さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

人の往来を活かす 「八丁味噌」の魅力発信術

2017-01-31 16:07:58 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では全国各地の城下町に見られる道路の屈折を多く取り入れたまちづくりの基礎が築かれた、岡崎城下町の「二十七曲り」を取り上げた。
街歩きコースとして整備された城下町を歩いてみた。


【写真】味噌蔵が並ぶ「八丁蔵通り」

岡崎は「八丁味噌(はっちょうみそ)」の名で知られる「赤みそ」の特産地。味噌蔵が建つ「八丁蔵通り」があり、製造行程を学べる施設や食事処には団体の観光客らが多く訪れる。

八丁味噌は「二夏二冬(ふたなつふたふゆ)」という味噌づくりにしては長い期間をかけ天然醸造させる。味噌樽に仕込量の約半分の重石を積み上げるのが特徴。湿気が強い地域であることから水分を減らし保存が効く工夫といわれ、特有の濃い香りが特徴。

「八丁」の名は、岡崎城から西へ八丁(約870m)に位置する旧・八丁村(現・八帖町)で造られたことに由来するという。
八丁味噌の老舗メーカーの創業は古いところで600年以上。保存が効くという利点や栄養価が評価され、三河武士の兵糧として重宝されたという。

後に、東海道が味噌蔵の前を通るようになり、参勤交代の大名行列やお伊勢参りの人々が行き交い、東海道有数の宿場町であったことから八丁味噌を口にし味わう機会に恵まれ、幕末の頃には岡崎名物の土産品として全国に名が知れるようになったという。

私たち関西人に馴染みが出始めたのは昭和30年代に「赤だし」として口にする機会が増えたこと。赤味噌特有の風味とその魅力が全国へ広がった。

近年は「名古屋めし」として「味噌煮込みうどん」や「味噌カツ」が、「きしめん」などと並ぶご当地の食の魅力として定着。
地域で愛されてきた食文化を人の往来を通じて全国へ浸透させた先人の工夫に感銘を受けた。

(次田尚弘/岡崎市)
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四百年前のまちづくり 岡崎城下町の「二十七曲り」

2017-01-22 13:54:25 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では岡崎城と徳川家康公を祭る「龍城神社」の歴史を取り上げた。今週は岡崎の城下町を紹介したい。

岡崎の城下町の発展は岡崎城を居城としていた家康が秀吉の命により関東への転封を命じられ、代わって入城した秀吉の家臣である「田中吉政」による街の造成に始まるとされる。時は天正18年(1590年)。

吉政は武家屋敷や寺院を城の近くに配置し城の周囲を約5キロに及ぶ田中堀と呼ばれる堀を巡らせるなど城郭を拡張。市内を流れる乙川の南を通っていた東海道を北に引き入れ町屋を形成するなど城下町の礎を築いた。

街の特徴は「二十七曲り」と呼ばれる屈折した道。まるで迷路のように東海道が城内を右へ左へ屈折する。
その理由は秀吉の家臣である吉政が家康による攻撃に備えるためであったといわれる。


【写真】「二十七曲り」を紹介する石碑(名鉄岡崎公園前駅)

秀吉による転封の命により岡崎城を止む無く去った家康がこの地を奪い返しに来ることを恐れ、攻撃に強いまちづくりを行った結果、二十七にも及ぶ曲がり角がある城下町が出来上がった。
寺院を集めたいわゆる寺町を設け、敵の見張り台や頑丈な壁を作らせるなど、10年の歳月をかけ完成させたという。

また、曲がり角が多い分、直線の道と比べ城下町を通る道の総延長が長くなり、多くの商店が東海道の沿道に店を出すようになり、岡崎の城下町は東海道五十三次の宿場町として大きな繁栄をとげることとなった。
吉政によるまちづくりは全国各地でも採用され、城下町ならではの光景として一般的となった。

この二十七曲りは、先の大戦の空襲による戦災復興に伴う道路整備などで、一部は失われたが、近年その価値が見直され、全長約4キロの街歩きコースとして整備されている。

(次田尚弘/岡崎市)
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家康公を祭る 愛知県岡崎市「龍城神社」

2017-01-15 14:24:43 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号に続き、徳川家康の生誕地、愛知県岡崎市の岡崎城を紹介したい。

岡崎城が現在の地に築城されたのは享禄4年(1531年)、家康の祖父にあたる松平清康によるものだが、15世紀前半にここから少し離れた明大寺という地に西郷頼嗣の居城として築城されたのが岡崎城の起源とされる。

岡崎城は別名を「龍城」という。それは西郷氏による築城の際に起きた出来事がきっかけ。岡崎城が落成した日、気高い乙女が天守に現れ「私はここに住む龍神である。
私を鎮守の神として崇め祭ってくれるならば、永遠にこの城を守ろう」と話すと城中の井戸水が噴出し、天高くへ去ったという。この不思議な出来事を西郷氏は真摯に受け入れ、天守の楼上に龍神を祭り、城を「龍ヶ城」、井戸を「龍の井」として称えたという。

龍神は天文11年(1542年)12月26日、家康誕生の際にも、天守の楼上に金色の鱗をした龍として現れたと伝えられている。

家康没後は、家康を祭神とした東照宮を祭る「龍城(たつき)神社」が造られ、後に岡崎城を治めた本多忠勝と合祀。
開運の神として市民に厚く崇拝されている。


【写真】家康公を祭る「龍城神社」。奥に岡崎城を望む。

岡崎城は廃藩置県の後、愛知県東部を管轄とする額田県の県庁が置かれたが、県の統合により県庁が名古屋市に移転。
明治6年(1873年)廃城令により建物は解体されたが、岡崎の象徴である天守閣が無いのはしのびないという市民の要望から昭和34年に天守閣を復元。
現在も自然豊かな岡崎公園のシンボルとして岡崎市民の憩いの場となっている。

岡崎城はJR岡崎駅から名鉄バス「殿橋」下車徒歩約5分。名鉄東岡崎駅から徒歩約15分。

(次田尚弘/岡崎市)
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徳川家康生誕の地 愛知県岡崎市「産湯の井戸」

2017-01-08 13:44:00 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
2017年の幕開け。皆様は新年をどのように迎えられましたか。
おかげさまで本コーナーは7年目、まもなく300号を迎えます。
今年も和歌山とつながりがある各地の魅力や事例をわかりやすくお伝えさせていただきたく、よろしくお願いします。

昨年は伊勢志摩サミットに因み、熊野古道伊勢路周辺にある三重県内各市町村の魅力と紀州藩時代の歴史、大河ドラマ真田丸のクライマックスに際し大阪城周辺の真田幸村ゆかりの地を長編のシリーズで取り上げました。
真田丸の余韻が残る今、大坂の役を制した徳川家康について触れたく、家康生誕の地、愛知県岡崎市をシリーズで紹介します。

◇                   ◇

岡崎市は愛知県のほぼ中央部に位置する人口約38万4千人の中核市で西三河地方を代表する街。八丁味噌が特産でその名は全国的に知られている。

徳川家康はかつての三河国を治める松平広忠の嫡男として天文11年(1542年)12月26日、岡崎城で生まれた。
岡崎城は享禄4年(1531年)に家康の祖父にあたる松平清康が現在の地に築城した。
現在は岡崎公園として整備され、家康誕生の際に産湯として使用されたという井戸が「産湯の井戸」として現存し、飲用には使用できないもののそこから汲み上げられた水に触れることができる。


【写真】岡崎公園(岡崎城)に現存する「産湯の井戸」

家康は6歳で織田信秀(信長の父)に、8歳で今川義元の人質となりこの地を離れたが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元の戦死をもって自立し19歳で岡崎城に戻り、元亀元年(1570年)に浜松へ拠点を移すまでの間、岡崎城を拠点に天下統一への礎を築いた。

(次田尚弘/岡崎市)
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