気ままに

大船での気ままな生活日誌

福島原発 あれこれ

2011-03-31 17:12:53 | Weblog

もう今日で、3月も終わり。福島原発も、今月いっぱいになんとかメドをつけてもらいたい、と思っていたが、事態はますます深刻化、混迷化し、さらに、長期戦の様相を示してきた。

昨日、東電会長の会見があった。ようやく出てこられた、という感じがする。1~4号機は廃炉にせざるをえないと思ってます、と。はあ?何をいまさら、と思った。一方、やっぱりそうだったのかと思った。こんな重大事故が発生したのに、まず、頭に浮かんだのは、金のことだったのだ。なるべく原子炉を生かすよう対処せよと、部下に命令したに違いない。初動ミスが、これほどにまでに、こじらせたという意見が多い。(廃炉になると困るからと)、海水注入や米軍の冷却材投与を躊躇したらしい。こんなとき、経営者は黙ってろ、これについては、俺がものすごく詳しいんだからと、突き放す技術者がいて欲しかった。(5,6号機はまだ生かしたかったらしく、この会見では入れていなかった、あとで官房長官が当然、廃炉でしょう、とは言っていたが

日本のトップ、管総理のヘリコプター視察も、初動を遅らせた一因だといわれている。パフォーマンスの管総理、むかしから有名です。かいわれ大根(ついでにホウレンソウもお願いします)、お遍路さん等々。”俺は原子力にはものすごく詳しいんだから”と言ってるそうだが、大学で応用物理を専攻したくらいで、”ものすごく詳しい”なんて言う神経がおかしい。東京消防庁のハイパーレスキュー隊が予定の時間、海水注入を終えたあと、官邸から、もう数時間延長するようにと指示が出た。間違いなく総理の指示だろう。これをテレビで観ていたが、おもわず、それはアカン、と叫んでしまった(汗)。素人が口を出すな、何でも多ければいいというものではないだろう、植物だって水をやりすぎると枯れるのだ(関係ないか;汗)。実際、作業のやり過ぎで、消防車が故障して以後、使えなくなってしまったそうだ。それに、大量の溢れた水は、その後の”水問題”を引き起こした可能性が強いと、ぼくは睨んでいる。

原子力工学の専門家たちにも腹がたつ。テレビの解説では楽観的、希望的観測ばかり述べていたが、結局、はずればかりで、ぜんぜん終息には向っていないではないか。昨日、NHKで解説していた学者にもあきれた。アナウンサーが、(遠慮気味に)欧米の専門家が技術協力にきていますが、(日本の学者がもっと早くから協力してたらと思いますが)どう思いますか、と聞いた。その答えは、日本は安全設計の技術(プラントをつくる技術)はトップクラスですが、チェルノブイリ、スリーマイルで経験を積んでいる欧米の”リスク管理”にはかないませんので、欧米の協力はいいことだと思います。

原発の安全性をチェックする保安院の審議官は、前職が、原発推進の本丸、資源エネルギー庁の部長だったとか。何という、原子力行政だ。

経団連会長は、2日目のことだったと思う、こう、のたまわった。あれだけの大地震、大津波で原子炉は、あの程度の破損だけで済み、よく頑張っている、たいしたものだ(多少、脚色してます;汗)。原発推進策には変わりありません。やっぱり、おまえらのための原発だったのだ。

東電および政官財加えて学(ガクッ)、もう、こんなやつらにまかしておけない。われらが鉄腕アトムに来てもらおう。そして原子炉を月に運んでもらおう。お月さまなら、1万年くらい、あずかってもらえるだろう。

・・・・・

鉄腕アトム (作詞:谷川俊太郎)

空を超えて ラララ 星の彼方
ゆくぞ アトム ジェットの限り
心やさし ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム 十万馬力だ 鉄腕アトム 

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井上ひさし追悼公演 ファイナル/ファイナル

2011-03-30 10:04:38 | Weblog

井上ひさしさんが亡くなられてから、早いもので、もうすぐ1年になる。こまつ座の井上ひさし追悼公演が、7月から始まり、第六作目がファイナルで、渋谷のBUNKAMURAシアターコクーンで上演されていた。ぼくらも、一度は足を運ぼうと、予約をとっておいた。3月12日であった。それが、前日、あの東北関東大地震に見舞われ、当然、12日は休演となった。そのままずっと休演かと思ったが、すぐ立ち直り、2日後からつづけているという。ぼくらも、こういう時に喜劇はどうかなと思ったが、いや、こういうときこそ”井上ひさし喜劇”と思いなおし、再予約をした。開いてる席は、ファイナル公演”日本人のへそ”の最終日(ファイナル)、3月27日の席だけだった。ファイナルのファイナル、井上ひさしさんを最高のかたちで追悼できた。もちろん、笑いの向こうに涙がある、涙の向こうに笑いがある、のが井上ひさしだから、ぼくは主人公、ヘレンさんの出身地、今、大変なことになっている東北地方のことにも、もちろん思いを馳せたのだ。

”日本人のへそ”は井上ひさしの戯曲デビューの作だそうだ。よく知られているように、彼は浅草のストリップ劇場フランス座で踊り子さんの合間に演じられるコントの台本を書いていた。だから、そのときの経験が色濃く出ている作品である。実際、主人公のヘレン(笹本玲奈)は浅草のストリッパーである。

これは、劇中劇で、吃音症の治療にはミュージカルが一番という説を唱える、うさんくさい大学教授が、浅草ストリップの華、ヘレン天津の一代記を劇化するというストーリーである。第一幕は、ヘレンが集団就職で岩手から上京したものの、色っぽい娘だったので、いろいろな男に追い回され、職業も変遷し、結局、浅草のストリッパーになる。井上戯曲らしい、言葉遊び、飾らない言葉、ちょっと不謹慎な言葉(笑)に溢れ、爆笑を誘う。そして、第二幕では、劇中劇であることを忘れさせてしまう、殺人未遂事件の推理劇。ヘレンは、上品そうな、政治家の愛人になっている。遅筆堂といわれただけあって、最後まで、練りに練ったという印象の、幾重もの入れ子構造になっている戯曲だった。

ファイナル公演の、まさにファイナル公演だったので、終演してからもアンコールの拍手が鳴りやまず、5回ほど、役者さんたちは舞台に呼び戻された。最後は演出家、栗山民也も舞台に上がった。こんなすごいアンコールははじめて観た。きっと観客は、井上ひさしさんを舞台に呼びださせたかったかもしれない。

井上ひさしさんがご健在であれば、故郷、東北の目を覆いたくなるような惨状に、悲しみ、なんらかの活動をはじめていただろう。そして、原爆に向けていた厳しい目を(さらに強くし)この原発事故に向けていたに違いない。

 

 

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文学の森へ 神奈川と作家たち展 第二部

2011-03-29 16:42:21 | Weblog

県立神奈川近代文学館で表記の展覧会が開催されている。これは、同文学館が所蔵している神奈川ゆかりの作家たちの資料を、長期間、三部にわけて展示しているものである。ぼくは、第三部から見始め、一部をみて、そして、この日、二部をみることになった。これで全部みたことになる(えへん)。神奈川ゆかりといっても、”ちょっと滞在型文士”も含むから、錚々たる大作家が集まることになる。

今回の登場者は展示順に次のとおりである。芥川龍之介、横光利一、川端康成、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本かの子、吉川英治、堀口大学、西脇順三郎、小林秀雄、中原中也、堀辰雄、中島敦であった。

谷崎は、引っ越し魔で、小田原、横浜に住み、最晩年は湯河原に住み、そこで亡くなる。箱根在住のとき、関東大震災に遭遇し、大阪に移り、最初の大作”痴人の愛”を発表。横浜時代の経験をもとに、モダンな風俗をバックに悪女ナオミを大胆に描く。谷崎も大震災がきっかけとなり、飛躍した作家だ。”細雪”は、四人姉妹の物語だが、ご夫人と彼女の妹らをモデルにして描いたそうだ。写真が展示されていたが、皆さん美人だった(ぼくは映画では小百合さんが出演したのをみたことがある)。棟方志功装丁の、”鍵”、”瘋癲老人日記”が異彩を放っていた。挿絵も志功が担当したが、それは静岡で観た。

中也の展示コーナーに、”冬の長門峡”の自筆原稿があった。短い詩だが、結構、修正している。最後フレーズの”あゝ!そのやうな時もありき、寒い寒い日なりき”の”あゝ”にも修正のあとがあった。”文学界”の中也の追悼号があり、小林秀雄の”死んだ中原”という詩が載っているページが開かれていた。”君の詩は自分の死に顔がわかってしまった男の詩のやうであった/ホラ、ホラ、これが僕の骨と歌ったことさへあったけ・・・・” 小林は詩人である。

荷風と神奈川?西脇と神奈川?堀辰雄と神奈川?ぴんとこなかったが、荷風は中学生の頃、小田原に転地療養していて、その後、逗子の別荘にたびたび遊んだらしい。ピンク色装丁の”おかめ笹”の初版本があった。西脇は鎌倉に疎開。彼は絵画も玄人はだしだが、実物がここでみられ、良かった。堀は逗子、鎌倉で新婚生活を送ったらしい。

川崎(二子)で幼少期をすごし、鎌倉で関東大震災に出会った、岡本かの子コーナーでは、康成宛ての書簡が展示されていた。康成がいち早く、かの子を評価し、世に出ることが出来た。横浜生まれの吉川英治の”鳴門秘帖”は青い布張りの珍しい装丁だった。”宮本武蔵”の自筆原稿も。漱石の芥川宛ての書状も、芥川コーナーでまたみることができた。

新たなこともいろいろ知った、面白い展覧会であった。まだ日が高かったので、山手の洋館通りを歩き、イタリア山の外交官の家の、裸のメタセコイアの並木をみてから帰った。若葉の季節がもうすぐくる。

 

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大船も桜開花宣言

2011-03-28 18:09:07 | Weblog

今日の午後、靖国神社の桜も開き、東京の桜、開花宣言がされました。それより先、ぼくは、今朝、大船の桜の開花宣言をしました(汗)。ご報告は夕方になってしまいましたが。

大船一の桜の名所は、大船松竹撮影所落成記念植樹の、砂押川沿いの桜並木です。毎年、ここの開花宣言をすることを職務にしていますので(汗)、今年は、大震災の悲しい春となってしまいましたが、このときばかりは、涙くんさようなら、と元気いっぱい、宣言したいと思います。

松竹にちなみ、ぼくは、ここの、一本一本の桜に往年の松竹の、女優さんや監督さんの名前をつけさせてもらっています。例年、原節子桜が最初に開花、そして、小津安二郎桜が二番手と、5年ほど不動の地位を占めていたのですが、今年はどうも、様子が違います。両桜とも開かず、近くの笠智衆桜が一番でした。

きっと、まず、わたしが様子見で咲いてみようと、原節子桜をなだめて、表に出てきたものと思われます。桜界でも、放射能が話題になっていたようです。

放射能お毒味役がまず咲いて(汗)・・・かな。笠智衆桜さんに怒られるかな。
放射能安全宣言サクラサク (汗)・・・これなら、いいかな。

笠智衆さんのような住職さんがいる、お寺で鶯の初鳴き(ぼくにとって)を聞きました。まだへたくそなホーホケキョでした。

ご近所の木蓮も白木蓮も見頃になりました。

 

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荻原井泉水と”層雲”100周年記念展

2011-03-28 10:09:18 | Weblog

横浜山手の県立神奈川近代文学館で表記の展覧会が開催されている。萩原井泉水(おぎわらせいせんすい)は、五七五の定形、季語にとらわれない、自由律俳句を提唱したことで有名だが、ぼくは、井泉水のことをよく知らなかったので、この展覧会はいい勉強になった。

ご遺族が約1万点に及ぶ資料を文学館に寄贈され、今回、その一部が展示されている。1911年(明治44年)に、井泉水が私財をなげうって機関紙”層雲”が創刊され、今年は、その100年目に当たるのだ。同じ頃、”白樺”や”青鞜”も創刊されているから、文学界は湧きたつような時代にあったのだろう。三つの機関紙が並べて展示されていた。

”層雲”を通じて、尾崎放哉(おざき ほうさい)や種田山頭火が育った。彼らのコーナーもある。二人とも裕福な家庭に生まれている。放哉は東大法科を卒業し、生命保険会社の重役までなるが、大正12年の関東大震災を機に職を放り出し、寺院に入り、句三昧の生活に入る。山頭火は大地主の子だったが、家業が傾き、大学を止める。関東大震災後、元妻のいる熊本に行ったが、荒れた生活がつづき、市電の辛島町電停前(ワイフに聞いた)で電車を止めようとした(自殺未遂)事件を起こし、禅寺の和尚に助けられ、ここで得度した。両人とも関東大震災を機に、俳句に本格的にのめりこんだのが面白い。(東北大震災でも、これをきっかけに新たな道をと思う人物がきっといるだろう)。大酒呑も共通点で、全国を放浪し、名句をつくった。そのいくつかの句が、手紙や書籍と共に展示されている。

いれ物がない両手でうける
咳をしても一人
墓のうらに廻る (放哉)

分入っても 分入っても 青い山
まっすぐな道でさみしい
どこで死んでもよいと 山の水を飲む (山頭火)

井泉水は、芭蕉好きであることを知った。芭蕉研究家としても有名だそうである。子規により、芭蕉が軽んじられた時代が続いたが、彼が再評価した。”芭蕉さま”、”奥の細道ノート”などの著書が展示されていた。井泉水は書画も得意とし、芭蕉の”嵯峨日記”をモチーフに、京都の寺院や風景を描いた書画はほのぼのとした感じでとても良かった。一方、滑稽味ばかりが評価されていた一茶も正当に評価した。”創作おらが春”の著書もそこにあった。芭蕉も一茶も自由律俳句と共鳴するところがあったのだろう。

石川啄木も井泉水に助けられている。無名時代の啄木の詩を”層雲”に載せてあげ、通常は稿料なしだが、5円を出した。啄木の井泉水宛ての年賀状があった。その年に亡くなったそうだ。井泉水は北鎌倉の禅居院(建長寺塔頭)に滞在したこともある。横浜根岸にもいた。昭和51年、92歳でなくなった。

(横浜根岸にて)

空を歩む ろうろうと 月ひとり (井泉水)

(絶句)

美しき骨壺 牡丹 化けられている (井泉水)

”層雲”は現在も発刊されている。井泉水の放哉、山頭火らを評したエッセイ。

 文学館前の、芸亭(うんてい)の桜は、開花まであと一息だった。

追加:井泉水が滞在した禅居院。鎌倉街道を挟んで建長寺の向いにある。今日、撮ってきました(汗)。

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ショック療法

2011-03-26 09:30:58 | Weblog

以前、書いたことだが、ぼくのパソコンがだめになってきて、いよいよお払い箱にしようと思っていた日に、大地震がおき、パソコン君、転げ落ちず、デスクの土俵際になんとか残った。そして、なななんと、その日から”正気”に戻り、今日まで半月あまり、一度のトラブルもなく元気に働いている。大地震による、”ショック療法”だといってよい。こんなショック療法による”正気化”が人間界でも起きてほしいものである。

大新聞などのマスコミも、この半月、朝刊、夕刊ともずっと、大震災関係のニュースが一面トップになっている。当然のことだし、これからも、避難している方々の動静や、まだ予断を許さない福島原発問題もあるから、しばらくはつづくだろう。

大震災前は、随分つまらない記事が大新聞の一面トップを飾っていた。海老蔵がどうのこうの、八百長、品格問題、野球賭博がどうのこうの、極めつきは、大学のカンニング問題等々。これからは、マスコミもこの程度の些細なことを、一面トップ記事にするのを憚れるだろう。大震災で、マスコミは”正気”に戻ったと思うからだ。これもショック療法のひとつといえるだろう。でも、喉元過ぎれば熱さを忘れる、ということもあり、分からないが。

教育界でも、この”ショック療法”を期待している先生方も多いだろう。問題児やモンスターペアレントの”正気”化だ。大震災を目の当たりにして、大きな悲しみのあと、誰もがやさしい気持ちになっている。これほどの大惨事を目にして、問題児だって、何かを感じないはずはない。ずいぶんつまらないことに悩んでいた、文句を言っていた、我慾に固まっていた、反省します・・・・と。学校が、ぼくらの貧乏時代のように、連帯感をもった、なごやかな雰囲気になるかもしれない。

政治家、財界のみなさんも同様だ。正気に戻ってください。
3・11を正気元年、始まりの日にしたいものだ。

フラミンゴの学校

キリンの親子 

猩猩トキの夫婦

 

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大震災 二週間後

2011-03-25 10:15:51 | Weblog

大地震から二週間がたった。被災者数はさらに増え続け、死亡者9,811名、安否不明者19、806人(朝日新聞)にもなっている。これでも、まだ全貌がわからないという。再度、ご冥福をお祈りします。

加えて、福島原発事故はいまだ深刻な状況で、原子力安全委員会は、昨日、スリーマイル島事故以上のレベル6と認定した。チェルノブイリ事故のレベル7に迫る、大変な事態となった。2日目に、ぼくのブログで、スリーマイル規模かと書いたが、どなたかが、海外では二段階上のチェルノブイリ規模といってますよ、とのコメントを頂いた。その通りになってきた。放射能汚染も野菜、水と拡がり、広範囲の人々に影響を与え始めた。

ストップザ放射能、と現場で決死の作業をつづけておられる皆様には本当に頭が下がる。昨日はとうとう2名の方が放射線障害を受けてしまった。まさに命がけで、日本のために頑張っておられるのだ。それに引きかえ、東電上層部、監督官庁、原子力安全委員会、原子力(関連)学会の学者さんたち、もちろん官邸も、これまでの対応をみてると、とても頑張ってるとは思えない。ただ楽観的解説や希望的観測(ふたりのNHK解説者の方がよほど正確な分析をしている)をしているだけだ。やはり、みんな、原発を中心にした、むかしからの仲良しクラブだから、強くいえないのだろう、(廃炉になると困るからと)思い切った”初期消火”もできなかったのだろう。いよいよ、最終盤に入った。そろそろ眼を覚ましてください。

。。。。。

昨日、野毛山動物公園でみてきた、動物たちの眼。こちらの方がよほど知的で、やさしいな。

ライオンの眼

キリンの眼

レッサーパンダの眼

ふたこぶらくだ、ツガルさんの眼はつぶっていました。人間でいえば100歳なので、いつも寝ているのです。みんな、大地震を乗り越えました。

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VOCA展 上野の森美術館

2011-03-24 10:44:09 | Weblog

震災後、はじめて上野に行った。上野の森は閑散としていた。東博はじめ主要な美術館、博物館はすべて閉館していた。地震がなかったなら、今頃、パンダで大人気であっただろう、動物園もしばらく閉園するようだ。この大災害そして、毎日のように続く余震では、とても子供たちを呼ぶことはできないだろう。それにしても、中国からはるばるやってきた、二匹のパンダ、この大地震にびっくりしたことだろう。外塀のすきまから正門近くのパンダ舎を伺ってみた。外には出ていなかった。部屋の中でこわごわ抱き合っているのだろうか、”地震酔い”になっていないだろうか、心配だ。

すこしだけ蕾をふくらませ始めた桜並木を歩いた。1,2本、ピンクがかった桜が満開だったが、寒桜系統だろう。いつもの年なら、この木の下で、早々とお花見をしている人もいるのだが、さすがに誰もいない。そのまま、不忍池に行こうと思ったが、上野の森美術館が開いているようすだった。

”VOCA展/現代美術の展望・新しい平面の作家たち”が開催されていた。VOCA展というのは、全国の美術館学芸員、ジャーナリスト、研究員らにより推薦された40歳以下の現代作家の作品展である。もう18回になり、数多くの才能が発掘されているということだ。先日、横浜美術館で個展を開いていた、”白い少女”が印象に残った、彫刻家、中谷ミチコも昨年のVOCA奨励賞を受賞しているとのことだ。こうゆう新進作家の作品をみるのも楽しいものだ。

コバヤシ麻衣子(untitled)の、ぬいぐるみのようなキャラクターが黒い背景の中で愛らしく迎えてくれる。何故だか一匹が腕に糸紐をつながれてひっぱられている。佐竹龍蔵(ひとつの)の、高知和紙をもちいて、何人かの少年(青年?)がぼかされたような点描で表現され、不思議な印象を与える。青山悟の旧式の工業用ミシンをつかった刺繍作品も、膨大な作成時間を想うと、その分、長く観てあげなければと思った。片山高志(on the road)も楽しい作品だった。交差点の道路にいろんな人が歩いている。よくみると頭が、ソフトクリーム、モニター画面、信号機、入れ歯、樹木になっていたりしている。非日常が面白い。熊沢未来子(より未来へ)は、新宿や秋葉原の現実のビル群の上に、女、少年、幼児がガリバーのように大きくなって、はいつくばったり、外に飛び出ようとしたり、叫んだりしている。より未来へ、というタイトルで、なんとなく意味がわかる(VOCA佳作賞)。

後藤清香(あきらめて)ボートを漕ぐ必死の形相の水兵の姿。はじめ意味がわからなかったが、近くに置いてあった図録をみてよく分かった。作者の大伯父が戦時中、海上に漂流する爆弾を回収する作業をしていたとき海に落ちて亡くなったそうだ。このボートの兵士たちは、その大伯父を探しているのだ。この制作中に”自衛隊は暴力装置”の発言があり、非常に不快に思ったという。兵士一人ひとりの人生がある、それを”装置”とくくるとはひどいと(VOCA奨励賞)。小池真奈美(あたま山)も面白い作品だった。落語の演目”あたま山”からきている。さくらんぼを食べた男の頭に桜の木が生え、桜が満開になる、近所の人があたまの上にあつまり花見をする、という噺だ。この絵では、あまりお酒は見当たらないが、いろいろな着物で踊ったり、歌ったりしている人がたくさんいて楽しそうだ。人物の顔は作者の顔なのだろうか、みな同じにみえた。この作家は”落語を絵にする”ことをテーマにしてるらしい。また、個展でもあったら観にいきたいと思う。

第二展示場では、日野之彦の”そこにあるもの”展が開催されていた。これからは、現代アートも積極的にのぞいてみよう。

上野公園

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彼岸桜と白木蓮 東慶寺

2011-03-23 08:45:58 | Weblog

今朝も福島県を震源とする地震がありました。震度5強が二回連続。福島原発で決死の作業を続けておられる方々も肝を冷やしたことでしょう。連日、日本のためにありがとうございます。

ぼくらの地域でも、余震が毎日のように続き、三半規管がおかしくなって、大地が揺れてないときでも、めまいがする”地震酔い”の症状を示す人が多いらしい。ぼくも、大地震後、お酒をそれほど飲んでいないのに、ふらふらとするときがあるから、きっと、それは”地震酔い”なんだと思う。もしかしたら、高血圧の薬に加えて、花粉症の薬も飲み始めたので、その複合副作用なのかもしれないが。

まだ春の、お彼岸で、半年ぶりにこの世に戻った、ご先祖さまたちは日本の惨状をみて、それこそ、めまいをおこしているのではないかと思う。お彼岸中の東慶寺を訪れた。いつもの年なら人であふれているところだが、この日も(大震災翌日もそうだったが)、閑散としていた。

でも、いつものように幕が開き、じゃないけれど、お彼岸の頃、咲く花たちは、何にもなかったように、蕾を膨らませ、花を咲かせ始め、”春の幕”がしずしずと開きつつあった。

。。。。。

彼岸桜

白木蓮

ミツマタ

祈り

浄智寺からの祈り

 

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椿

2011-03-21 11:46:18 | Weblog

大震災から10日がたった。暗澹たる日々が続いているが、昨日、80歳の祖母と16歳の孫が奇跡的に救出されたニュースは、ひとすじの光だった。

仕事をもっている人は、その間、震災のことは忘れることができるだろうが、ぼくのように遊びが仕事の人間には、”計画停電”等のため、遊びも不自由になって、気を晴らす時間が少ない。電気のきている図書館を巡るのが唯一の楽しみだが、ここで読む本もつい、原発関係になってしまう。ある図書館では、特設の原発コーナーまでつくってあった。”原発列島を行く”、”原発事故は何故繰り返されるのか”等など、5冊ほど読んだ。腹のたつことばかりだが、こうゆう時期だから、言わない。

いつも、こうゆう暗い景色ばかりみていると、身体までおかしくなってくるようだ。おまけに花粉症がひどい。たまには息抜きをしなければいけない、と思っていたところ、昨日、”計画停電”実施しません、との東電からのお知らせがあった。ワイフが茅ヶ崎の、美術館と氷室椿庭園に行かない?という。ぼくは震災前に行っているが、そのとき椿庭園がもうひとつだったし、美術館の企画展”椿咲く/絵画と工芸”も、もう一度観たいと思っていたので、一諸に行くことにした。

椿庭園は、10日前に比べて、明らかに花の数が増え、見頃になっていた。ひとつ、ふたつしか咲いていなかった、ここの名華、氷室雪月花もたくさんの花をつけていた。肥後椿も、前回ほとんど咲いていなかったが、見事な雄蕊を中心に華やかに開いていた。近所にお住まいの人が、今年は大分、遅れて見頃になりました、と言っていた。いいときに来られてよかった、とワイフも満足していた。ぼくも満足したが、うっかりカメラをわすれてきたのが残念だった。

そこから、駅に戻るように歩き、美術館を訪ねた。やっているかどうか心配だったが、開催していた。”あいおいニッセイ・コレクション”から選ばれた60点の椿の絵と工芸品だから、なかなかのものだ。光琳、抱一の椿がある。それぞれ、団扇画と扇子画と小品だが、琳派の趣がある。乾山、基一の山茶花、椿もある。乾山の賛が面白い。”梅は冷淡で嫌われやすいから、ここでは艶のある濃彩で山茶花を描いた”とある。乾山が梅をそんな目でみていたのかと思うとおかしかった。

左室には大正昭和期の画家の作品。小林古径、村上華岳、高山辰雄などの日本画家、熊谷守一、満谷国四朗などの油彩画家の作品が並んでいる。いくつかの作品に学芸員による解説文がついている。高山辰雄の椿には、”ふるえるような筆使いで、生物のひそやかな息づかいを一つひとつ拾い上げるように描こうとしている”と。なるほどと思った。これから、そんな目で高山辰雄の作品を観てみよう。

第二展示室には、真鶴ゆかりの中川一政、大磯の安田靫彦、堀文子、藤沢の岸田劉生、平塚の鳥海青児、鎌倉の前田青邨、小倉遊亀、中島千波、魯山人、葉山の山口蓬春など、錚々たる画家の椿が、それぞれの特徴ある顔をみせて並んでいる。あふれるような色彩や、淡い色彩、写実もあれば、文様的のもある。堀文子の四つほどの作品のひとつは、花瓶の外に落ちた花びらまで描かれている。”自然の摂理を語りかける、常に生と死は隣り合わせ”との彼女の言葉が添えられていた。浄智寺の裏にお住まいだった、遊亀さんの作品もいくつもあった。”椿の絵は何十年も描いていますが、いつも新しい気持ちで描いています。今の花は昨日の花とは違います”

大震災10日後の、少しばかりほっとした一日だった。

 

 

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