礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

二・二六鎮圧の殊動者はこの俺だ(田中軍吉)

2021-01-24 00:28:36 | コラムと名言

◎二・二六鎮圧の殊動者はこの俺だ(田中軍吉)

『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、石橋恒喜執筆「二・二六事件秘話」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

 失敗した皇居占領
 日銀占領計画もその一つではあるが、 反乱暴発史として世間に伝わっているものは事件の核心になればなるほど闇から闇へ葬られているといえる。この中でも一番中心となっているのは「皇居占領」計画である。もし反軍によって皇居が乗っとられていたら、天皇陛下は彼等の銃剣のうしろにおられることになる。そうなると元老、重臣から御前会議等の一切 をあげて日本帝国の最上層機能はすべて反軍の手中ににぎられてしまうわけだ。統制派陸軍が全陸軍を動員して、皇居にたてこもる反軍を討伐しようとしても、まさか皇居めがけて大砲も機関銃もうちこむわけにはいかない。できることは、唯々諾々、ただ反軍の命令に従うことあるのみである。昭和維新万歳! 村中〔孝次〕等はひそかにこの叶画をねった。そこで選ばれたのが近衛歩兵三連隊中隊長中橋基明〈ナカハシ・モトアキ〉である。中橋なら一部将校きっての強硬派だ。しかも皇居占領には、どうしても親衛隊である近衛兵でなければならない。
 反乱軍幹部の懇請に中橋は直ちに快諾した。
「よし。宮城占拠は中橋部隊一個中隊がひきうけた」
 そして皇居の関門をやくする〔扼する〕ためには最古参の野中四郎自らが警視庁を中心 に桜田門霞ケ関一帯を占拠、中橋部隊の前衛としてその援護にあたること。中橋が見事宮城乗っとりに成功した場合には、時を移さず手旗信号により「成功」の合図をして二重橋の上高く「尊王討奸」のはたをひるがえすこと……等々の計画を決めたのである。しかも戒厳司令官には当然東京警備司令官の香椎浩平〈カシイ・コウヘイ〉が就任する。香椎は皇道派で反軍の同志だ。側近奉仕の侍従武官長本庄〔繁〕も彼等の信頼する山口一太郎の岳父である。今やおぜんだてはすべてできあがった。成功は火をみるより明らかだ。村中、栗原〔安秀〕 がこおどりして喜んだのはいうまでもなかろう。
 大蔵大臣高橋是清〈コレキヨ〉の殺害と、皇居占領の二つの大きな任務を与えられた中橋は同志の部下特務曹長斎藤〔一郎〕、曹長大江〔昭雄〕、軍曹箕輪〔三郎〕、同宗形〔安〕等と協議して第七中隊百二十名を二隊に編制した。一つは高橋邸への突入隊で、あと残りをもって皇居占拠部隊(宮城守備隊控兵)と定めたのである。だがここに大きい誤算があった。なぜなら彼はまだ支那駐屯軍部隊の第一線から帰還したばかりで、近衛部隊の内部に血盟の同志が少なかった。特に問題は自分の中隊の小隊長今泉義道の向背にあった。突入隊指揮官には同志の砲工学校学生中島莞爾が反軍本部からさし向けられてきたから、ここには問題がない。しかし宮城占領には宮城守備隊控兵副司令の今泉を起用しなければならない。ここで二十六日の午前三時、中橋と中島とは営内居住室でグッスリ寝ていた今泉を叩き起して決起計画を打ちあけ反軍への参加を勧告した。とはいってもお坊ちゃんそだちのおとなしい今泉にとっては、暴発計画は全くのところ寝耳に水である。思案にくれた彼は、なかなかに上官の説得にも腰をあげようとはしない。この間にも決起の時間は刻々とせまってくる。中橋とてもあせらざるをえない。彼は中島に眼で合図をすると同時に、スクッとたちあがった。
「命令! 今泉少尉はこれより部下小隊をひきいてシャム公使館付近に位置し、次の命令に備えて待機すべし」
 こういい終ると同時に、そそくさと今泉の前をはなれた中橋は全中隊に対して非常呼集を行った。「これより明治神宮に出発」との命令を下したのであった。時に午前四時。かくて同五時、高橋邸を包囲した突入隊は蔵相の寝室に乱入してこれを惨殺、さらにこの中島隊をして首相官邸の増援に急行させた。もちろん今泉はこの間命令に従って、公使館付近で待機の姿勢にあったわけである。
 今泉隊は中橋の手中ににぎられた。めざすは宮城占拠である。目標は宮城坂下門。高橋の鮮血に染まった軍刀をふるいながら降りしきる吹雪のなかを間もなく、坂下門前に到着した。びっくりして立騒ぐ皇宮警手を尻目にかけて、機関銃陣地の構築がはじまった。銃口は無気味にも宮城前広場の方向へ向けられて、参内する重臣を片っぱしから革命の血祭りにあげようという計画である。準備はすでになった。ここで中橋は今泉隊を門外に残したまま、単身皇居内に侵入、守備隊司令室に躍りこんだ。軍帽の陰にギラギラ両眼を光らせた中橋は、まず腰の拳銃を抜きとると、物をもいわずにバラバラにこれを分解して司令のテーブルの上へドカッと投げ出した。つまり彼はピストルを分解することによって、司令に対しては敵意のないことを示すと同時に、宮城守備の全権を中橋部隊の手に渡すよう強要したのである。
「ならぬ。絶対にだめだ」
「イヤ渡せ。小官のうしろには同志の一個中隊がひかえているぞ」
 こうして激論ははてしなくつづいた。右手はすでに軍刀のつか〔柄〕にかかっている。この時雪を蹴ちらしながらここへはせつけてきたのは同じ近歩三の中隊長田中軍吉である。紡制派きっての暴れん坊と目されていた田中は、反乱軍決起の急報と同時に田中中隊をひきいて中橋討伐のためそのあとを追ったのだ。彼が坂下門に駈けつけたときには中橋は部隊を門外に配置したまま宮城内に侵入している。
「はやまったな今泉。よし! 今泉隊はこれから田中の指揮下にいれる。イエスか、ノーか。ノーというなら直ちに武装解除を断行するぞ……」
 田中の命令には今泉はもちろんいやも応もない。ふだんから今泉は、田中に弟のように可愛がられていたからだ。反乱軍今泉隊はたちまち討伐軍に早変りしたわけである。田中はすぐさま中橋の足跡をたどって、まさに白刃のひらめきかけた司令室にとびこんだ。万事休す! 中橋は田中中隊の銃剣に囲まれた形となってしまったのである。宮城占領、坂下門 占拠の計画はついに失敗に帰した。かくて田中に追われた中橋は、ようやく二重橋を越えて警視庁占拠部隊の中へにげこまざるをえなかった。「二・二六鎮圧の殊動者はなんといってもこのおれだ。ベタ金〔将官〕の腰抜けどものなにができるものかね」
 こういってカンラカンラと豪傑笑いをしていたかれ田中も、間もなく軍籍を追われて予備役に編入されてしまった。のちに日本軍による南京虐殺事件〔一九三七年一二月〕の責任を負って、死刑場にのぞんだのは予備役歩兵大尉田中軍吉であった。(当時東京日日新聞社会部・現日本新聞協会

 中橋基明中尉らによる「皇居占領」が失敗に終わった経緯が、明快に記されている。守備隊司令室にいた「司令」の名が伏せられているが、宮城守衛隊司令官・門間健太郎少佐と思われる。
 なお、みずから「二・二六鎮圧の殊動者」と称していた近衛歩兵三連隊の中隊長・田中軍吉大尉であるが、なぜか、一九三六年(昭和一一)八月に予備役となった。一九三七年(昭和一二)八月に召集され、歩兵第四十五連隊(鹿児島)の第三大隊第十二中隊長として、中国大陸に出征。戦後の一九四八年(昭和二三)一月、南京で戦犯として処刑された(インターネット情報)。

*このブログの人気記事 2021・1・24(10位に珍しいものが入っています)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 渡辺錠太郎「これは大雪にな... | トップ | 三浦寅吉の「反乱軍本拠突入... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事