◎なぜ岡田啓介首相は、救出されたあと姿を隠したのか
二・二六事件(一九三六)の当日、奇跡的に難を逃れた岡田啓介〈ケイスケ〉内閣総理大臣は、その翌二月二七日、福田耕〈タガヤス〉内閣総理大臣秘書官、迫水久常〈サコミズ・ヒサツネ〉内閣総理大臣秘書官、東京憲兵隊麹町憲兵分隊特高主任の小阪慶助〈ケイスケ〉憲兵曹長らの努力によって、反乱軍によって制圧されていた首相官邸から、これまた奇跡的に脱出することができた。このことについては、昨年八月九日の当コラムで、少し紹介したことがある。
当初、岡田首相は、この事件で殺害されたと報じられた。しかし、二月二七日に岡田首相が救出されたあとも、この「誤報」は訂正されなかった。すなわち、首相が生存していた事実、救出された事実は、すぐには公表されなかった。しかも、首相自身が、東京市内の某所にヒソカに身を隠していたのである。
まことに不思議な経緯であるが、これもまた、二・二六事件という不可解な事件を象徴するエピソードのひとつというほかはない。
先日、神保町の古書展で、岡田貞寛『私と父の二・二六事件』(講談社、一九八九)という本を入手した。岡田貞寛〈サダヒロ〉氏は、岡田啓介の長男で、事件当時は、海軍経理学校の生徒(二五期)だったという。
この本には、事件後における岡田啓介首相の動向が、実に詳しく紹介されている。首相が生存していた事実や救出された事実が公表されなかった理由、首相が市内某所に身を隠さざるをえなかった事情などは、この本を読むことで、はじめて理解できることが多い。その意味で、この本は、非常に貴重な史料といえる。
岡田首相の生存が公式に発表されたのは、二月二九日午後四時四八分のことであった。この発表は、なぜか宮内省から、内閣記者団、および宮内省記者団に対して、おこなわれたという(岡田貞寛『私と父の二・二六事件』一五〇ページ)。宮内省による発表の二分後の、同日午後五時、新宿角筈〈ツノハズ〉の岡田首相私邸において、「弔問客」に対して、次のような文章が読み上げられ、また貼りだされたという。
岡田内閣総理大臣ハ今回ノ事件ニ際シ奇蹟的ニ身ヲ以テ難ヲ免ガレ無事デアツタ 今日迄首相ト信ジテ居タ遭難者ハ意外ニモ義弟松岡伝蔵氏デアツタ事ガ判明シ従ツテ一昨二十七日ニ首相ノ遺骸トシテトシテ引取ツテ参リマシタ屍体ハ松尾氏ノ遺骸デアルコトガ確認致サレマシタ 皆様ニ対シ多大ノ御心配御迷惑ヲ相掛ケマシタコトハ誠ニ申訳ナイ次第デ御座居マス 松尾氏ハ畢竟首相ノ身代リトナツタ結果トナツタノデアリマシテ誠ニ痛惜ニ堪ヘマセヌ ソレデ今日以後ハ改メテ松尾大佐ノ葬儀準備ニ取掛ル事ト致シマス
松尾氏ハ当時首相秘書官トシテ起居ヲ共ニシテ居タノデアリマス
昭和十一年二月二十九日午後五時 岡田家
岡田貞寛氏は「喪主」であるから、もちろん、その場にいた。氏は、この発表があった直後のことについて、次のように書いている。
聞く人はわが耳を疑うかのように呆然自失、名状しがたい空気であった。やがて誰かが万歳と叫んだ。その声にたちまち皆が和し、万歳万歳の歓声はしばらく続いた。
私は皆さんが、父の奇蹟の生存を喜んで下さるのは嬉しいけれど、このどよめきを聞く松尾の叔母や三人の子供達はどんな気持だろうかと、胸をしめつけられるような思いだった。
文中、松尾の叔母というのは、松岡伝蔵の夫人・松尾稔穂〈トシオ〉のことである。稔穂は岡田啓介の実妹で、岡田貞寛氏にとっては叔母にあたった。
救出後の数日間における岡田首相の動向については、機会を改める。
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