◎吉本隆明の思想はヨーロッパ的な理性の基準からはずれている
最近、『現代思想批判/言語という神』(作品社、初版一九八五)という本を引っぱり出してきて、読んだ。栗本慎一郎氏と小阪修平氏の対談記録である。この本を引っぱり出してきた理由は、あとで述べる。
さっそく、引用してみよう(七八~八六ページ)。
栗本 理性とは何か、理性がどこまで有効なのか、どこまで理性に基づいて言語的体系を構築しうるか、という問題は、私ははっきり言って特殊西ヨーロッパ的な思考形式の問題だと思います。日本では、本居宣長をひき出すまでもなく、どこからひき出していっても、理性に対する基本的な信仰というのはないわけです。
小阪 その通りだと思います。でも、なぜ、我々がそういった問題につきあっているかということを考えた場合、それはよそごとではないという感じがあるんですね。
栗本 それはこういうことではないですか。我々が日本で知識人業をやる場合に、西ヨーロッパとのからみが重要になってきていて、西ヨーロッパの学者なり、作家なりを考える場合に、つねに理性が問題になってきている。
ランボーを問題にした小林秀雄も、ランボーは理性を批判してアンチ理性のランボーになった、というように言っているのであって、軸は理性問題なんです。しかし、そういうことを通して日本の社会の相対化ができたという一面があるし、またそれしか、とりあえず有効な方法はなかった。それは戦前から戦争直後、昭和三〇年くらいまでのところでは、きわめて重大なことであったと思います。
だけど、それは、ヨーロッパと言っても、じつは東ヨーロッパがあるとか、日本自身の固有の言語体系がもう少し整備されてくれば、つまり、我々は理性を絶対者の背景として措定して、それを武器にとかく円環した一つの(思想としての)言語的体系にまとめねばならないということを、それほど重大な課題としては持っていないということに気づいてしまえば、そこまでの問題だったのではないかと思うんです。ですから、小阪さんは西洋哲学史を書かれているわけですが、西洋とは日本にとって何だったのかという問題をいれて、その上で議論するということがここでのポイントとなってくるんです。たとえば、今日の学生達とつきあっていると、西洋を考えることが日本を考えることだとは全然考えていない。
フランスへ行って彼らが感じることってのは、遅れている、自動ドアが少ない、自動ドアの開き方が遅いからついぶつかってしまった、というようなこととか、フランスのラグビーは日本のより強いけど、日本のほうは受験戦争が大変で、向こうはいろいろなことができるから――というような感想なんです。この世代に対して、それは間違っている、ということはできないんです。もともと、西洋を梃子にして日本を語るというふうな日本の知識人の思想体系というのは、結局のところ日本と西洋の関係――関係なんだけどある種の実体的な力みたいなものを背景にしていたんだけど、そこはしだいになくなっていくと思うんです。
小阪 それは日本的な市民社会の業〈ゴウ〉というところですが、ある意味で言えば、日本という国は文化的な蓄積という点では先進国――これは価値概念なしに使うのですが――なんではないか、よく蓄積してきた国ではないかと思います。文化というのは、一種の身体感覚と言語の統合のシステムですから、それだけ大変で、ものごとが理性的には決して明らかにならない国なんですが。
理性に対する身体感覚というものが我々にとってそれほど重要ではない。じつは人が理性と言っている時には、多かれ少なかれそれと違うことを言っているんだ、というのはその通ちだと思います。しかし、今の市民社会の日本的なあり方というのは、すべてのことが、そこで問題になってしまうような、一種の普遍性を持っているという感じがするんです。それに、ぼくたちがヨーロッパ的な言語を使うということが、それ自体でぼくたちに他者の思考を強いているところがあると思うんです。そういう言語を使って全然べつのことを表現していても。
このあいだ専門学校の授業でソシュールをやっていて、若い女の子に、ヨーロッパから「愛」という言葉が入ってくる以前に、愛はあっただろうか、と質問したら、頑として「愛はあった」と言ってきかないんです。困ったもんですが。つまり本人がどう感じているかとはかかわりなく、ぼくたちはある言葉を使うとその言葉が属しているコンテクストのなかで思考させられることがあると思うんです。
それが最初に言ったニーチェからデリダまでの全部の問題をおさらいしなければならないような立場におかれているという理由です。しかも、それは、それほど身体感覚の中でとらえられないところで問題にしなければならないという、わりと変なというか不幸な状況の中にあるという感じがするわけです。
栗本 ええそれはよくわかります。でもそれも旧型知識人の課題なんですよ。小林秀雄型知識人というのがあって、今日、小林秀雄についてブーブー言ってる私やそうでもない小阪さんも含めて、小林秀雄型知識人の最後の地点に我々は来ているんです、日本で。先に述べたように、そのことを柄谷〔行人〕が象徴している。西欧とは何か、理性とは何か、理性に対する狂気とは何か。
この場合、狂気だけが問題になっているんではないのです。理性に対する狂気、そういう意味での問題になっている。流れからいったら、これは抹消されざるをえないところなんだけど、単に抹消されたらつまらない。栗本慎一郎がいかに西ヨーロッパ的なものを批判していても、言語的には西ヨーロッパ的言語を使って読んだり書いたりするということを通じて、たとえば一部や二部は本が多く売れるということがあるわけです。それは浅田〔彰〕君や蓮實〔重彦〕さんほどには露骨にやらないけれども、基本的にはあるわけです。
小阪 ええ、というよりも、思考することが、そういう形でしか成り立たないようなあり方がありますね。
栗本 そうです。商売としては、それしか成り立たない。【中略】
小阪 浅田彰は知識人としての道を選ぼうとしていますね。(笑)
栗本 でも、このところは、彼としてはかなり過激な議論をずいぶんしていますよ。
小阪 ええ、あの人は知識人としては優秀な人ですから。
栗本 デリダが最後は拒否するところ、つまり理性からの脱出を、彼〔浅田〕が利用しようとしたのは、できたら自分の非理性的強さを隠して、とりあえず戦略的にデリダでいきたいというふうにやったのであって、浅田は最終的には非理性の人間になると思います。私はそこのところを盛んに刺激しているんです。そこのところは他の人とずいぶん違うと思います。
とにかく、理性の問題というのは、日本ではスイカにかける塩みたいなものとして使われてきた、と私は思う。小林秀雄が提起した問題はやはり塩だったのであって、その場合はスイカを問題にすべきだと言っているわけです。
江藤淳も、私は塩だと思う。他方、吉本降明氏は外部と内部という問題で、事態を、つまり問題にすべきスイカを卓上に出している。
小阪 吉本隆明の場合、原理や普遍性、とくに普遍性に対する志向の強い人ですけど、彼の考える原理とか普遍性というものは、じつはヨーロッパ的な理性の基準から全然はずれたような原理や普遍性だと思います。
栗本 そう、全然違いますね。そういうのが流れとして出ているということを、みんな見なければいけないと思います。というのは、吉本隆明と比較したらどちらも怒ると思いますが、小室直樹という人がいますね。私はこの人の象徴的存在性というのに非常に興味がある。
小阪 『鉄の処女』で、栗本さんは非常に面白い小室論を展開していますね。【以下略】
この対談は、栗本慎一郎・小阪修平両氏の問題意識が、よく出ており、議論もわりに噛みあっている。私にとっては、今は亡き小阪修平氏の問題意識を知ることができるという意味で、特に有意義な本である。
引用した部分については、小坂修平氏が吉本隆明の思想について、「彼の考える原理とか普遍性というものは、じつはヨーロッパ的な理性の基準から全然はずれたような原理や普遍性だと思います」(下線)と指摘しているのがおもしろかった。【この話、続く】
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