発令。翌年1月、将軍の徳川秀忠が西国大名20名に名古屋城の普請を命じ築城が始まった。

(次田尚弘/名古屋市)
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牧之原の茶畑開墾を許可 紀州の海防にも尽力・勝海舟

2018-03-11 13:32:49 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、版籍奉還により職が解かれた徳川の元幕臣らが剣を捨てて鍬をとり、牧之原台地を開墾し国内最大級の茶の産地の礎を築いた、徳川武士の挑戦を取り上げた。
今週は、これを指揮し初志貫徹で茶畑の開墾に取り組んだ中條景昭に協力した「勝海舟(かつかいしゅう)」を紹介したい。

中條らが開墾を行った牧之原台地の金谷(かなや)原は官有地。百数十年もの間、不毛の地とされ誰もが手をつけず、幕府の直領として放置されていた土地であったため、当時、新政府の要職に就いた勝海舟をはじめ静岡藩の幹部らに開墾許可の申し入れを行ったという。


【写真】美しい茶畑と富士山

勝海舟の後日談として当時の中條の強い意気込みを感じ許可へ至ったとされる。

勝海舟は文政6年(1823年)江戸の生まれ。幕末の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)のひとりとされ、徳川慶喜から託された戦後処理に尽力。単身で西郷隆盛と交渉を行い江戸城の無血開城へと導いた人物である。
幕府内では、ペリーの黒船来航時に提出した海防意見書が的確で老中の阿部正弘に認められ、薩摩藩主の島津斉彬からの知遇を得て、海防を中心とした政治の立役者となる。

文久3年(1863年)軍艦奉行を務めていた勝は、紀州藩の海岸防衛を命じられ和歌山を訪れている。沿岸部に砲台を築くなど紀州の海防に尽力したとされる。
その際、南海和歌山市駅から南東約300mに位置する和歌山市舟大工町に仮住まいし任務に当たり、ここに勝を師事していた坂本竜馬も訪れたという。

仮住まいしたとされる住居は現存しないが「勝海舟寓居地」の石碑が建てられ、紀州の海防を指南した要所として、当時の時代背景や勝の活躍を現代に伝えている。

(次田尚弘/島田市)

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初志貫徹で茶畑を開墾 牧之原茶を確立、徳川武士の挑戦

2018-03-04 13:47:37 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、蒸気機関車を観光資源に地域の魅力を再興し誘客に励むローカル線を取り上げた。
この一帯は、国内最大級のお茶の産地として知られる「牧之原(まきのはら)台地」。
今週は、牧之原台地の発展に貢献した武士の物語を紹介したい。


【写真】茶畑が広がる牧之原台地

牧之原台地でお茶の栽培が始まったのは明治初期。それまでは農作物の栽培には見向きもされない土地であったという。
慶応3年(1867年)15代将軍の徳川慶喜は大政奉還により駿府に隠居。慶喜の警護を勤めていた武士らも共に駿府へと移り住んだが、明治2年(1869年)の版籍奉還によりその武士らの職が解かれてしまう。
そこで、警護役の長を務めていた「中條景昭(ちゅうじょうかげあき)」が剣を捨てて鍬をとると宣言し、賛同した約250戸の元幕臣らが牧之原へ移住。開墾を開始した。

荒廃した土地は深刻な水不足で、剣を鍬に持ち替えたばかりの中條氏らは相当の苦労をしたという。
その中でも、かつて徳川幕府に仕えた中條氏の統制力や指導力が活かされ、粘り強く開墾を続けたという。

明治4年(1871年)には500ヘクタールの造園に成功。明治6年(1873年)には初めて少量の茶摘みができるも、一部の開墾者は農地を売却し中條氏の元を後にした。

中條氏にも神奈川県令への誘いが舞い込んだが「一度、山へ上ったからにはどんなことがあっても下りることはない。私はお茶や木のこやしになるのだ」と茶の栽培を生涯続けたという。
その後、深蒸し茶の考案により「牧之原茶」としてのブランドが築かれた。

版籍奉還により職を失い、異分野へ自ら挑戦し、初志貫徹を貫く。自らの代で大成しなくとも、信じて後の世へその種を植え実らせる。
中條氏の生き方に感銘を受けた。

(次田尚弘/牧之原市)


夕暮れの牧ノ原公園から見る大井川、バックには富士山が見えました。

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