「ティファニーで朝食を」 1961年 アメリカ

監督 ブレイク・エドワーズ
出演 オードリー・ヘプバーン
ジョージ・ペパード
ミッキー・ルーニー
パトリシア・ニール
マーティン・バルサム
バディ・イブセン
ストーリー
ホリー(オードリー・ヘップバーン)はニューヨークのアパートに、名前のない猫と住んでいる。
鍵をなくす癖があり、階上に住む日本人の芸術写真家(ミッキー・ルーニー)に開けてもらう。
ホリーは、いつかティファニーで朝食をとるような身分になることを夢見ていた。
ある日、ホリーのアパートにポール(ジョージ・ペパード)という青年が越してきた。
作家ということだが、タイプライターにはリボンがついていない。
室内装飾と称する中年女がいつも一緒にいて、夜半に帰って行く。
ポールはホリーと知り合い、そのあまりに自由奔放な暮らしぶりに驚き興味を持つ。
ホリーも、ポールの都会の塵にまみれながらも純真さを失っていない性格に惹かれたようだ。
ある夜、ポールの部屋の窓からホリーが入ってきて“ティファニー"のことや、入隊中の兄のことを語った。
時計が4時半になると「わたしたちはただの友達よ」と断わりながら、ポールのベッドにもぐり込んだ。
ホリーには多くの男性が付きまとう。
過去、弟と二人生きていく為に結婚していた夫は今でも諦められず追って来るし、金持ちの男とは多く付き合いがあり、金をもらうこともある。
ポールと友達以上恋人未満の中途半端な関係を続けながらも、ホリーは南米の大富豪ホセともうすぐ結婚するところまできていた。
ところが、ホリーが麻薬取引に関わっているとして捕えられたことで、ホリーは捨てられてしまう。
弟の死の知らせも相まって、ホリーの心はボロボロになる。
そんな時、自分を支え愛してくれるポールのことを考える。
一方、ポールもパトロンの女と手を切った。
そんなとき、彼の短編が50ドルで売れたお祝いにホリーはポールを“ティファニー"に誘った。
寸評
オープニングから流れるヘンリー・マンシーニの「ムーン・リバー」は映画史のこる主題歌のひとつだと思う。
人出も少ない早朝に現れたヘプバーンがティファニー宝石店の雨でパンをかじり紙コップのコーヒーを飲む。
題名となった「ティファ―にーで朝食を」そのままだが、このタイトルも作品のムードに貢献している。
ヘップバーン演じるホーリーは娼婦の様でもあるが、その実態ははっきりとしない自由人である。
当初この役をマリリン・モンローがやる予定だったが、セックスシンボルとしてのイメージがつきすぎるとして辞退し、オード―リー・ヘプバーンに白羽の矢が立ち、彼女用に脚本が書き換えられたと伝え聞いている。
脚本の書き換えが全くの事実だろうと思わせるヘップバーンのための映画だ。
彼女のアップでは徹底してソフトフォーカスが用いられており、どこまでも美しいヘップバーンを追い続ける。
彼女はキュートな女性を演じ続けているが、僕はこの映画のオードリー・ヘプバーンが一番好きだな。
「ローマの休日」や「麗しのサブリナ」のヘプバーンもいいと思うが、この映画のホリーがなんと言っても素敵だ。
少し大人で、気品があって、何か無頓着で・・・それがたまらなくかわいい。
ポールじゃなくたって何とかしたくなる。
この頃、現代の妖精という言葉は彼女のためにあるとさえ思っていた。
ドレスアップしたオードリーが一番優雅に見えて、この映画に出てくるジバンシーの衣装の素敵さは「マイ・フェア・レディ」なんか目じゃない。
黒のドレスに、黒い手袋とサングラス。
白いネックレスをした彼女が、ティファニー宝石店の前で紙コップのコーヒーを飲みながらパンをかじる所なんかとってもエレガンスだ。
軽快な音楽に乗ってニューヨークの街を闊歩する姿に微笑みが漏れてしまう。
ああ、僕がジョージ・ペパードと入れ替われたらなあという気分である。
雨のニューヨークの下町で、ずぶぬれになった猫チャンを抱きしめている姿は少女そのものだ。
映画自体は何てことない映画だと思うのだが、これがオードリー・ヘプバーン主演だとこうなってしまうと言う完全なスター映画となっている。
したがって彼女が登場しないシーンは退屈だ。
彼女の部屋でパーティが催されるのだが、その様子は滑稽な場面を挿入されながらのドンチャン騒ぎなのだが、描かれた滑稽シーンに僕は素直に笑えなかった。
なにか白々しいものを感じて、ドタバタ喜劇を見ているような気分になった。
ホリーは麻薬取引の片棒を担がせられていたようなのだが、あの暗号は何だったのだろう。
ミッキー・ルーニーが演じるユニヨシとかいう男は日本人もしくは日系人と思われるのだが、背が小さく眼鏡をかけて出っ歯である。
道化役とは言え、アメリカ人の日本人イメージはこうなのかと唖然とさせられる。
突っ込みどころは満載の映画なのだが、そんなことを吹き飛ばしてムードに浸れる作品になっていることだけは確かで、若いカップルが見る分にはもってこいの作品だ。
もっとも現実の彼女は見劣りしてしまうだろうが・・・。

監督 ブレイク・エドワーズ
出演 オードリー・ヘプバーン
ジョージ・ペパード
ミッキー・ルーニー
パトリシア・ニール
マーティン・バルサム
バディ・イブセン
ストーリー
ホリー(オードリー・ヘップバーン)はニューヨークのアパートに、名前のない猫と住んでいる。
鍵をなくす癖があり、階上に住む日本人の芸術写真家(ミッキー・ルーニー)に開けてもらう。
ホリーは、いつかティファニーで朝食をとるような身分になることを夢見ていた。
ある日、ホリーのアパートにポール(ジョージ・ペパード)という青年が越してきた。
作家ということだが、タイプライターにはリボンがついていない。
室内装飾と称する中年女がいつも一緒にいて、夜半に帰って行く。
ポールはホリーと知り合い、そのあまりに自由奔放な暮らしぶりに驚き興味を持つ。
ホリーも、ポールの都会の塵にまみれながらも純真さを失っていない性格に惹かれたようだ。
ある夜、ポールの部屋の窓からホリーが入ってきて“ティファニー"のことや、入隊中の兄のことを語った。
時計が4時半になると「わたしたちはただの友達よ」と断わりながら、ポールのベッドにもぐり込んだ。
ホリーには多くの男性が付きまとう。
過去、弟と二人生きていく為に結婚していた夫は今でも諦められず追って来るし、金持ちの男とは多く付き合いがあり、金をもらうこともある。
ポールと友達以上恋人未満の中途半端な関係を続けながらも、ホリーは南米の大富豪ホセともうすぐ結婚するところまできていた。
ところが、ホリーが麻薬取引に関わっているとして捕えられたことで、ホリーは捨てられてしまう。
弟の死の知らせも相まって、ホリーの心はボロボロになる。
そんな時、自分を支え愛してくれるポールのことを考える。
一方、ポールもパトロンの女と手を切った。
そんなとき、彼の短編が50ドルで売れたお祝いにホリーはポールを“ティファニー"に誘った。
寸評
オープニングから流れるヘンリー・マンシーニの「ムーン・リバー」は映画史のこる主題歌のひとつだと思う。
人出も少ない早朝に現れたヘプバーンがティファニー宝石店の雨でパンをかじり紙コップのコーヒーを飲む。
題名となった「ティファ―にーで朝食を」そのままだが、このタイトルも作品のムードに貢献している。
ヘップバーン演じるホーリーは娼婦の様でもあるが、その実態ははっきりとしない自由人である。
当初この役をマリリン・モンローがやる予定だったが、セックスシンボルとしてのイメージがつきすぎるとして辞退し、オード―リー・ヘプバーンに白羽の矢が立ち、彼女用に脚本が書き換えられたと伝え聞いている。
脚本の書き換えが全くの事実だろうと思わせるヘップバーンのための映画だ。
彼女のアップでは徹底してソフトフォーカスが用いられており、どこまでも美しいヘップバーンを追い続ける。
彼女はキュートな女性を演じ続けているが、僕はこの映画のオードリー・ヘプバーンが一番好きだな。
「ローマの休日」や「麗しのサブリナ」のヘプバーンもいいと思うが、この映画のホリーがなんと言っても素敵だ。
少し大人で、気品があって、何か無頓着で・・・それがたまらなくかわいい。
ポールじゃなくたって何とかしたくなる。
この頃、現代の妖精という言葉は彼女のためにあるとさえ思っていた。
ドレスアップしたオードリーが一番優雅に見えて、この映画に出てくるジバンシーの衣装の素敵さは「マイ・フェア・レディ」なんか目じゃない。
黒のドレスに、黒い手袋とサングラス。
白いネックレスをした彼女が、ティファニー宝石店の前で紙コップのコーヒーを飲みながらパンをかじる所なんかとってもエレガンスだ。
軽快な音楽に乗ってニューヨークの街を闊歩する姿に微笑みが漏れてしまう。
ああ、僕がジョージ・ペパードと入れ替われたらなあという気分である。
雨のニューヨークの下町で、ずぶぬれになった猫チャンを抱きしめている姿は少女そのものだ。
映画自体は何てことない映画だと思うのだが、これがオードリー・ヘプバーン主演だとこうなってしまうと言う完全なスター映画となっている。
したがって彼女が登場しないシーンは退屈だ。
彼女の部屋でパーティが催されるのだが、その様子は滑稽な場面を挿入されながらのドンチャン騒ぎなのだが、描かれた滑稽シーンに僕は素直に笑えなかった。
なにか白々しいものを感じて、ドタバタ喜劇を見ているような気分になった。
ホリーは麻薬取引の片棒を担がせられていたようなのだが、あの暗号は何だったのだろう。
ミッキー・ルーニーが演じるユニヨシとかいう男は日本人もしくは日系人と思われるのだが、背が小さく眼鏡をかけて出っ歯である。
道化役とは言え、アメリカ人の日本人イメージはこうなのかと唖然とさせられる。
突っ込みどころは満載の映画なのだが、そんなことを吹き飛ばしてムードに浸れる作品になっていることだけは確かで、若いカップルが見る分にはもってこいの作品だ。
もっとも現実の彼女は見劣りしてしまうだろうが・・・。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます