気ままに

大船での気ままな生活日誌

恩師ゆく

2009-04-29 19:02:02 | Weblog
一昨日、実家に泊まっている夜、小学校時代の友人から悲しい知らせがあった。ぼくらの小学校5,6年時の担任のN先生がお亡くなりになったという。ある程度覚悟はしていたが、さびしさで胸がいっぱいになってしまった。

昨年のクラス会にも、がん治療中で体調不良にも関わらず、かけつけてくれて、1時間ほど、つきあってくださり、出席者の一人ひとりと話しをしてくださった。あの日が、先生との別れの日になってしまった。

ボクも小学校から大学まで、たくさんの先生にご指導を受けたが、教育者として一番、尊敬できる先生は、N先生だった。ぼくらの少年時代はみんな貧乏だったが、ノートも買えない子もいて、その子がノート代わりに、ちらしの裏側をつかっているのを、こうゆうのが本当の勉強なんだよと、みなの前でほめたり、今でいう、登校拒否の子の家まで、毎日迎えにいったり、そして優等生もそうでない子も、本当に平等に、つきあってくださった。むかし”えこひいき”などという言葉があったが、そんなところは微塵もなかった。ボク自身のことで、いうと、夏休みの宿題の”自由研究”をとてもほめてくださり、今、考えると、それがボクの将来を決めたように思う。

あの先生のやさしい笑顔がもう、みられなくなると思うと、たまらなくさみしい。先生は植物がお好きで、退職後は、植林をしたり、巨樹巡礼の旅を楽しみにされておられた。今後いくら努力しても、先生の品格にはとても及びそうもないが、巨樹巡礼のあとつぎぐらいは、したいものだと思っている。

この日、母の再入院もあり、ボクの心はちりじりである。










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あと千回の・・・

2009-04-27 10:08:55 | Weblog
今日で、ボクのブログの記事数が千回目を迎えることになり、自分でもおどろいています。気まま生活に入って、始めたブログ、どうせ三日坊主だろうと思っていましたので、ここまで続くとは予想だにしていませんでした。みなさんのおかげです。ここまできたら、山田風太郎さんのエッセイ集の”あと千回の晩飯”に倣い、”あと千回のブログ記事”をめざしていきたいと思います(笑)。プロ野球でも、名球会入りの条件は2000本安打ですもんね。・・。

おまえのは、ただの2000回打席(ノーヒット)にすぎないって?

・・・
今朝の散歩で、大長寺の花々が祝福してくれました。

牡丹 

つつじ



はるじおん 雑草魂で

たけのこ まだまだ伸びるぞ寝る子は育つ。


そして、なによりうれしかったのは、久々、姿をみせてくれた富士山です。
富嶽三十六景その11;千回記念の富士


これからもどうぞよろしくおねがいします。



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かまくらの躑躅からレッドクリフを思い出す

2009-04-26 22:22:27 | Weblog
今日の午後、かまくらの躑躅を観に出掛けた。かまくらでは、まず安養院の躑躅。見事だった。政子の供養塔のあたりの躑躅。


日当たりのよい大通り沿いの躑躅がより一層開き、みごとな赤い花の壁をつくっていた。赤壁の下の、見苦しいのは鎌倉市会議員候補者のポスターだ。今日、投票日だった。大船東口の、アメ横のような活気ある商店街を守ろうという公約をする候補者がいたら、その人にと思ったが、しらんぷりしているやつばかりだった。仕方がないので、鉛筆をころがして決めた。


つつじの赤壁から、先日、ラゾーナ川崎の映画館で観た、赤壁、レッドクリフPartIIを思い出していた。とても面白かった。いつみても、戦争ものは面白い、わくわくする。平和主義者を自認しているが、この感覚はいったいなんだろといつも思う。比叡山焼き討ちをするような、非情な信長は嫌いだが、あの桶狭間の戦いには、ついわくわくしてしまう。そんな自分を不思議に思う。きっと、ボクらの心の奥に、太古、生き残るために、猛獣たちと、あるいは、他の部族と戦った、DNAが、血が、少し残っていて、突如活性化され、騒ぐのだろう。

だから、ボクはときどき思う。あまり、ぎすぎするなよ、お祭りのときぐらい、神輿の上にのって喧嘩ぐらいさせろよ、たまには泥酔して、裸になるくらい大目にみろよ、ちょっと前までは、笑い話ですんだことじゃないかと。おれたちは、そんなにえらいカミサマなのか、ただの裸のサルじゃないか、えらそうなことをいうなよ、と思う。

それにしても、赤壁の戦いで、戦略的にも重要な役を演じた、小喬役のリン・チーリンさん、若き日の(いや今でもですが;汗)小百合ちゃんみたいで、素敵でした。ますますフアンになりました(汗)。台湾のモデルさんだそうですね。



ラゾーナ川崎の赤壁(笑)。
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マルチタレント 夢二、道造、やなせさん

2009-04-26 12:25:00 | Weblog


東大弥生門前の、三つの小さな美術館・記念館の主役たち。

やなせたかし 1919年2月6日生まれ 90歳ご存命 (弥生美術館;特別展)
竹久夢二 1884年9月16日生まれ 49歳死去 (竹久夢二美術館)
立原道造 1914年7月30日生まれ 24歳死去 (立原道造記念館)

この3人の芸術家、この世に生きた年数は、四半世紀、半世紀、一世紀(やなせさんが100歳までお元気と仮定して)とそれぞれ違いますが、共通点があります。それは、みなさん、マルチタレントであるということです。天は二物を与えず、といいますが、この方たちは、二物どころか、三ぶつ、よんぶつ、もっともっとぶってという、ぶって姫みたいに(笑)、多妻じゃない(汗)多才な芸術家です。

やなせさんは、アンパンマンで有名な漫画家ですが、現在の千葉大の工学部図案科を出て、三越の宣伝部に所属した時代もあり、あの赤と白のデパート包装紙はやなせさんの作品です。デザイナーでもあるわけです。そして、昨日も紹介しましたように、画家、編集者、童話作家、詩人としても、たくさんの作品をつくりつづけています。多才ですが多妻ではありません(笑)。でも、奥さんをなくしたあと、漫画家の里中満智子さんと偽装結婚式をあげて喜んでいました(笑)。

竹久夢二さんの多芸多才ぶりも有名です。去年、ここを訪れた時に、”竹久夢二の七つの顔展”をやっていたくらいですから。あの夢二式美人を描く画家だけではなく、あるときは、詩人(宵待ち草が有名ですね)であったり、またあるときは、書家、批評家、デザイナー、と、たいへんなマルチ人間なのです。”七つの顔をもつ男”なのです。ぼくら少年時代の大スター、片岡知恵蔵主演の映画を思い出してしまいました(笑)。

今回はグラフィックデザイナーとしての夢二展でした。ボクは結構、むかしの本の装丁やポスターに興味をもっていますので、夢二作の”中学世界”等、各種雑誌の表紙のデザインなども楽しめました。また、千代紙、絵封筒等の花をモチーフとしたもの、銀座千疋屋や、やなせさんと同様、三越百貨店の広報デザインなども面白くみさせてもらいました。この方は多才で、かつ多妻でした(爆)。
 
立原道造さんは東大の建築科を出て、建築の辰野賞を3年連続受賞するなど、建築家として将来を嘱望されていました。また、堀辰雄に才能を見出され、詩人として活躍します。ボクは、彼の詩をほとんど観たことがありませんが、これを機会に読んでみようかなと思っています。やなせたかしさんも、中也、啄木、そしてこの方の3人を、好きな詩人にあげているくらいですから、きっとボクも気に入ると思います。中原中也賞も受賞されたそうです。

代表作という”葦草に寄す””暁と夕の詩”や手作りの詩集が展示されていました。加えて、道造さんは画才もあり、ほのぼのとしたパステル画も飾られていて、ボクも気に入りました。加えて、短歌、俳句もやられたそうです、このように多才でしたが、夭折し、多妻というわけにはいきませんでした。
。。。。。

弥生美術館は、昭和59年に設立されたそうですが、弁護士の鹿野琢見さんが、子供時代に、高畠華宵さんの”さらば故郷!”に魅せられたことがきっかけで彼の作品を集めたそうです。それが基になっています。高畠華宵の常設コーナーがあり、そこで、つぶらな瞳のうっとりするような(汗)美少女や、中性的な美少年の絵をみることができます。

夢二より4歳年下、蕗谷紅児より10歳年長で、日本画を基礎とした挿絵画家で、全盛時の人気は、夢二、紅児をしのいだ、少年と少女が入り混じったような人物画、そのことが逆にセックスアピールをつくっている、やなせさんの展示エッセイ”華宵美人画のセックスアピール”にそう書かれていました。なるほど、たしかに。

。。。

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やなせたかし展 弥生美術館

2009-04-25 20:30:23 | Weblog
根津神社の躑躅を観てから、弥生美術館に向かった。千代田線根津駅まで戻り、根津一丁目の交差点を、右に折れ、言問通りの坂(弥生坂)を登ってゆくと、弥生式土器発掘ゆかりの地の石碑に出会う。そこから横道があるが、もう一つ先の横道を左折し、少し歩くと、小さな三つの美術館が並んでいる。ちょうど東大の弥生門の前になる。



詩人であり建築家でもあった、立原道造の記念館。そして、その少し先に弥生美術館と、並んで、というか合体した(二階に連絡通路がある)竹久夢二美術館がある。立原記念館は今回、初めて訪れたが、弥生・夢二美術館は二度目の訪問である。ボクらの少年時代、神様のような存在であった、”少年ケニア” ”少年王者”作・画の山川惣治さんの特別展が去年、ここ弥生美術館で開催されたのだった。



そして、今回は、アンパンマンで著名なやなせたかし展が開かれているというので、近くまで来たので、ぜひにと訪れたわけだ。やなせさんに関心をもち始めたのは、あるテレビ番組で、90歳になる現在まで、アンパンマンだけではなく、絵本作家、詩人等、幅広い分野で活躍されていることを知ったからである。ときどき彼の展覧会などを覗くが、とくに詩情あふれる絵本などの原図に心惹かれることが多かった。



この展覧会も、今回初公開という原図もたくさん展示されていて、楽しめたが、やなせさんの、”詩人評論家”としての一面も垣間見ることができ、より楽しむことができた。これらの評論は、やなせさん自身が編集者として発刊していた”詩とメルヘン”などに載せられていたもので、こんな内容のエッセイを目にすることができた。

”中原中也30歳、石川啄木27歳、立原道造24歳、それぞれ夭折したが、三人とも、その作品は誰でもわかりやすく、共感できる、現代詩の詩人の中で、その詩をノートに書き写し、暗唱したいようなな詩人がはたして何人いるだろうか、職業詩人にしか読まれないような詩なんて、はたして詩といえるだろうか”

”詩人”としての、やなせたかしさんの座標軸がよくわかる”評論”である。いずみたくさんの作曲で、誰もが知っている”手のひらに太陽を” は彼の作詞であるが、こんな詩も展示されていたことを紹介しておこう。

・・・
ノニ

ああすればよかったノニ
こうすればよかったノニ
ノニノニ言ってもかえらない

今頃後悔しても駄目なノニ
人生終わりそうなノニ
それでもノニノニ
くりかえす

。。。。。。

こぼれたバン屑は

こぼれたパン屑は
もうなんの役にも
たたないようにみえる
でもないような虫に
とってはありがたい
天のおめぐみで
生きられる

・・・

やなせたかしさんと、竹下夢二さん、立原道造さんそして、弥生会館主役の挿絵画家、高畠華宵さんとの関わりもあることを、今回知り、うれしくなりました。そのことについては、次回に報告しますね。

ああ、また明日もみにいおうかな、根津のつつじ。
ああすればよかったノニ
こうすればよかったノニ
ノニノニ言ってもかえらない
から。
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根津神社の躑躅 見頃

2009-04-25 16:43:47 | Weblog
桜は上野、躑躅は根津神社が一番と、昔から思い込んでいるので、この時期には、ここを訪れないことはない。しかし、意外と見頃をはづしてしまうことも多く、とくに現役時代には遠方に住んでいたので、土日に限られるから、見頃を見逃し、がっかりすることも多かった。

ご近所の躑躅が勢いづいてきて、まさに見頃になってきたので、今がチャンスと、昨日、出かけてきた。遅咲きのは、これからだが、ほかの大多数のは、最高の見頃を迎えていた。何十年前に家族そろって出掛けた時の、生涯最高の見頃には及ばぬものの、十分満足できる見頃であった。

鳥居の向こうに、光があふれ、湧きたつような花々が。これはいける



花咲く乙女たち


花見るローバたち


珍しい品種もいっぱい。名札がついてたけど憶えられない。
つつじA。

つつじB。

つつじC。

これだけは覚えてしまった。”老いの自覚”


つつじを観ているのは、先の短い(笑)中高年ばかりではない。長寿の亀さんも団体ツアーできていた。みんなつつじのうつくしさに泥酔して素っ裸だった。それくらい大目にみろよ、あほんだらマスコミ

阿吽の狛犬もつつじの山を見上げていた。先日、大阪天満宮の狛犬は両方とも口を開けていて、阿阿の狛犬だったのには驚いた、大阪では”沈黙は悪”なのかもしれない・

六代将軍、徳川家宣の大神輿まで観ることができた。


やっぱり、さんまは目黒、つつじは根津に限る。

・・・

そのあと、東大弥生門前の、弥生美術館等、三つの美術館を見学して帰った。それについては、また報告の予定である。あ、そうだ、大阪の美術館の紹介もまだだった。なんだか、宿題がどんどん溜まっていくような感じだ。のんきな身分でも、まあ結構忙しいのである。
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造幣局通り抜け美人コンテスト

2009-04-23 09:05:55 | Weblog
前回、予告しましたように(笑)、大阪造幣局、通り抜けの八重桜美人コンテストを行いたいと思います。なにしろ126種、348本の中から選ばれるのですから、ノミネートされるだけでも大変なことです。それでは各賞の発表に移りたいと思います。最優秀賞には特別な賞品が用意されております。

毎年、造幣局が”今年の花”として1品種、選出していて、今年は、”平野撫子”という品種です。まず、この方に名誉賞を差し上げたいと思います。
・・・・・

名誉賞:”平野撫子”
京都の平野神社境内にあり、花弁に撫子の花のように切り込みがあります。

。。。
さて、以下ノミネートされた桜さんたちです。略歴も簡単に示しておきます。

一葉;東京荒川堤にあった里桜で、花芯から1本の葉化した雌しべがでるのでこの名がつけられました。



牡丹:大島桜系の里桜で、花はふっくらした牡丹のようです。

数珠掛桜(じゅずかけざくら):新潟県の梅護寺にある桜で、親鸞上人が桜に数珠をかけられたという伝えがあります。

手毬(てまり):古くからの桜で、江戸期の園芸書”花壇網目”に記載されています。手毬の様になる、珍しい品種です。

紅手毬(べにてまり:花が赤い手毬のようになります。

麒麟(きりん) :東京荒川堤にあった里桜で、花は濃紅紫色で気品の高い品種。

楊貴妃(ようきひ:昔、奈良地方にあった桜で、つぼみは濃紅色であるが、開花時には淡紅色となり、花色も優れ豊満なので、中国の楊貴妃と名付けられました。

御衣黄(ぎょいこう) :花は黄緑色で、開花が進むにつれて花弁の中心に紅色の縦線が現われる珍しい品種です。

菊桜:花弁数が100~200枚と非常に多く、菊の花に似た優雅な桜です。

静香(しずか) :北海道松前町で「天の川」と「雨宿」を交配育成させた桜。芳香があります。

松月:東京荒川堤にあった名桜で、平野神社の平野撫子に似ている。

。。。

それでは各賞選定にうつりたいと思います。いずれ劣らぬ美女ばかりで、選定に苦労しました。

最優秀賞は、かまくらにも縁のある、静香御前のようにうつくしい”静香”にしました。賞品は”2009年通り抜け記念コイン”を差し上げます。


以下、特別賞として。

五千札賞:”一葉”賞金5000円です。

イチロー賞:”麒麟”賞品は”一番搾り”3086本です

名前負けで賞:”楊貴妃”賞品は”レッドクリフ”の招待券
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二日続けて造幣局の桜の通り抜けを観る(汗)

2009-04-22 11:00:40 | Weblog
タイガース戦をみた翌朝、急にどうしても、大阪造幣局の”通り抜け”を観たくなり、出かけてしまいました(汗)。急に決めたことですので、ワイフはその日は用事があり、不参加。大阪でよく泊る、なんばオリエンタルホテルに朝、予約して小田原から新幹線で新大阪へ。きつねうどんを食べて、さあ会場へ。

淀川(今は大川という)沿いの全長560mの造幣局構内の花見通路を一1週間だけ開放してくれるのです。生まれてはじめて。わくわく。



南門からスタート。平日なので、思ったほどの人出ではない。

でも、中に入ると、いるいる。

見頃より少し、過ぎた感じ。でもまあまあ。

なにせ、この数の品種ですから、満開のもたくさんあります。


明治16年、時の遠藤謹助局長「局員だけの花見ではもったいない。市民とともに楽しもうではないか」との提案により、構内の桜並木の一般開放が始まったそうです。江戸時代、旧藤堂藩蔵屋敷で里桜を育成しており、造幣局は敷地とともにその桜を受け継いだと言われています。桜はそこから移植され、品種が多いばかりでなく、他では見られない珍しい里桜が集められていました(ホームページより)



当時の正門。

当時のガス灯。日本最初と唱っていた。でも日本初は横浜の馬車道じゃなかったっけ?。またも、タイガースとベイスターズの対決(笑)。


そして、夜はホテルにも近い、法善寺横丁で飲んで(汗)、翌日は美術館巡り。湯木美術館と藤田美術館を観て、そのあと時間があったので、公開最終日に”通り抜け”をもう一度(大汗)。だいぶ散り始めていました。



次回に、造幣局、八重桜美人コンテストを行いたいと思います。
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スパイダーズのあとはタイガース

2009-04-20 07:54:40 | Weblog
前回、巨大蜘蛛、スパイダーズ(2匹いたので複数形)の紹介をしましたので、今日はタイガースの話。むかしのグループサウンズの話ではありません(笑)。スパイダーズをみた、晴れ上がった日曜日に、ボクは、横浜スタジアムでベイスターズ対タイガース戦を観ていたのです。それも、地元、ベイスターズを応援しないで、なんと三塁側の内野席でタイガースを応援していたのです。

はじめから、そのつもりはなくて、タイガースフアンの応援振りを観察したくて、3塁側に席をとったのです。聞きしに勝る、大応援。なんと、大部分の人がタイガースカラーの黄色か、縞模様の半そでのユニフォーム姿です。そして、選手が打席に立つたんびに、選手の応援歌を歌い、大声援をおくる、外野席だけでなく、内野席全員の観客が大合唱するのだから、すごい迫力です。ヨコハマなのに、一塁側には空席があるのに、こちらは満席。さすが、タイガースフアンはすげえなあ。

結局、WBCで決勝ホームを踏んだ、あの内川が決勝のホームランを決めて、ベイスターズの勝利となったわけですが、ボクはすっかりタイガースフアンに洗脳されて、アニキの打席では♪・・さぁここまでぶちこめ ライトスタンドへ♪と一緒に歌ってしまったりして(大汗)、♪勝ってうれしい花いちもんめ、負けてくやしい花いちもんめ♪ のような、うれしいようなくやしいような複雑なココロもちの試合だったのでした。
。。。

三塁側はタイガースフアンで満席

タイガースの旗もはためく。ここは甲子園か

♪かっとばせ、カネモト さぁここまでぶちこめ ライトスタンドへ♪


ベイスターズのチアガールの応援もあって


内川の決勝ホームラン


スタジアムの周りの横浜公園はチューリップが見頃


タイガースフアンのチューリップ
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巨大蜘蛛、横浜日本大通りに出現

2009-04-19 22:25:20 | Weblog
驚きました、横浜スタジアムで横浜・阪神戦をみての帰り、チューリップの花咲く、横浜公園を歩いていて、ふと銀杏並木の日本大通りの方に目をやると、なななんと、驚くべき光景が。



ここ、これはいったいなんだ。・・ふとひらめいた。一昨日だったかの朝日新聞で観た記事。”巨大蜘蛛、赤レンガパークに”。そういえば、あの写真にそっくりだ。日本大通りは封鎖してあって、そこに2匹のその巨大蜘蛛らしいものがいる。係りの人に聞いてみる。やはり、その蜘蛛だった。フランスのアート集団”ラ・マシン”の機械仕掛けの蜘蛛だった。”横浜開国Y150”のために、3日間だけ、この周辺を行進するとのこと。今、30分ほどの休憩時間に入っていて、またすぐ動き始めるという。なんという幸運。

ベイスターズは勝つし、また、めったにみられない巨大蜘蛛にも遭遇。海岸方面に向かい、2匹の巨大蜘蛛が見られる場所まで移動。ここがいいと選んだ場所に、”朝日新聞”と記名された脚立を発見。その上にカメラマンが腰かけていた。オイラの目に狂いはない、プロと同じポジションを選んだノダ。



そのうち、弦楽器の演奏が始まり、巨大蜘蛛が大きな足をあげ始めた。歓声ががる。





2匹とも、動きはじめ、ときおり、煙りを吐く。ど迫力だ。ボクらがむかし映画でみた、モスラやゴジラのようだ。高さ約12メートル、重さ37トンともあるという。



よくみると、多数の人が運転しているノダ。大型蜘蛛型クレーンのようなものナノダ。



蜘蛛の脚と格闘している女性もいる。楽団演奏も含めると、全部で14人もいた。


近くのビルの特等席で高見の見物をしている人もいた。クモの上の人だ。


新緑のイチョウ並木の道を巨大蜘蛛はゆうゆうと過ぎ去っていった。こんな光景を偶然みられ、本当にだった。


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