礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

十八日払暁、三條急病、参朝するを得ず

2024-04-04 02:07:38 | コラムと名言

◎十八日払暁、三條急病、参朝するを得ず

 三条実美といえば、征韓論論争の際、西郷隆盛の気迫に負けて卒倒したという俗説がある。この俗説が、三条実美という人物の評価を落してきた事実は否定しがたい。
 では、三井甲之の『三条実美伝』は、征韓論論争の経緯を、どのように記しているのだろうか。本日も、『三条実美伝』の「一五 三條實美の経歴と思想(五)」から、その一部を紹介する。

 条約改正の準備として欧米と対等の地歩を占めむが為めに三條實美の特命全権大使を欧米に派遣するの議嘉納せられ、明治四年十月岩倉具視全権大使となり木戸〔孝允〕大久保〔利通〕両参議伊藤博文山口尚芳〈マスカ〉副使となりて出発す。
 条約改正問題の外、樺太問題にてロシヤと交渉し、台湾蕃民暴行の処置に就いて、外務卿副島種臣〈ソエジマ・タネオミ〉は当時清国派遣中なりしも、陸海軍を朝鮮に派し居留民を保護し使節を派して京城に入り朝鮮政府と応対せしめむとす。
 六年六月十日閣議、板垣〔退助〕使節派遣に賛成す。西郷〔隆盛〕は軍隊派遣に反対し全権大使を派して談判せむとす。板垣江藤〔新平〕後藤〔象二郎〕諸参議賛成、西郷自ら大使たらむとす。三條實美は危害の大使の身に及ばむことを恐れて賛成せざりしも遂に之に賛成す。
 八月十七日閣議、閣員異議なく西郷派遣に賛成す。三條實美箱根行在所に何候して奏上、岩倉大使の帰朝をまちて発表することゝす。十八日西郷を招き勅旨を伝ふ。
 九月岩倉大使一行帰る。十月十三日大久保を、十四日副島を参議に任ず。十四日閣議、岩倉大久保は西郷派遣に反対、議決せずして散会。十五日再開、三條岩倉合議、閣議は西郷の主張容認と決す。十七日岩倉病気の理由にて、又大久保大隈〔重信〕大木〔喬任〕参議辞表を提出々席せず。西郷板垣江藤後藤副島出席、西郷は三條に即日上奏を迫る。三條一日猶予を乞ふ。夜三條は岩倉を私邸に訪ひしも議調はず、大木の来訪に会し、大木を伴ひ岩倉を訪ふ。深更西郷を招き岩倉の意を告ぐ。西郷は自説を固執し、議終に暁に徹す。
 十八日払暁〈フツギョウ〉三條急病参朝するを得ず、書を裁して岩倉に送る。
 實美不肖ノ身ヲ以テ夙ニ〈つとに〉殊遇ヲ蒙リ夙ニ大任ヲ負荷シ、日夜戦兢〈センキョウ〉唯〈ただ〉委託ノ重キニ背カンコ卜ヲ是レ懼レ〈おそれ〉其職ヲ辞セント欲スルモノ幾回、然レドモ聖上宵旰〈しょうかん〉国家多事ノ秋〈とき〉庶クハ〈こいねがわくは〉駑鈍〈どどん〉ヲ竭シ〈つくし〉聊カ〈いささか〉鴻恩ニ酬イ〈むくい〉奉ラント黽勉奉職以テ今日ニ至レリ。而シテ不幸俄カニ〈にわかに〉病ヲ発シ殆ンド国事ヲ誤ラントスルニ至ル。是レ他ナシ、短才ニシテ微力其任ニ堪へザルノ致ス所也。苟モ〈いやしくも〉此ノ〈かくの〉ノ如ク其職ヲ尽スコト能ハザルハ上ハ聖明ノ徳ヲ累シ〈わずらわし〉下ハ万民ノ望ニ背ク。其罪死シテ尚余リアリ。実ニ恐懼慚愧ノ至〈いたり〉ニ勝ヘズ。因テ〈よって〉速ニ職ヲ解カンコトヲ乞フ。伏シテ望ムラクハ閣下實美ガ衷情ヲ憐ミ察シ以テ叡聞ニ達シ給ハヾ何ノ幸カ之ニ加へン 頓首
    明治六年十月      太政大臣 三 條 實 美
   右大臣 岩 倉 具 視殿
 同時に岩倉に嘱し〈ショクシ〉て闕下〈ケッカ〉に執奏せむことを乞ひたる辞表、
 臣實美不肖ノ身ヲ以テ叨リニ〈みだりに〉大任ヲ負荷シ、日夜戦兢罷在〈まかりあり〉候処短才微力其任ニ堪へザルヲ以テ苦慮ノ余〈あまり〉俄ニ〈にわかに〉病ヲ発シ殆ンド大事ヲ誤リ国辱ヲ招クニ至ル。苟モ此ノ如ク其職ヲ尽スコト能ハザレバ上ハ聖明ノ徳ヲ累シ下ハ万民ノ望ニ背ク。其罪死シテ尚余リアリ。実ニ恐懼慚愧ノ至ニ勝へズ。伏シテ冀クハ速ニ臣ガ職ヲ解キ臣ガ罪ヲ正シ給ハンコトヲ謹ミテ奏ス
    明治六年十月      太政大臣 三 條 實 美
【一行アキ】
 二十日車駕三條實美の邸に臨幸親しく其の病を問はせ給ひ、更に岩倉邸に臨み三條に代りて太政大臣の事務を処理せむことを以てせらる。然も三條の辞表は聞届けけられず、三十日、
 辞表之趣難被及御沙汰、所労之儀ハ不得止事ニ被思召候条精々療養ヲ加へ快気次第ニ出仕可致候事
 二十三日岩倉太政大臣代理を辞し、大久保等と善処の方法を講じ、此日参内朝鮮派使問題の意見を奏上、一旦閣議決定せし西郷派遣の議用ゐられず。西郷板垣副島後藤江藤の五参議辞表を提出す。これ明治六年十月二十五日なり。〈178~181ページ〉

 ここに書かれている経緯が、事実に即したものだとすれば、三条実美は、西郷隆盛と論争になった際、西郷の気迫に負けて卒倒したという俗説は、これをそのまま信用するわけにはいかない。
 太政大臣という要職にあった三条実美は、10月14日以降の閣議を主宰し、その上、17日夜から翌日の暁まで、夜を徹して、参議者間の調整を続けていた。その調整が失敗に終った結果、この間に蓄積していた肉体的・精神的疲労が限界を越え、ついに「急病」に陥ったのではなかったか。

*このブログの人気記事 2024・4・4(8位になぜかミソラ事件)

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