礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

マトモなことを言うとヒドイ目に遭う

2016-06-13 03:03:17 | コラムと名言

◎マトモなことを言うとヒドイ目に遭う

 昨日の続きである。『思想の科学』一九六〇年(昭和三五)八月号「よみがえる戦争・戦後体験」特集から、中野徹雄氏の「知識人の責任」というエッセイを紹介している。
 本日は、その二回目で、とりあえず、これが最後。前回、紹介した部分のあと、一ページ分ほど飛ばしたところから、再度、引用する。

 ここで卒然と知識人の一般的な病弊ということに議論が移るのは適当ではないかも知れないが、なるべく前に述べた思い出話と関係づけて考えて行ってみたい。繰返すようであるが、私達の実感としては、「大東亜戦争」自体についての罪悪感などというものは少しもない。しかし敗ける戦争を続けて同胞の殺戮を忍ばなければならない、あるいは自分自身も殺されなければならないなどということは、およそ正気の沙汰ではない。戦争は止めなければならない、という判断は、健全な生物本能に基いてもたらされる筈である。この判断は、先ず最初に情報に通じた戦争指導者の頭脳に生じ、次いでは情報についての判断力を具えた知識人層に生じた筈である。もしも事実に直前〔ママ〕して思考するならば、である。いや、もしも事実に直面して思考したならば、開戦が最大の愚挙であったのであり、その愚挙としての評価は、更に遡って中国大陸の侵略にも当嵌らなければならない。それにしても連鎖反応的な愚挙が、事実に直面した健全な思考の表白によって赤信号が点ぜられることなしに、行きつくところまで行ってしまったということは、どうせマトモなことを言っても通らない、それどころか非道い〈ヒドイ〉目に遭うだけだという状況の積み重ねがあって、それでは結局他人に向って言うこともできないようなことは、いくらマトモなことでも考えても仕方がないということになり、マトモなことのかわりに幾分かでも充足感を与えるような観念にとりすがっておくという、知識人の心理的経過を示しているのではないか。つまり、(1)マトモなことが通らないこと、(2)マトモなことについて沈黙すること、(3)マトモな考え方を放棄すること、の三段階があると、一応概括できるであろう。もちろんこの三段階は、歴史的に、また社会的な態勢の積み重ねによって生じ、人間から人間へと意識的・無意識的にバトン・タッチされて行く。しかし、いわゆる知識人たるものは、少くともこの三つの段階のいずれかに参加している人種である。マトモな議論とかマトモな思考というのは、それこそ戦争を止めろというような端的に危機的な問題についてでもありうるし、さほど切迫しない政治的・社会的あるいは文化的な問題についてでもありうる。知識人がマトモだと考えていたことは、現実への通路が断たれていた。壊れたラジオみたいなもので、スイッチをひねっても点かない。点かないという体験の積み重ねは、スイッチを放棄させたのである。しかし、この壊れたラジオみたいなものに思考がとどまるものであるならば、つまり知識人の思考というものが仮りに自らの現実対応能力を次々と喪失させて行くものであるならば、そして、長い社会的体験の末に破滅的な戦争に対する発言力をすら封殺してしまうほどチエのないものであるならば、知識人たることは知識による自家中毒にすぎないということになりはすまいか。言いかえると、それは現実による検証においてマトモでなかったことが証明されたと言うべきではなかろうか。私にとって問題が深刻に感ぜられるのは、敗戦に至るまでこのような心理的経過が、戦後の知識人によって、より大きな範囲で再び繰返される危険が看て取れることである。戦前と異るところは、舞台が戦前のような知識人の狭い、孤立的なサークルにおけるものではなくて、遥かに広範な公然たる群衆劇になり、全国民的な規模における政治体験として再現されつつあることである。【後略】

 この間、一度も改行がないが、原文のままである。中野徹雄氏は、引用した部分の最後のところで、「敗戦に至るまでこのような心理的経過が、戦後の知識人によって、より大きな範囲で再び繰返される危険が看て取れる」と述べている。
 このことを指摘するだけなら、このエッセイは、一個の「知識人の責任論」にすぎない。しかし、そのあとで中野氏は、「戦後」においては、そうした「心理的経過」が、「広範な公然たる群衆劇」として再現されようとしていると指摘している。
 鋭い指摘である。中野氏は、このエッセイで、「大衆の政治体験」、あるいは「大衆の政治的成長」という言葉を用いている。
 中野氏は、このように、「大衆」の動向に注目し、その重要性を指摘することによって、「知識人の責任」論というワクを、ここで、すでに超えたのだろうか。
 そう読めなくもないが、やはり違うようだ。ここで氏は、「大衆」に注目しているが、それは、やはり「知識人」からの視点であり、「知識人の責任」という問題意識からの関心にとどまっている。
 しかし、今、それを指摘したところで、どうなるものでもない。これはまだ、「知識人」にそれなりの存在感があった時代の文章、すなわち、知識人が「知識人」を名乗ってモノを言うことが許された時代に書かれた文章なのである。
 このエッセイに対する私の注文は、実は、別の点にある。それは、「戦前・戦中」における「大衆の政治的成長」という視点が、筆者の中野徹雄氏には、欠けているのではないかということである。
 エッセイの冒頭に紹介された「思い出話」などは、むしろ、次のような話として聞いたほうが、理解しやすいのではないだろうか。――戦中においては、配属将校という存在は、「大衆の政治意識」を体現するものであり、それゆえに、その発言力は、「知識人」階級に属する旧制高校生の「マトモ」な感覚を凌駕しえていた。しかし、さすがに敗色が濃くなると、「大衆の政治意識」のみでやってきた配属将校も、「知識人」階級の「マトモ」な感覚を探ってみたいと思うようになったのだろう、と。

*このブログの人気記事 2016・6・13

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「君達は、この戦争に日本が... | トップ | 大政翼賛会は解散、大日本婦... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事