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≪ 生前退位 vs 元号 ≫ 「元号=時代感覚」肯定の危険性   君主制と主権在民の並立を どう守るか?

2016-10-22 14:48:13 | 時評
 ★ 私の意見/5止 元号の意味づけ変化も 的場順三・元内閣官房副長官 http://mainichi.jp/articles/20161022/ddm/002/040/054000c?fm=mnm
・ 生前退位が実現すれば、元号制定に関して少なくとも二つの影響が出る可能性があると考えている。一つ目は内々に行われてきた選定作業を続けることが困難になるかも
  しれないこと。
・ 二つ目は、改元を「一つの時代の区切り」と捉えてきた国民の意識が変わるかもしれないことだろう。
・ 多くの国民は元号を単純な記号ではなく、「時代を表象する言葉」と捉えてきた。「昭和」と聞けば、人によって抱く印象は異なるが、私の世代の多くは「敗戦と復興」を
  想起するだろう。昭和天皇が亡くなった際は、戦争とは無縁の時代に入ったと感じたものだ。
  一方、生前退位による改元となれば、「世代交代」的な感覚は生まれても、「時代の終焉(しゅうえん)」という感覚にはならないかもしれない。
⇒ 的場氏の此の指摘こそ、明治以降の天皇制が秘める<一世一元号>が日本の歩みに果たしてきた役割がどういうものであったか。そして、<「時代」感覚を天皇が体現する姿での天皇制を肯定する立場に立つ君主制の在り方論>を考えさせてくれる重要な視点である。

◆ 周知のとおり、欧州の君主国に「元号」は無い。例えば<ルイ3世><ジョージ〇世>といった具合に君主個人の名前が王朝の称号でもあった。
  東洋では、辛亥革命以前の清朝まで、中国の王朝は出身民族を問わず「~帝」が生死とは別に元号を複数回名乗った。日本でも、飛鳥時代このかた江戸時代までは
  天皇あるいは上皇などが何度も改元している。 改元の意図は其の君主なりに治世の間の平和を祈る気持ちや天変地異からの復興を願う祈りでもあった。
  それは明治から現在までの改元意図でも同じだろう。だが、その素直な気持ちと<一世一元号>の必然性には何の脈絡も成り立たない。

 私が問題にしたい疑問は、もし生前退位したら今上天皇は元号「平成」とは切り離されるわけで、新しく即位する次の天皇が共に居るからといって、国民の「時代感覚」に何か変化は生じるだろうか? 生じたとして、それがどうした?という点だ。 寧ろ<天皇が亡くなったことを惜しむ気持ち=時代感覚=ひとつの時代の終わり>という定型化は、象徴天皇といいながら、結局この国は天皇が支配する主人だ、との伝統的情緒を擁護する働きをするのではないか?  其のマイナスこそ問題視すべきではないのか?
  明治維新から約150年、明治政府が創った新しい天皇制も150年。それは≪憲法は変わっても、国民と君主の関係性は変わっていない≫150年であるから、君主制という本質的には主権在民とは対立する仕組みの中で、(主権在民/象徴天皇)とどのように併存させてゆくのか?
 生前退位は(安倍首相が口した意味とは恐らく違う視座から)国の根本的な在り方を国民が逃げずに考えるチャンスを平成天皇が与えた、と考えたい。

洋の東西を問わず、君主制を廃止した国が全て民主的な国家になったわけではないが、日本は、支配者ではない君主をたてた立憲君主制という極めて難しい仕組みを選んだのだ。  あくまでも国民の大多数が君主制を肯定している事実は、主権在民の推進と両立させるべきものだ。
       間違っても、天皇制擁護を国家主義的強権統治に回帰したがっている勢力の口実に使わせてはいけない。
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