気ままに

大船での気ままな生活日誌

宝戒寺の枝垂れ梅

2007-02-22 11:00:49 | Weblog
明日から1週間ほど、鎌倉を離れますので、帰ってきてからは、たぶん散ってしまうだろうなと思い、いそいそと、宝戒寺の枝垂れ梅の見物に行きました。

山門から本堂に至る小径の両側に、白梅が4,5本ずつありますが、それらはほとんど満開に近い梅花を咲かしていました。そこを通り過ぎて、さて、問題の枝垂れ梅はどうか、まだ見頃ではないのではないか、あるいは、もう終わってしまったか、と恐る恐る左側の枝垂れ梅の方に目をやりました・・・やりました!OKです!ほぼ満開に近いかたちで、堂々たる姿をみせてくれました。去年も行きましたが、そのときは盛りを完全に過ぎていました。なかなか見頃の時期に訪問できないものです。普通の梅は、蕾がいっぱいの五分咲きの頃が好きですが、枝垂れ梅は満開が好きです。ほんの少し蕾を残しながら、花びらを落とし始めている、まさに絶頂のときでした。今日の訪問は大成功でしたね。もし1週間後でしたら、ほとんど散っているでしょう。

私は嬉しくなり、この梅がよくみえる南側の庭石に座り、長い間ながめていました。その間、観光客が入れ替わり立ち替わりやってきて、すごいね、りっぱだね、わあー間に合って良かったわね、とか思い思いの言葉をかけて、立ち止まり、そして通り過ぎていきました。

私はようやく立ち上がり、本堂の南側の、大聖天というお堂の前に移動しました。そこの、白だけではなく、ピンク、濃いピンク、そして深紅と、色とりどりの梅の花に目を惹かれたからです。多彩で、華やかで、うっとりしてしまいます。枝垂れもいいけど、これもいいと、つい八方美人になってしまいます。また、本堂の裏に回ると、また八方美人になりそう。いろいろの種類の椿がたくさん植えられています。見頃はもう少しあとでしょうけど、赤、ピンク、白、赤と白のまだら等、いい花をたくさん咲かせていました。

いつものように、本堂に上がり、鎌倉江ノ島七福神のひとつ毘沙門天さまにお参りしました。それから、本堂の片隅の小机の前に座りました。そこに、参拝者が思い思いの文章を綴るノート「白萩」をみせてもらうためです。さまざまな人生が語られ、しんみりすることが多いのです。今日は、前日に書かれたふたつの、美しい女文字の文章に胸がつまり、それ以上、ページをくくることができませんでした。

今日は小雨の降る寒い日です。あなたと別れた日もこんな日でしたね、・・もう5年生になったのね、どういうふうに暮らしているのかしら、お母さん、いいお寺をみつけましたよ、ここに来ると、心が安まるの・・そして、同じ日付の、すぐ後の女文字の文章・・昨日のおつやに行けなくてごめんね・・・(あとはもう書けませんね)

本堂を出て、私は、また、花いっぱいの枝垂れ梅の前に立ちつくしたのでした。私の前を、多くの人々が立ち止まり、そして通り過ぎて行きました。これらの人々を来たときは違った感慨でながめている自分に気づきました。・・私のようにのんきな気分でみている人ばかりではない、さまざまな、それぞれの人生を背負った人々が、さまざまな、それぞれの思いで、この梅の木を観ている、そして心の中でなにかを語りかけている・・

・・・・・
宝戒寺を出たあと、荏柄天神に向かいました。本殿の前の、白梅、紅梅は完全に終わっていました。そして、鎌倉宮では、鳥居の前に、背丈が2メートルほどの3本の若木の河津桜を見つけました。先日紹介した北鎌倉のと同じぐらいでしょうか。3本とも、それぞれ満開、8分、6分咲きといった感じで、それぞれ自由気ままに生きているようでした。







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ある音楽家が語ったこと

2007-02-21 10:25:31 | Weblog
この写真の人、お分かりですか。そうです、指揮者の大友直人さんです。若いときからハンサムでしたが、現在、50ちょっと前ですが、相変わらずの男前ですね。大宅壮一さんが「男の顔は履歴書である」という名言をつくりましたが、この顔写真にも彼の歴史が感じられます。

大友さんは高校生時代から指揮者を目指し、桐朋で小野崎さんというコントラバスの名手から英才教育を受けます。指揮者は、演奏している人から、あの人はどこか違う、雲の上の人だと思われるぐらいでなくてはいけない、そうでないとついていかない、と教えられ、いつもそう意識して修行してきたそうです。ですから、指揮者というのは、孤独な職業だそうです。演奏旅行でも、誰も一緒に食事をしようと言ってくれず、いつも一人だそうです。私も現役時代そうでした(それはただの仲間はずれだ、の声・・・(汗))

大友さんのお話によると、首都圏では、毎晩のように10以上のコンサートが開かれていて、ハイシーズンには20も30もの楽団が、どこかで演奏活動をしているそうです。世界的にもトップクラスだそうです。大友さんは、でも、ほんとうに、皆さんが音楽を楽しんでいるのか、疑問に思うことがしばしばあるそうです。

演奏する人たちと聴く人々との関係が、しっくりいっていないように感じるんだそうです。演奏会というのは、たとえて言うと、球場へ出向いて野球観戦するのと同じだというのです。ひいきのチーム、選手を、鐘や太鼓で応援する、ときには、大声をあげ激励する、相手のチームの選手には罵倒の野次を飛ばす、選手もそれに呼応して発憤し、いいプレイをする、そういう一体感をもった関係が演奏会にも必要だというのです。

楽団の人たちが舞台に上がってきても、しらっとしている、そして、どんなすばらしい演奏をしても、おざなりのパラパラ拍手であったり、逆にビッグネームの失敗演奏に盛大の拍手したりしているようでは、演奏者と観客のいい関係がいつまでも築かれないというのです。

これは、我々が音楽の理解度を上げる必要もあるのですが、もっと根本的なところに問題点があると、大友さんは指摘します。こういう関係は、実は日常生活の礼儀作法や倫理に深く関係している、ふだんろくに挨拶もしない、お年寄りを大事にしない、自分勝手なことばかりしている、そんな人が音楽会のときだけ、これから演奏をしようしている人たちの、ここにくるまでの血のにじむような努力、費やしたエネルギーに思いを寄せ、感謝する気持ちなどもてるはずがないというのです。心のこもった拍手をするはずがないというのです。

音楽家としてみても、最近の日本人はどうも根本的なところができていない、と感じているそうです。やはり、今の学校教育や家庭教育に問題があるのではと思われているようです。

日本人の心のレベルアップが必要なんですね。このままだと、ほんとうに世界からばかにされてしまいます。私自身も自戒したいと思います。そして、コンサートに行ったら、少なくとも、舞台にのぼられてくる、一人ひとりの演奏者の、それまでの汗と涙の努力に思いを馳せ、感謝して迎えたいと思います。音楽力の上昇はもう無理ですからね、演奏も、うまい、普通にうまい、へた ぐらいしか分類できませんので、それはご容赦くださいね。

・・・・

昨日、近くの鎌倉芸術館の「カフェ・ピアッツア」の「大友直人さんの楽しいお話と菊池洋子さんのミニコンサート添え」、イリー・エスプレッツ and ブラッドオレンジジュースのドリンク付き(鎌倉芸術館主催・かまくら文化講演会2006)に、ワイフと参加しました。

菊池洋子さんのピアノ演奏も良かったです。ショパンの子犬のワルツほか2曲、モーツアルトのトルコ行進曲、サロンのような小さな部屋で聴く演奏も、家庭的でいいですね。

菊池さんもすごい人です。自分が高校生の頃、イタリアのイモラ音楽院の楽団が来日したときに、全体でまとまっているのに、一人ひとりの演奏に個性が感じられ、こういうところで学びたいと思い、留学されたそうです。2001年ザルツブルグ第8回モーツアルト国際コンクールで日本人として初めて優勝というすごいキャリアをもっています。モーツアルトの曲は子供でも弾け簡単そうですが、実は奥が深い、毎日が発見だそうです、これでいいと思っても、演奏会ではその音がでない 音楽が逃げてしまうなんていうことが、よくあるそうです。シンプルだけど難しい。一生、モーツアルトを弾いていきたいと言っていました。

とても有意義な、楽しいトークとピアノ演奏でしたよ。
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東慶寺の梅

2007-02-20 09:53:42 | Weblog
北鎌倉の東慶寺の梅を観に行きました。梅の見頃の時期には、どうしても行ってみたいお寺です。鎌倉の観光人力車、有風亭の青木登さんに言わせますと、ここ東慶寺と荏柄天神をご案内したら、もうそれで鎌倉の最高の梅をみていただいたことになります、だそうです。

山門をくぐると、前方の道の両側にずらりと梅の並木です。ちょうど見頃の白梅、紅梅が出迎えてくれました。お日様がちょうど真向かいの南西側の山の上で、山門前からは逆光の位置関係になります。それが、なかなかいい感じなのです。まぶしい日の光で背景が見えにくくなっています。そして、その消えた背景の中に無数の梅の花だけがひかり輝いて、まるで梅の花々が天に浮いてるようにみえるのです。しばらく呆然と立ちつくしてしまいました。

わー、すごい、大きい木ね、と言う女性の声に我に返り、その声の方向に目を向けました。左手の鐘楼の前に、梅の古木があふれるほどの花をつけて、堂々と鎮座していました。その中年の女性が、受付の方に、どれくらいの樹齢なんですかと、聞いていました。百年は越えてます、元住職の方が九十何歳で今もお元気ですが、その方が子供のころからあったそうですから、と答えていました。

その古木の脇に小さな歌碑がありました。そこには「女作者はいつも、おしろいをつけている。この女の書くものはたいがい、おしろいの中からうまれてくるのであろう」と刻んでありました。波乱の人生を送った作家、田村俊子さんが友人の智恵子さん(高村光太郎の奥さん)をモデルにして書いた「女作者」の中の文章です。

梅の古木の幹にはりついている、年期ものの白い苔が、まるでおしろいのようにみえました。この梅の木のくねくねした枝振りをみると、この梅も波乱のジン生を送ってきたように思えました。田村俊子さんが乗り移ったようでした。それで、この梅に「トシちゃん梅」と名前をつけました。瀬戸内晴美さんが「田村俊子-この女の一生」で第1回田村俊子賞を受賞しているそうです。一度読んでみたいですね。お墓も境内にあります。

一方、右側の書院の前の梅も、トシちゃん梅に負けないくらいでした。すぐ、ここにお墓のある、あの女流作家を思い出しました。そうです真杉静枝さんです、田村さんに負けず劣らず波乱の人生を送っています。あの実篤さんの愛人にもなりました。林真理子さんの「女文士」という本を読めば詳しく出ています。なかなか面白いですよ。それで、この梅に「シズちゃん梅」と名前をつけました。

松ヶ岡 男をみれば 犬がほえ という川柳がありますが、ここは駆け込み寺として有名でした。このお寺にちょうどいいですね、人生経験の豊富なおふたりが仁王様のように入り口に立っていて。でも、駆け込んできた女性に、「お寺なんかに逃げないで、他に、いい男をみつけなさいよ、いくらでもいるわよ」なんて言って追い返してしまいそうですね。

梅並木を通り抜ける間、赤いぼけの花、福寿草、まんさく、クリスマスローズなどの花々も楽しむことも出来ました。上に目をやると、東慶寺といえばこの花と、フアンの多い、書院の庭の白木蓮が今にも開きそうな大きな蕾をたわわにつけていました。そして松ヶ岡文庫入り口近くの岩場には、これまたファンの多いイワタバコの若い、ごわごわした葉がたくさん、でもちょっとだけよと、顔を出していました。

田村俊子さんと真杉静枝さんのお墓にお参りして、東慶寺をあとにしました。

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「秋日和」を観る

2007-02-19 10:33:04 | Weblog
先日、逗子文化プラザ、なぎさホールで上映された、小津安二郎監督作品「秋日和」を観てきました。

小津さんといえば、原節子さんがどの作品も紀子役で出た、「晩春」「麦秋」「東京物語」の紀子三部作が有名ですが、この映画は、その7年後の、1960年に作られたもので、原節子さんは、ここでは未亡人役で、名前も紀子でなく秋子で出ています。このとき、小津さんは57才になっていますので、晩年の作品ということになります。脚本は、野田高梧さんと小津さんの名コンビで、三部作のときと同じです。ストーリーは「晩春」のリメークかと思うほどよく似ています。三部作と明らかに違うのは、この映画がカラー作品ということです。小津さんは、赤が大好きと聞いていましたので、どういう赤が画面に出てくるのか楽しみでした。

原節子の亡き夫の七回忌の場面から映画は始まります。そこには娘の司葉子と、亡夫の友人中年3人組(佐分利信、中村伸郎、北竜二)が出席しています。実はこの映画、かなりの部分が(とくにこの三人組の)コミカルな会話や行動で占められていて、観客のクスクス、うふふ、が絶えません。

中年3人組はいずれも、独身時代は原節子に夢中だったのです。この三人が、ちょい悪おじさんで、母娘が退席したあと、彼女たちの品評をしたり、今なら、セクハラと言われそうな会話が続きます。そして、年頃になった娘、司葉子の結婚相手を探してあげようと相談がまとまります。でも娘は母をひとり残して結婚する気持ちにはなれません。それではと、原節子の相手を捜そうと画策します。すると、3人組のひとり、妻を亡くしている大学教授の北竜二がどうも気があるようです。その仲立ち役に、とぼけた中村伸郎が選ばれますが、原節子には何も伝えず、自分ばかりがいい思いをして帰って来てしまいます。でも、話は変なふうに伝わってしまい、北竜二と原節子が結婚するという噂がたちます。

そして、司葉子は原節子に、お母さん、私に何も教えないで、ひどい、何故結婚するの、不潔、と迫ります。えっ、なんのこと、私知らないわ、と原節子。一方、司葉子の友人、岡田茉莉子は、司葉子に、あなた古いわよ、お母さんに結婚させてあげなさいよ、となじります。そして、三人組のおじさん達に直談判にも行き、たんかを切ります。岡田茉莉子の奮闘で事態は収拾します。

そして、母娘二人だけの思い出旅行、故郷の温泉宿での会話。・・あなた、お母さんが再婚すること、きたならしいって、そう言ってたわね、・・ううん、もういいの、そんなこと、ごめんなさい、つまんないこと言っちゃて・・ううん、お母さんもそう思うのよ、お母さんやっぱりひとりでいるわ・・だってお母さん・・ううん、あたし、お父さんひとりでたくさん、これからもずっとお父さんと二人で生きていくわ、もうこれでいいのよ・・二人の和解です。故郷の風景がやさしく流れます。

ラストシーンは、「晩春」と同じように、結婚式を終えて、ひとり我が家に戻る原節子。布団の上に座りこみ、何かを思う原節子。そして、人影のない、アパートの外の玄関口の廊下の風景が映し出されます。

映画を終え、外を出ると、その日は寒風がふきすさんでいました。小津作品を観たあとはいつもそうなのですが、私の心は、すっかり小津モードに切り替わっていました。通りすがりの、買い物袋をさげた主婦、学校帰りの女学生、小さな子供をなだめながら歩く若いお母さん、いつもの何気ない風景です、でも今日は、そんな人たちが何故かとても気になるのです、それぞれの日常、もう少し長い目でみた人生をどのようにして送っているのだろう、懸命に生きている人たちが、いとおしく思えるのです。

とくに、劇的な筋立てのない、何気ない日常を描き、それも、かなりコミカルな場面が多いのに、こういう気持ちにさせるのは、なんなんだろうと思います。ふと、先日、テレビでみた星の王子さまとキツネの会話を思いだしました。「心で見なければみえてこない、大切なものは目には見えないんだよ」もしかしたら、映画作りの名工、小津さんは、映画の中のあちこちにしかけを入れて、私達に心でみさせているのかもしれない、と思いました。

・・・・・
小津さんのお好きな赤は、全体では、とくに目立つほどではありませんでしたが、シーンによっては、赤が溢れていましたよ。居酒屋だったか、戸板が真っ赤に塗られていたり、提灯の赤が目立ったりしていました。

写真はポスターのをデジカメで撮りました。右から、原節子さん、岡田茉莉子さん、そして司葉子さんです。みなさん、とてもおきれいでした。とくに司葉子さんは光輝いていました。岩下志麻さんもちょい役で出ていました。豪華キャストでしたよ。
 


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北鎌倉の河津桜

2007-02-18 09:32:03 | Weblog
皆さん、北鎌倉に河津桜が植えられているのをご存じですか。本場の見頃の河津桜を観て、帰りの電車の中で、ふと、あの、北鎌倉の河津桜も、もう咲いているだろうかと、思いを巡らしていました。

そこで翌日、散歩がてら、その場に出向きました。北鎌倉駅を降り、円覚寺の前を通り過ぎ、しばらく歩くと、左に、明月院方面に向かう道が現われます。その曲がり角の鉄道沿いに小さな空き地があります。その空き地の線路側に、もう2メートルほどに育った、河津桜の若木が、合計5本植えられているのです。また、同じぐらいの背丈のロウバイの木も、ひとつおきに植えられています。

咲いていました。まだ少女のような5人娘が、あのピンクの愛らしい桜の花を、枝の先端だけですが、少しだけつけて、愛嬌をふりまいていました。とくに一番端の、駅寄りの木が、成長も早く、花も一番でした。でも、まだ、開花直後といった感じで、一分咲きといったところです。伊豆の河津と北鎌倉の気候の差がそのまま出たということでしょう。

この桜のことを知ったのは、以前ちょっと紹介しましたが、円覚寺前で観光人力車をやられている、「有風亭」の青木登さんの書かれた「人力車が案内する鎌倉」を読んで、です。

青木さんは、北鎌倉商観光を考える会を立ち上げ、その中で、ちょっと寂しい、冬の北鎌倉にお客さんを呼び込む方策を考えました。そして、そのひとつに、河津桜はどうかということになったのです。そして、試しに、30本の苗を買って、植えたのでした。

この文章を読んですぐ、1年ほど前ですが、私は、北鎌倉のあちこちに、その河津桜を探しに歩いたのです。まだ花のない時期だったせいもあるでしょうが、なかなか見つかりませんでした。そして、ようやく、ここの空き地の5本を見つけ出したというわけなのです。でもまだ、あとの25本は見つけていません。楽しみはあとに残しておきましょう。

10年ぐらいたつと、この5人の娘さんたち、みな立派に育って、たくさんの華やかなピンクの花を咲かせてくれることでしょう。横須賀線がすぐそばを通っていますから、車窓からもよく見え、観光の人たちにも喜ばれることでしょう。そして、そのころ、私は、○才になっていますが、まだまだ元気で(足腰はだいじょうぶ?という声も(涙))、すっかりきれいになった娘さんたちを愛でていることでしょう。




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河津・来宮神社の大楠

2007-02-17 16:55:29 | Weblog
河津桜並木の賑わいから抜けだし、ひっそりと静まりかえっている来宮神社を訪れました。ここに、樹齢1000年以上の大楠があると聞いていたからです。

鳥居の脇の大きな楠が、すぐ目に入りました。でも、これではないことが、「天然記念物の大楠は奥」という表示で分りました。社殿の横にも、また大きな楠が、フェンスに寄りかかるように立っていました。これでもありませんでした。社殿にお参りして、ふと横をみると、天然記念物は社殿のうしろという立て札がありました。

真打ちは最後に出てきました。大事そうに柵に囲まれ、人が入って土を固めてしまわないようにしていました。

幹周が14メートル、高さは24メートルの巨木です。国の天然記念物に指定されています。その太い幹には、しめ縄が渡されていて、いかにも、山の神さまという風情でした。横に回ると、太い幹に大きな洞があり、この木が1000年という風雪に耐えてきた歴史を感じさせます。

こういう、長寿の巨木を前にすると、誰でも、敬虔な気持ちになります。私達の何十代もむかしの先祖の人たちが生きていた時代から今日まで、ずっと、私達の生活を静かに見守っていてくれている、そして木自身も、数々の天災や戦さなどの人災を乗り越えて、今日に至っている、そんなことが心に浮かび、人々を沈黙させるのでしょう。

私の尊敬する、小学校時代の先生はもう80才近くになりますが、毎年、地方の巨樹を訪ねるのを楽しみにしています。巨樹巡礼ですね。そして、毎年の年賀状に、その見聞記(詩)をのせておられます。今年は上越市の虫川の大杉でした、・・やがて冬 襲い来る暴風雪に この大杉がどう立ち向かうのだろうか そんなことを思いながら 石段をゆっくり下りました・・おわりの文章だけ紹介しました。

先生は校長先生を辞められて、60代から70代前半までの体力のある頃には、山林の一部を借りて、下草刈りをご自分でなさるなどして自然林の保護に力をつくされていました。そして、旅に出ては、その土地の巨樹を愛で、その土地のお酒とお料理を楽しみます。とてもいい晩年をすごされています。

私も、今回の大楠見物をきっかけに、先生のように、桜だけではなく、巨樹巡礼も始めてみようかなと、思いました。

・・・・・
熱海の来宮神社は、近くに梅園もありますので、何度か訪れたことがありますが、ここ河津の、同じ名前の来宮神社は、今回が初めてでした。当社には鳥精進、酒精進の行事があり、氏子は12月18日から23日まで、禁酒し、鳥も卵も食べられません。その由来は、祭神、杉鉾別命が酒に酔い、野原の枯れ草の中で眠ってしまった、その時野火が起こり、火に囲まれて絶対絶命の状態になった、すると小鳥の大群がやってきて、水を含ませた羽から水滴をたらして消火し、命を助けたと、いう伝えからきています。酒好きの私としては、耳の痛い話しです。

私もこの日ぐらいは、お酒だけは許してもらって、鳥精進くらいはしようと思い帰宅しました。ワイフが夕食に、牛肉のすき焼きを用意してくれていました。鶏肉でなくて良かった、今日は鳥精進できたと喜んでおりました。でも食事の途中で、はたと気づきました。すき焼きを生卵につけて食べていたのです。明日こそ、酒精進、鳥精進の二本立てでいきたいと思っています。


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河津桜見頃

2007-02-16 22:28:20 | Weblog
河津桜まつりが始まっていると言うので、早速行ってきました。大船から乗り込んだ踊り子号の自由席が空いていて、うまく座って河津まで行けました。土日だとこうはいかないでしょうね。気まま族の特権ですね。

昨年は二度ほど行っていますから、まつり会場の様子はよく分っていますので、手際よく行動できました。駅前から、おみやげさんが並ぶ小さな通りを抜けて、河津川に出ます。この河津川沿いが何キロにも渡って、どこまでも桜並木が続きます。

六、七、八分咲きあるいは満開(結構、木によって違うのです)といった感じで、トータルすると、もう十分見頃でした。去年より10日ぐらい早く出来上がった、という感じでしたよ。平日だというのに、凄い人出で、もう、どの方も、みんな、幸せそうな顔をしていました。

もともと桜好きの私も、もう、めろめろで、しどろもどろで、酔ぱらったように歩いていました。花のせいにするな、お酒のせいじゃないのかって?・・・・(汗)。花のトンネルみたいなところもあって、その下を通るときなんかは、もう気絶しそうでしたよ。呑みすぎのせいだろうという声も、・・・(涙)。

戸塚の柏尾川沿いの桜並木もどこまでも続きますが、ここはそれ以上ですよ、いつまでも、どこまでも♪、井上順さんの歌みたいに続くんですよ。もう、本当に、青空の中の夥しいピンクの花、そして川縁には、まっ黄色な菜の花、春色にすっぽり包まれて、ボーとして、うかれて、さまよい歩いたのでした。ボーとしているのは、今日に限らないではないかとの声も。・・・(大汗)。

去年、行けなかった、河津桜の原木も拝んできました。この辺りに7000本もある河津桜のお母さんですからね、すごい木なんです。それは、河津川に、少し離れて併行して走っている車道の脇の飯田さんという家の庭にありました。もう満開でした。お母さんというより、河津桜の女王という感じで、河津川の方を向いて、あたりを見渡していました。

案内板によると、昭和30年頃、この家の飯田勝美さんが河津川沿いの冬枯れの雑草の中に、ひとつぽつんと、生えていた1メートルほどの桜の若木を庭先に移しました。それが、昭和41年の1月下旬にはじめてピンクの花を咲かせました。勝美さんは大変喜びましたが、その花をみて安心したかのように、その年の4月に亡くなります。きれいな花で近所でも評判になり、飯田さんの屋号をとって、小峰さくらと呼ばれていたそうです。譲ってくださいという人もいましたが、思い出の桜は絶対はなせないと、奥さんは首をたてにふりませんでした。その後の調査で、この桜は大島桜と寒ひがんの自然交配だということが分かり、昭和49年に新種として登録され、河津桜と命名されたのです。そして、翌年には町の木に指定され、今日に至ったのです。

ほとんど捨て子のように、川縁に投げ捨てられていたカズちゃん(私がつけた河津桜の愛称です)が、心やさしい勝美さんに拾われ、ミネちゃん(小峰桜)として育てられ成長し、成人式(品種登録)を終えてからは、名前もカズちゃんと換え、子供も7000人もつくり、河津の桜として有名になりました。日本中に名を知られた大スターになりました。ほんとうに偉いと思います。

私は、そっと無断で(笑)、飯田さんのお宅の庭に入り、カズちゃんのおしり(太い幹のところ)をなでながら、さびしかった河津町をこんなにも有名な観光の町にして、ほんとにすごいね、尊敬しちゃうと誉めてあげたのでした。そのとき、カズちゃんのピンク色の花が、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに、少し赤みを増したようにみえました。


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思わぬ出会い、史実の楽しさ

2007-02-15 09:07:53 | Weblog
朝日新聞夕刊に連載されている、「三谷幸喜のありふれた生活」はいつも楽しく読ませてもらっていますが、昨晩のエッセイには格別、強く「反応」してしまいました。

というのは、私の最近のブログと共通するキーワードが、その文章の中に四つもあったからです。驚いてしまいました。こんなことは、めったにありませんので、今日のテーマに取り上げてみました。

四つのキーワードというのは、「パリ」「川上音二郎」「ベニスの商人」「ボストン」です。

三谷さんの文章を手短に紹介しましょう。三谷さんは今年上演する予定の、二つの脚本を今、併行して書いています。ひとつは「パリ」を舞台にしたゴッホらの後期印象派画家たちの群像劇、もうひとつは、明治時代に日本で初めてアメリカ巡業を成功させた「川上音二郎」一座の物語です。音二郎は「ボストン」のトレモント劇場を借りて「ベニスの商人」を上演したそうです。・・・以上で四つのキーワードのそろい踏みです。

ついでに面白いので、三谷さんの文章を続けます。・・・川上音二郎は、近くの劇場で名優ヘンリー・アービングが演じていた「ベニスの商人」を観て感動、「俺もこの芝居をやろう」と、たった一晩で稽古をしてぶっつけで演じた。役者は当然台詞が憶えられない、そこで観客が日本語のわからないのをいいことに、すべてアドリブで、詰まったら、スチャラカポコポコでごまかしたという、このむちゃくちゃいい加減でバイタリテイ溢れた、わくわくするエピソードを知ったとき、これはもう舞台化するしかないと思った、今度の芝居はその狂乱のボストンの一夜を中心に描く・・・とあります。

おもしろそうですね。三谷さんの映画、”有頂天ホテル”は観ましたが、今度の舞台はさしづめ、”有頂天劇場”でしょうか。

さて、私の方の、四つのキーワードは、つながりはありませんが、簡単に紹介しておきます。「パリ」は、最近観に行った、新美術館での”異邦人のパリ展”です。ここでは後期印象派の画家は入っていませんでしたが、画家という共通点もあります。次ぎに、「川上音二郎」さんですが、先日観梅に行った先の茅ヶ崎の高砂緑地が、彼の元別荘地だったのです。そして、「ボストン」は、三つもあり、岡倉天心さんのボストン美術館、広中平佑さんのボストンの大学、そしてボストンレッドソックスの松坂投手です。最後に、「ベニスの商人」は、映画鑑賞です。これらの言葉が、ここ1,2ヶ月の私のブログに出ていたというわけです。

三谷さんの文章は、ほとんど川上音二郎さんのことですので、茅ヶ崎と音二郎さんの関係をもう少し詳しく述べておきます。音二郎さんは新派俳優として活躍し、時事風刺を交えて歌ったオッペケペー節が有名です。明治30年代に気候温暖な茅ヶ崎に別荘を構え、愛妾の貞奴さんと住んだのです。当時、尊敬する九代目市川団十郎さんが、同じ茅ヶ崎に別荘をもっていたことも、ここに来た理由だそうです。

三谷さんは、音二郎さんがボストンで公演したことを知ったあと、その当時のボストンでの演劇上演のことを調べ、行進曲の父といわれるスーザの「エル・カピタン」というオペレッタが同じ劇場で初演されたことを知ります。音二郎さんの強引すぎるくらいの前向きさと、スーザの「星条旗よ永遠なれ」などのマーチとぴったり重なり、書く意欲がますます増進されたそうです。新聞のサブタイトルのように「思わぬ出会い、史実の楽しさ」ですね。

私の小さな経験ですが、地方に旅行しているときに、地元鎌倉で知った歴史上の人の史跡を思わぬところで見つけ、驚いたことが何度かあります。それを契機に少し、その人のことを調べてみて、さらに新しいことが分かり、楽しみがどんどん増えていきました。同様に、今回の三谷さんのエッセイをみて、これまで未知に近かった、音二郎さんのことも調べてみたくなりました。そして、「有頂天劇場」が上演されたあかつきには、是非、劇場に足を運びたいと思います。

・・・・・
タイトルは、三谷さんのエッセイのサブタイトルをそのまま使わせてもらいました。写真は音二郎さんの別荘のあった、高砂緑地の梅園です。



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ちょいといい話し

2007-02-14 17:27:56 | Weblog
サライの今月号に落語特集が載っていました。私は、年に一、二度、寄席に行く程度ですが、落語には結構関心があります。サライの、どの記事も面白かったですが、ちょいといい話しだなと思ったものを2,3紹介しますね。

私も好きな、新作落語の大御所、桂米丸師匠の話。師匠は、三代続く浜っこで、戦後すぐ、21才のとき、古今亭今輔師匠に弟子入りしました。師匠に落語で食べていくのは骨ですよ、と言われましたが、その当時、みんな食うや食わずの状態だったので、そう言われてもピンとこなかったそうです。

そして、あんたは江戸弁ができないが、浜っこのあか抜けした喋りがあるので、古典よりむしろ新作に向いている、そちらに進みなさいといわれ、前代未聞の、古典は一切せず、新作ばかりで修行したそうです。大変不安だったそうですが、これがぴたりと当り、異例のスピード出世をして、3年目にはもう真打ちになったそうです。

初高座では「バスガール」をやりました。どうにかしゃべり終えたとき、大きな拍手がひとつだけ聞こえました。あとで分ったのですが、その拍手は、師匠だったんだそうです。弟子の初高座を心配してみにきてくれただけではなく、大きな拍手までしてくれた、なんてありがたい師匠だろうって帰りの電車の中で涙が止らなかったそうです。(これにもオチがあって)いつか弟子ができたら、私も同じことをしてあげようと・・そしてそのときがきました・・ところが、うちの弟子は感動してくれないで、なんと「もっと大きな拍手をしてください」だって。

名人五代目古今亭志ん生師匠の話。師匠の酒好きは有名です。大正12年、関東大震災があった日のことです。「酒が地べたに呑まれちまうんじゃ、もったいねえ」と近所の酒屋に飛び込みます。「酒え売ってください」「ゼニなどようがす、私ら逃げますので自由にお呑みなさい」師匠は4斗樽の栓をぬき、1升5合ほどいただき、へべれけになって、帰宅しました。その手にはなお一升瓶を大事そうに抱えていたそうです。

志ん生夫婦の生活は、赤貧洗うがごとくでした。師匠の、呑む・うつ・買うのせいだったらしいですが、夫婦仲むつまじく、喧嘩をしたのをみたことがないと、長女の方は言っています。師匠が得意とする噺「替り目」の中に、”ほんとうの貧乏を味わったものでなけりゃ、ほんとうの喜びも、面白さも、ひとの情けもわからない”というせりふが出てきますが、実生活を彷彿させるようです。こういう貧乏生活の中から、ご子息の、馬生と志ん朝という名人も育ちました。

鎌倉にお住まいの養老孟司さんも落語好きで、すでに故人ですが、枝雀と志ん朝のフアンだったそうです。脳科学者の立場から、笑いの効用をこう説明しています。笑いは、秩序と論理で固まった脳を積み木をくずすように、混乱、無秩序状態に陥れる作用をもつそうです。人は、秩序だけでは、神経がおかしくなり長持ちしないそうです、今の教育現場の問題もここにあると指摘しています。今こそ、日本人は落語をおおいに聴いて笑うべきでしょう、と結んでいます。

笑う門には福来たる、ということわざもありますし、最近の研究で、笑うことによって、免疫力も増強するなんてこともあるそうですね。何だか、またそろそろ、上野か浅草の寄席に行ってみたくなってしまいました。


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玉縄桜 出生の秘密

2007-02-13 14:36:59 | Weblog
タマちゃん(私が玉縄桜につけた愛称です)のあまりに早い開花に感激した私は、タマちゃんのことをもっと知りたくなりました。タマちゃんの前の案内板には、これはソメイヨシノの自然交配で選抜されたと、さりげなくかかれていましたが、もっと何か出生の秘密があるのではないかと思いました。

出生の秘密というと三浦綾子さんの「氷点」を思い出しますね。内藤洋子さん、かわいそうでしたね、お母さん役の新珠三千代さん、冷めたかったですね。としがわかるって?(・・汗)。ひとより早めに悲しげに咲くタマちゃんも洋子さんのような悲しい過去があるのではと感じたのでした。

ホームズ君(私のこと)は、早速捜査を開始しました。聞き込み調査をはじめましたが、切符を売っている人に聞いても、的確な答えは返ってきませんでした。そうだ、このフラワーセンターの近くに、市の玉縄図書館がある、ここに必ず、なにか手がかりがあるはずだと思いました。

ホームズ君は資料捜しの名人です。まず、郷土資料を集めた書棚を右から左、上から下とざっと、ながめ、すぐにみつからないときは、一呼吸おいて、耳をすまします。そうすると、「私をみて」とか細いけど、しっかりした声が聞こえてきます。その方に目をこらすと、目指す資料がはたと、みつかるのです。今回も、その資料は大きな本にはさまって、ひっそりと隠れていました。薄っぺらな小冊子で、背表紙も薄く、タイトルも折れ曲がっていて、なんて書いてあるかわからないほどでした。

その資料は、センター長さんが、ご自分の月一度の園内ガイドの資料をまとめたもので、「わくわく花散歩」という冊子でした。そこには、タマちゃんの秘密がいっぱい書かれていたのです。

タマちゃんの生れ年は1969年でした。昭和44年です。ということはアポロ12号の年です、人類月に立つ、歴史的な年に生まれています。タマちゃんすごいね。この年に接ぎ木用の台木をつくる目的でたくさんのソメイヨシノの種が蒔かれました。そしたら、元気よく、ひとより先に芽を出して、ぐんぐん成長しているのがみつかりました。こんな尋常でない子は、ふつうは捨てられてしまうところですが、心やさしい職員の人が、何年も大事に育ててくれました。この子がタマちゃんなのです。

タマちゃんが5才になったとき、初めて蕾をつけ、そして、なんと皆より20日も早く花を咲かせたのです。そして、ひとつの芽につく蕾の数まで多いことも分りました。職員の人は、そのあと、毎年観察して、いろいろなことを調べあげました。そして、1987年に、タマちゃんが、花も恥じらう18才になったときに、「品種登録」申請という、成人式に出られるかどうか審査するところに出されました。そのときの名前は、「かしお桜」として出されていました。このセンターの近くを流れる、柏尾川に因んでつけられました。ところが審査が進んでいくうちに、もうこの名前はよそで使われていると、却下されてしまったのです。タマちゃんの最初の挫折です。やっぱり悲しい過去があったのですね。

そして、今度は名前を「玉縄桜」と変えて申請されました。この辺の由緒ある地名からとったものです。むかし、近くに玉縄城という、小田原北条の出城がありました。難攻不落の山城で、戦国時代、上杉謙信も落とせなかったそうです。今は、そのお城のあった丘には、女の城が建っています、お嬢さん学校の清○女学院です。ですから、玉縄というと、玉縄城から、「強靱」「男らしい」「武士の一分」といったイメージが浮かんできます。一方、女学院からは、「優しい」「女らしい」「大奥の一分」といった全く逆のイメージも浮かんできます。結局、タマちゃんはいいこ、いいこ、どうでもいいこ、の名前になってしまったわけです。2度目の挫折です。

でもこの名前のおかげで、1990年、タマちゃんが21才のとき、審査会をパスして、1才遅れでしたが、晴れやかに成人式を迎えたのでした。そして年々、花の数を増やし、ますますきれいになって、そして、目立ちたがり屋の性格がますます冴え、なんだか、年々咲く時期まで早めています。現在、女盛りの38才となり、フラワーセンターの女王(早春の部だけのね)にまでに成長したのです。

タマちゃんは、きっとジン生をしなやかに生きるヒトで、あるときは強く、あるときはやさしく、あるときは武士のように、またあるときは大奥のようにと、したたかに生きてきたのでしょう。それ故、間引きされてもおかしくない変った子がりっぱに育ち、そして、あの「名前差し替え事件」の悲しい過去もゆうゆうと乗り越えられたのでしょう。

タマちゃんが、満開になって、一番きれいなときに、またフラワーセンターを訪れ、ほめてやろうと思います。








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