通常は上野の東京都美術館で開かれる院展が、日本橋三越本店で開催されている。東美が改修工事をしているためだ。何故、三越でかというと(知らなかったが)、大正3年、横山大観らにより再興された日本美術院の第1回展覧会は、ここ三越で開かれたそうだ。だから”ふたたび三越へ”の言葉がちらしに誇らしげにおどっているのだ。最終日になってしまったけど、忘れずに、出かけてきた。
会場に入ると、すぐに故平山郁夫画伯の過去の院展作品が3点、展示されている。”五浦風景””葡萄唐草文浮彫”そして”那智瀧”。昨年までは、いつも主要な展示室に王様のように飾られていたのに、本当にさびしいことだ。
今回、同人の作品の横に、その絵の描かれた場所やそのときの、彼らの心象が語られた小さなパネルがあって、とてもよかった。文章に作者の人柄まで感じられるようで、良い趣向だと思った。だから、今回は、その説明文を取り入れながら、感想文を書いてみようと思う。
墨絵風の田淵俊夫が、最近、好きになって、今回の”華清池”も良かった。西安の有名な池で、
そこに佇む湯殿を描いている。白楽天の「長恨歌」にも詠まれている、玄宗皇帝が楊貴妃とともに享楽の日々を送ったところなのだ。その後も歴史の舞台になったが、今は静かに(観光でうるさいかな)、”つわものどものゆめのあと”となっているのだ。
今年の祇園祭りのとき、この通りで食事をしたので覚えている、京祇園の一力の前に美しい娘さんが立っている。”漫(すず)ろ”という題名で、作者の説明によると、”漫ろ”とは、なんとなく心ひかれる心、落ち着かない気持ちのことで、これから始まるきざしを表現したいと思ったという。梅原幸雄作。”美人画”は、そのほか気にいったものがいくつかあったが、これが一番良かった。
後藤純男は以前からフアンであるが、ここ2,3年のは、ぼくの心にはあまり響かない作品だった。でも今年の大和のお寺の雪景色はとても気に入った。実際の写生からではなく、自分が宮大工になったつもりで描いたそうだ。ぼくも最近、奈良の古寺や大和路が好きになっている。
小田野尚之の ”映”。若草に囲まれた線路が、画面を割るように、右下から左上に斜めに走っている。その回りは、田植えを待つ水の張られた田んぼ。その水田に線路の電信柱と電線の、直線の影が映し出されている。いい構図だなと思った。絵ハガキを逆さにしてみたら、緑の高速道路か、モノレールのようで、これもなかなか良かった(汗)。
大野逸男の”柳生道”。春日山と高円山の谷間を通り、柳生の里に抜ける道。石畳も一部残っているそうだ。歩きたい古道だ。熊野古道もこんな感じだったっけ。
鷲の絵も印象に残った。今井珠泉作”颯(さつ)”北海道で尾白鷲をみたくて、何年もかけて観察に行ったそうだ。なかなか遭遇できなかったが、たまたま、シマフクローを探しにいったとき、偶然、冬季、流氷と共に飛来してきた尾白鷲をみたそうだ。そのときの印象をもとに描いたとのこと。目いっぱいひろげた羽。鷲の褐色が回りの景色まで同じ色に染めている。
そして、巨樹を描きつづける、ぼくの好きな、石村雅幸の今年の作品は、”神代桜”。樹齢2000年ともいわれるエドヒガンザクラの老木だ。日本三大桜のひとつだが、ぼくは、これだけはまだ観ていない。でも、この絵は、桜の花が主役ではなく、もう桜は散って、葉桜になっている。主役は幹だ。2000年の歴史を刻む木の肌、人間でいえば、顔に刻まれた深い皺が、克明に描かれている。巨樹に魂が宿っているのが伝わってくる、いい絵だった。絵ハガキがなくて残念だった。今年も奨励賞を受賞している。
手中道子の”蒼(そう)ぼう”も良かった。森の中の草木、一つひとつの葉っぱが、虫食い跡があったり、ゆがんだのがあったり、個性豊かに、また明るい緑を主体に、さまざまな緑も配し、森林浴をしているような気持ちになった。こればかりではなく、森の絵はあちこちにあった。いずれもフィトンチッドがあふれていた。
明るい雪道に木々の影がうつる、久保孝久の”光の道”も良かったし、コスモス畑を描いた、初入選の村田晴の”流転”も印象に残った。まだまだ、いい絵がいっぱいあったが、きりがないので、最近、みつけた、司馬遼太郎の日本画観(まさにぼくもそう思う)を載せて、おわろうと思う。
世界の絵画の中で、清らかさを追求してきたのは、日本の明治以降の日本画しかないと私はみている。いきものがもつよごれを、心の目のフィルターでこしにこし、ようやく得られた、ひとしずくが、美的に展開される、それが日本画である。
感謝m(_ _)m
頑張ります。