礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

若宮大佑と明石順三(付・映画俳優の晩年)

2015-06-18 10:33:04 | コラムと名言

◎若宮大佑と明石順三(付・映画俳優の晩年)

 本日は、柏木隆法さんの「隆法窟日乗」から、六月一八日の分を紹介させていただきたい。先日(六月一三日)、一括して拝受していた二十数枚のうち、「未来日記」と呼びうるものの一枚である。

 隆法窟日乗(6月18日) 通しナンバー431

 ものみの塔の悪口を書いて〔隆法窟日乗、6月16日付〕中途半端なのでもう少し書き添えておく。昔、若宮大佑〈ワカミヤ・タイユウ〉という俳優がいた。拙はこの人のことを何人かの知人に訊ねてみたところ誰も知らなかった。故に書くことをためらったが、いよいよ書かなくてはならなくなった。俳優としてはあまり記憶に残らない人であったが溝口健二の『元禄忠臣蔵』にも重要な役で出演している。拙が会ったのは『水戸黄門』の第二シリーズであった。宿屋の主人で大した役ではなかったが、人懐こい人で拙とも昔の話をした。この若宮大祐という人、あの『兵役を拒否した日本人』の明石順三〔灯台社の創立者〕の孫だといえば驚く人もいるだろう。テレビのコマーシャル。ウイスキーのコマーシャルで大工の棟梁に扮した若宮がウイスキーをチビチビやりながら若者に説教している。「最近の若い者は重い物を持たせれば重たがる。仕事がきついと嫌がる」とクドクドと話しているうちにウイスキーが空になる。「あっ、みんな飲んじまった。どうしてくれるどうしてくれる」と詰め寄るところで商品名のアップになる。このコマーシャルには記憶がある人は多かろう。戦前は山中貞夫の『人情紙風船』にも顔を出している。1911年京都市中京区の友禅染の職人の子として生まれた。銅駝〈ドウダ〉小学校から京都第二商業を経て東宝の前身PCLに入社、活躍の場を東京に移して映画に出演した。早稲田鶴巻町に住んでいた頃、水巻洋二郎というキリスト教系の「我れ神」を友人に持ったために警察から要注意人物にされ、その上明石順三が徴兵拒否をしたことから東京に住めなくなり、京都に戻った。戦後は大衆演劇の舞台に立ったり数本の映画にも出たが、あまり注目されなかった。注目されたのはテレビの『親子鷹』で中村竹弥〈タケヤ〉の勝小吉〈カツ・コキチ〉、青山良彦の勝麟太郎が演じたとき、勝家の隣に住む旗本の役で没落していく下級武士の最後をよく演じた。拙が知り合ったころには老人性痴呆症の症状がでており、セリフがなかなか覚えられずに苦労していた。妻子はなく世話をする人もいなかったために川崎市の福寿荘という身寄りのない老人を世話する福祉センターに明石潮〈アカシ・ウシオ〉と共に住んでいた。戦前から映画で活躍した人々が老いても誰も世話をする人がなく社会問題になっていた。そのころだったと記憶しているが水島道太良が私財を投じて伊豆の大島にケアハウスを建ててそういう老人に呼びかけていたがどうなったか拙は知らない。『風と共に去りぬ』のビビアン・リーではないがハリウッドならば一本当たれば一生食っていけるが、日本の場合、主役を張るような大俳優でも財産を残した人は一人もいない。拙は羅門光三郎〈ラモン・ミツサブロウ〉が看取る人もなく死んでいった例を目の当たりにして知っている。明石潮も孤独な老人として死んでいった。尤も気の毒だったのは東宝争議と東映争議で人員整理された人々で退職金もなければ再就職もないままに孤独死死していった例を何人か知っている。いろいろな例を繋ぎあわせてみると一番の原因は出演料があまりにも安く、蓄財ができないから老いて仕事がなくなれば生活するのも困難になる。市川右太衛門も京都を離れたのは住居を売却し、東京の賃貸マンションで生を終えた。片岡千恵蔵も何カ所かの別荘を売り、本宅も売った。勝新太郎、萬屋錦之介、藤山寛美も残ったのは借金だけであった。まして二流どころの俳優になると気の毒なもので悲惨な生活環境で死んでいった例があまりにも多い。拙が若宮が明石順三の関係者であることを知ったのはずっとあとのことだが、川崎市日進町の川崎福祉センターを訪ねた時にはすでに亡くなっていてプライバシーを名目に役所は歴史を闇に消えさせていく。

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