礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

北一輝はあっさりして感じのいい人だった(末松太平)

2018-02-16 04:15:40 | コラムと名言

◎北一輝はあっさりして感じのいい人だった(末松太平)

 本日は、末松太平〈スエマツ・タヘイ〉が、二・二六事件について証言している対談記録を紹介してみたい。末松太平(一九〇五~一九九三)は、元軍人で、歩兵第五連隊(青森)の中隊長(陸軍中尉)だったときに、二・二六事件に関与した。『私の昭和史』(みすず書房、一九七四)の著者としても知られる。
 証言の出典は、島津書房編『証言・昭和維新運動』(島津書房、一九七七)の第一部「証言 私の昭和維新」の「二・二六事件・末松太平氏に聞く」。聞き手は、鈴木邦男氏、地の文、および《 》内の注も、鈴木氏によるものである。

  2 北一輝と青年将校
 末松太平氏の著書「私の昭和史」には、末松氏が北一輝〈キタ・イッキ〉を訪問した時の様子が次のように書かれている。
「(北は)『軍人が軍人勅諭を読み誤って、政治に没交渉だったのがかえってよかった。おかげで腐敗した政治に染まらなかった。いまの日本を救いうるものは、まだ腐敗していないこの軍人だけです。しかも若いあなたがたです』と、キラリと隻眼〈セキガン〉を光らしていった。それは意外なことばだった。いまの自衛隊そっくりに無用の長物視されていた軍人が、日本を救う唯一の存在であり、特に若いわれわれがその最適格者だといわれたからである」
 そして、北にそう言われた感銘は「クラーク博士における『ボーイズ・ビー・アンビシャス』だった」という。
 さらに、西田税〈ニシダ・ミツギ〉は末松氏らに言う。
「北さんは日本の革命はあきらめていたが、君らの出現によって考え直すようになった」と。
 末松氏は前掲書の中で、こうも言う。
「北一輝の、『日本改造法案大綱』には、日本改造勢力の主体として、在郷軍人の動員は言っているが、現役軍人のことには一言もふれていない。それが私たちの動向によって、現役軍人をつかめる目安がついたとすれば、あるいは西田の述懐が北一輝の本心だったかも知れない。」
 ――北の言葉が、『ボーイズ・ビー・アンビシャス』のように聞こえたと言いますが、当時は軍人の評価というのは、そんなに低かったのですか。ちょっと信じられませんが。
 末松 軍人が今の自衛隊のように税金ドロボーと同じように見られていた時代ですからね。当時の中学校では戦争は絶対に無いって教えていた。国際連盟が出来ていたからね。これからは全ては平和に話し合いで決まるんだから、軍人なんかいらないと思われていた。
 ――それほどひどかったんですか。今の風潮と似ていますね。
 末松 大正自由主義の風潮はあったし、今よりひどかったですよ。今なんか戦争がないなんて言っても誰も信用しないでしょう。現にやっているんだから。しかしあの当時は実際なかったんだ。第一次大戦から満州事変まではシベリヤ出兵や済南〈サイナン〉出兵はあったけれどもね。そんな時代ですよ。僕なんか幼年学校うけるのにも片身の狭い思いをしたもんですよ。
 ――それで、北の言葉がそれほど感銘深く響いたわけですか。ところで二・二六と北の関係はどうだったんですか、いろいろ言われてますが。
 末松 事件には直接関係ありませんね。ただ青年将校に影響力のあったことは確かだ。僕なんか、たまにしか会わなかったから、かえって北のことを、きれいにとらえられるんじゃないかな。あっさりして感じのいい人だったし、ともかく勉強家だし博学だった。「支那革命外史」の一行は、普通の人の本一頁に匹敵するだけのものがありますね。文がうまいというより、内容の深さですね。若い時は図書館にばかり、閉じこもって万巻の書を読んだらしいね。しかし年とって勉強したかどうかはわからないね。大仏次郎〈オサラギ・ジロウ〉の「忠臣蔵」ばっかり読んでたともいわれるし、また、それでよかったのかもしれないね。もう知識なんていらなくなってたんじゃないかな。
《年とってからの北は本を読まなくなったばかりでなく、革命家たることもやめていたのではないかと推測する向きもある。
「昭和史発掘」で松本清張は言う。
「五十四歳の北はすでに直接的な国内革命運励の情熱を失っていた。生活のために受けていた三井、三菱の金銭的援助が身に泌みつきすぎた」と。そして北は政界黒幕型を志し、その面からの秩序改新を目指したのではないかと、推理する。来たしてどうだったのだろうか》
 ――松本淸張のような推測もありますが、どうですか。
 末松 そんな推測は、勝手にさせておけばいいでしょう。二・二六が失敗に終って、お偉方もずい分とひっぱられた。そして、泣いてる連中もいたんだ。そんな中でも北、西田は悠然としてたしね。北は法華経ばかりあげてるし、二人とも、死刑を宣告されてもケロッとしていた。判決後、帰ってきたのを僕はみたんだが、西田は、亀川〔哲也〕との別れぎわに「やァまたね」なんて声かけて、普段と全く変らないんだ。僕ら口では強がり言ってたが、内心、刑の軽いことを願っていた。しかし北、西田は違う。北は、かりそめにも、自分の書いたものによって青年層が影響を受けたのだとするなら、まず私を死刑にすべきだ」と言ってるしね。こりゃア立派なものですよ。死ぬ時まで、革命家でしたよ。机の上で革命を書いてる評論家とは違いますよ。
 ――北は三井などから、ずい分と金をもらっていたとききますが。
 末松 北が三井から金をもらったっていうけど、じゃァ他の連中はどこから金をもらってるんですか。やはり、金のあるところから引き出してるわけでしょう。北が三井から金をとってたのと大差はないですよ。今の政党だって、どっかから、かすめとってるんじゃないですか。将校なんかは、月々のものを貰って生活が安定してるし、こりゃアプチブルですよ。失うものは鉄鎖以外にいっぱいあったし、プロレタリアートじゃない。その点、北、西田は浪人ですよ。その浪人に僕は同情し、価値を認めるのですよ。【以下、略】

*このブログの人気記事 2018・2・16(1位になぜか矢川徳光批判)

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