さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

徳川頼宜公を祀る「南龍神社」 三重県松阪市 4

2016-08-28 13:44:17 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号に続き、御城番屋敷の保存に尽力した「田辺与力」の活躍と、御城番屋敷周辺の魅力を紹介したい。

かつて紀伊田辺藩・紀州徳川家付家老の安藤氏の与力から不名誉な形で浪人となり、様々な苦労を重ねてきた田辺与力であったが、紀州徳川家への忠義と再仕官のために力を尽くした海弁和尚への感謝の念を忘れず、御城番屋敷近くに徳川頼宜公(南龍公・南龍大神)を祀る「南龍(なんりゅう)神社」を松阪城本丸跡から移築し毎年法要が行われている。

南龍神社はかつて和歌山市にありその分社として建てられたという。
本宮は紀州東照宮に合祀され祭神(南龍大神)として祀られている。
なお、和歌山県有田市にある南龍神社も同じく徳川頼宜公を祀る神社。
ここでは徳川頼宣公が古座町の漁夫に舟を与え矢櫃浦に住まわせ、伊勢エビの養殖を奨めるなど地域の振興に感謝した住民らにより建てられ、現代でも紀州徳川家の長保寺に頼宜公の好物であった小豆を持って参詣する習慣が残っており、徳川頼宜公への忠義の心が紀州藩領に広く存在していたことがうかがえる。

南龍神社のほかに、三重県指定有形文化財の「土蔵」が同地(東隣)に建つ。


【写真】 南龍神社や土蔵が立ち並ぶエリア(松阪城三の丸跡)

かつて、松阪城内の隠居丸に建てられていた米蔵を明治初期に移築したという。
米蔵と共に建造された道具蔵(2棟)は解体されており、松阪城にまつわる建造物としては唯一現存するものとして大切に保存されている。

御城番屋敷、南龍神社、土蔵などが立ち並ぶ松阪城の旧三の丸エリアは自由に見学でき、御城番屋敷の1軒は内部が一般公開されている。
同エリアは一般の方々の居住地であるため、マナーを守りつつ、ぜひ散策していただきたい。

(次田尚弘/松阪市)






【写真】 御城番屋敷、南龍神社、土蔵などが立ち並ぶ松阪城の旧三の丸エリア

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御城番屋敷の保存、田辺与力の軌跡 三重県松阪市 3

2016-08-21 16:26:19 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号に続き、築150年を超える御城番屋敷が現存するに至った紀州藩士の軌跡を紹介したい。

御城番屋敷に居住していた紀州藩士らはかつて紀伊田辺藩・紀州徳川家付家老の安藤氏の与力「田辺与力」として活躍していた。田辺与力は地域での信頼が厚く藩内で圧倒的な力をもっておりそれを恐れた安藤氏が安政2年(1855年)、田辺与力に対し「今後は安藤家の直参として指図に従うよう」などと記した17箇条の通達を出した。

田辺与力らが通達の受け入れを拒否したところ安政3年(1856年)安藤氏から「押し込め」という謹慎処分を下されたことから暇願いを出し浪人生活を送ることとなり、田辺を離れる。

安政5年(1858年)、田辺与力の2名が紀州徳川家の菩提寺である長保寺(海南市下津)を訪れ、住職の海弁和尚に安藤氏からの命令撤回と帰参を相談。
海弁和尚は幕府や紀州藩、安藤氏に対し田辺与力の帰参を働きかけるなど手厚く支援。以後、田辺与力らは長保寺で5年間滞在することになる。

文久3年(1863年)、突如隠居を命じられた安藤氏に代わった家老が海弁和尚を通じ田辺与力らに再仕官の内示を出し、松阪城御城番40石の士分として紀州藩に帰参。
松阪へ移り住み、松阪城三の丸に屋敷地を拝領。2棟に20家族が居住する御城番屋敷が建築された。


【写真】公開されている御城番屋敷の一室

再仕官から僅か5年後に明治維新を迎え幕藩体制が崩壊。
明治6年(1873年)、家禄奉還制度により家禄(年収)の数年分と公債が与えられることとなり、浪人時代から苦楽を共にした御城番の家族らがこれらの資金を持ち寄り、明治11年(1878年)合資会社を設立。
農業や貸地・貸金業などを行い、以来、御城番屋敷の管理を150年に渡り継続してきた。

次号に続く。 
(次田尚弘/松阪市)






公開されている御城番屋敷
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国の重要文化財「御城番屋敷」 三重県松阪市 2

2016-08-14 20:32:22 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、三重県松阪市の「松阪城」の歴史について取り上げた。
今週は松阪城の遺構が残る街並みを紹介したい。


【写真】御城番屋敷の街並み

松阪城の南東、かつての三の丸にある「御城番屋敷(ごじょうばんやしき)」は、松阪城警護のため文久3年(1863年)に建築された紀州藩士とその家族が居住した組屋敷(くみやしき)。組屋敷とは江戸時代に大名の与力(よりき)組など、組に属する武士がまとまって居住していた長屋を指す。
ここでは東棟・西棟の2棟で構成され路地を挟み向かい合わせに建築されている。

東棟は桁行(横幅)90.9m、西棟は桁行83.6mと極めて長い平屋建ての長屋。
一戸あたり間口が5間(約9m)、奥行き5間が基本となっており、間取りは一戸につき6畳間が2間、8畳間が2間と土間、縁側(前・後)、3畳程の納屋(角屋)で構成されており、今も東棟に10戸、西棟に9戸が現存する。

御城番屋敷は現存する19戸のうち12戸が借家として貸し出されており、その内の一戸が平成2年から松阪市が借用し内部を創建された当時の姿に復元し一般公開を始めた。

同時に景観整備として電柱の移動や共聴設備の導入によるテレビアンテナの撤去、東棟・西棟の中央を走る路地を石畳にするなど観光資源化が進められ、平成16年に主屋となる2棟が国の重要文化財、土蔵が県指定文化財に指定されている。
近年は、この歴史的遺構を後世に伝えようと、シロアリ被害や耐震・防火対策を考慮した修復工事が行われ平成22年に完了している。

築150年を超える建造物が現存する理由は、かつてこの長屋に居住していた紀州藩士らの結束力にある。
その歴史を次号で紹介したい。

(次田尚弘/松阪市)




【写真】御城番屋敷から松阪城跡を望む


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紀州藩領「松阪城」の歴史 三重県松阪市

2016-08-07 13:31:48 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では三重県度会郡玉城町出身の元紀州藩士・村山龍平氏の功績を取り上げた。
田丸城と同じく三重県内で紀州藩が治めていた城がもうひとつある。
田丸城から北西へ約15キロにある「松阪城」だ。伊勢路のルートから少し離れるが、今週は松阪市を紹介したい。

松阪市は三重県の中部に位置する人口約16万3千人の町。織田信長の伊勢侵攻に伴い天正3年(1575年)に織田信雄が田丸城に天守閣を設けたが5年後に焼失したため、天正8年(1580年)現在の松阪市内の沿岸部に松ヶ島(まつがしま)城を築城。

織田信雄の家臣が城主を務め、その後は豊臣秀吉の家臣・蒲生氏郷へ渡り伊勢国の南部を統括する拠点として栄えたが、城下が手狭となり天正16年(1588年)に松阪城を新たに築城。

蒲生氏郷の考えにより、松ヶ島城下の町民を松阪城下へ移住させ、近江商人を城下の中心部に呼び楽市楽座を設け、さらに地域の豪商を誘致するなど、日本三大商人のひとつとされる伊勢商人が活躍する礎を築き、松阪は商都として大いに栄えた。

蒲生氏郷は小田原征伐の軍功により会津・若松城へ移り、服部一忠、古田重勝へと城主が変わり、元和5年(1619年)に南伊勢が紀州藩領となり城代が置かれることとなった。

かつては3層5階の天守があったとされる松阪城だが、正保元年(1644年)に台風により倒壊し、以後再建されることなく現在に至り、天守台のみが残っている。


【写真】松阪城の天守閣跡(松阪公園内)

現在は松阪公園として整備され、天守閣があったとされる広場が一般に開放されている。
園内は広く石垣の配置から南伊勢を統括するにふさわしい風格を感じることができる。

松阪公園は玉城町から車で30分程度。JR・近鉄松阪駅から徒歩約15分。ぜひ訪れてみてほしい。

(次田尚弘/松阪)





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