◎吉田松陰と品川弥二郎の師弟愛
吉田松陰は、品川弥二郎という門下生を、ずいぶん可愛がったらしい。次のような逸話がある。これは、香川政一の『松陰逸話』(含英書院、一九三五)に出てくる話である。
品川子爵の家は元来険断といつて、罪人の首を斬る時に関係する役人の家でありました、子爵幼にして母に言はるるやう
「兄さんは止むを得ず家職を続けられるにしても、如何に罪人でも、首を斬られて悦ぶものはありますまい、願くは私だけなりとも学問をして、人を助ける者になりて、兄さんや父上のために善根を積みたいと思ひます、」
母から僅かの小遣銭を貰つて、松下村塾へ入り込みの弟子になられたのが、十六歳の時でありました、豆腐の糟を求めて来て、水で掻き廻し、米粒一撮〈ヒトツマミ〉を入れて土鍋で温めて、別にお菜〈オサイ〉も何もなく三度が三度それを食して塩をねぶつて料理にして居られますと、松陰先生が誠に之を憫み〈アワレミ〉、自分の膳につけられた料理を皿のままで、いつも下女に持たせて、村塾で自炊する品川に与へられました、蓋〈ケダシ〉先生は後には村塾にて食事をとらるることもありましたが、大体は食事には本宅へ帰られたのであります、民治翁〔杉民治〈スギ・ミンジ〉、松陰の実兄〕の奥さんがそれを見て、
「寅さんそんなに自分の分をやらいでも、こちらにあるのを品川へ持たしてやりませう」
と言はれますと
「いやいや私が既に御上の咎め〈トガメ〉を蒙つて〈コウムッテ〉、御兄様や、御姉様の容易ならぬ御厄介になつて居るのに、弟子のことまで御世話をかけては済みませんから、どうぞ私の分を持たしてやつて下さい、」
と言つて矢張先生は自分には食はずに品川に分たれました、品川さんは之を受けて、暫くは食べもせず、先生の居られる杉家の台所の方を伏し拝んでは、泣かれたさうであります。
著者の香川政一は、これを、子弟に対する松陰の愛情の深さを示すエピソードとして紹介しているのである。
しかし、今日、このエピソードを読む私たちは、ここから次のような情報を読みとることができるし、また、読みとるべきであろう。
1 品川弥二郎は、「険断といつて、罪人の首を斬る時に関係する役人の家」に生まれている。
2 その家職は、兄が継ぐことになっており、本人は、「学問をして、人を助ける者」になることを目指した。
3 松下村塾の門を敲いたのは、士分ではなく、藩校にはいる資格がなかったからであろう。
4 実際に、吉田松陰は、品川弥二郎の入門を許し、エピソードに見られるように、品川に対し、深い愛情を注いでいる。
5 戦前においては、品川弥二郎が「罪人の首を斬る時に関係する役人」の家に生まれたことは、誰でもが知っていた公然たる事実であったと思う。しかし、今日において、文献の形でその事実を書き残しているものを探すのは、意外に難しい。
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傷を得意としたそうですが、首切り役人の家に生まれたゆ
えんでしょうか。
なお拙ブログ(『日本人はいつから働きすぎになったのか』書評)お心広くも転載依頼頂き恐縮しております。