「神々の深き欲望」 1968年 日本
監督 今村昌平
出演 三国連太郎 河原崎長一郎 北村和夫
沖山秀子 松井康子 加藤嘉 小松方正
細川ちか子 扇千景 浜村純 嵐寛寿郎
ストーリー
今日も大樹の下で、足の不自由な里徳里(浜村純)が蛇皮線を弾きながら、クラゲ島の剣世記を語っていた。
この島は、今から二十余年前、四昼夜にわたる暴風に襲われ津波にみまわれた。
台風一過、島人たちは、太根吉(三国連太郎)の作っている神田に真赤な巨岩が屹立しているのを発見し、神への畏敬と深い信仰を持つ島人たちは、この凶事の原因を詮議した。
そして、兵隊から帰った根吉の乱行が、神の怒りに触れたということになった。
根吉と彼の妹ウマ(松井康子)の関係が怪しいとの噂が流布した。
区長の竜立元(加藤嘉)は、根吉を鎖でつなぎ、穴を掘って巨岩の始末をするよう命じた。
ウマは竜の囲い者になり、根吉の息子亀太郎(河原崎長一郎)は若者たちから疎外された。
そんなおり、東京から製糖会社の技師・刈谷(北村和夫)が、水利工事の下調査に訪れた。
文明に憧れる亀太郎は、叔母のウマから製糖工場長をつとめる竜に頼んでもらい、刈谷の助手になった。
二人は水源の調査をしたが、随所で島人たちの妨害を受けて、水源発見への情熱を喪失していった。
刈谷は、ある日亀太郎の妹で知的障害者の娘のトリ子(沖山秀子)を抱いた。
トリ子の魅力に懇かれた刈谷は、根吉の穴掘りを手伝い、クラゲ島に骨を埋めようと決意するのだった。
だが、会社からの帰京命令と竜の説得で島を去った。
一方、根吉は穴を掘り続け、巨岩を埋め終る日も間近にせまっていたのだが、そこへ竜が現われ仕事の中止を命じた。
根吉は、二十余年もうち込んできた仕事を徒労にしたくなかった。
根吉は頑として竜の立退き命令をきき入れなかった。
寸評
これは古事記の世界かと思わせる内容に圧倒され続ける。
南方の孤島、クラゲ島の神事を司る太(ふとり)家は一方で近親相姦の家系である。
父嵐寛寿郎の子供が三国連太郎の根吉と松井康子の妹ウマであるが、二人は愛し合っているという関係。
根吉の子供が河原崎長一郎の亀太郎と沖山秀子のトリ子で、トリ子は知恵遅れである。
村の青年たちの多くがトリ子と関係を持っているが、その最初の相手は亀太郎だと噂しているといった具合だ。
俳優陣が人間の本性をむき出しにする演技を見せて原始社会を髣髴させるのだが、とりわけトリ子役の沖山秀子が凄くて、今村昌平の他に、この女優を使いこなせる人はいないと思わせる。
嵐寛寿郎は本作を回想して、撮影期間中に沖山秀子は監督と毎日関係を持っていたが、かくし立てをせず堂々たるもので、天真らんまん、先天性の露出狂で目を疑ったと述べている。
嵐寛先生はこの映画における沖山秀子を評して、奄美大島の出身らしいが日本人離れというよりも人間離れがしていて、そこがまた、この映画では取柄だったと論じている。
実際、沖山秀子のトリ子には鬼気迫るものを感じた。
クラゲ島は押し寄せる近代化の波にさらされながらも、信仰や旧習をかたくなに守っている村である。
南方の離れ小島であることで村落共同体を形作っている。
彼等は道徳や理性を無視して男女の交わりを行っている血族である。
血族の団結を保証するのがノロと呼ばれる巫女を中心とした信仰である。
卑弥呼の時代を思わせる社会で、村人の無邪気な様子が生き生きと描かれ、時折挿入される野生動物の姿が原始社会を連想させる。
日本では家族主義に起因する家の思想が長く有り、そのまとまりとして主義が存在している。
それが具現化したものが村々で行われる祭りであり、僕の村でも祭りが最大のイベントとなっている。
五穀豊穣を感謝する秋祭りには地車(だんじり)が出るが、お囃子は各村々によって違う。
かつては曳航する道でぶつかって血を見ることもあったと聞く。
若者がイベントに出そうとしたが、「神様を迎えて五穀豊穣に感謝し神事として引っ張るのがだんじりで、見せるために出すものではない」と長老たちから諫められたということが僕の村でもあった。
旧習を破ると言うことにはエネルギーと年月がいるものなのだ。
映画は日本と日本人の深層にあるものを表しているともいえるし、女の性の力強さの表明とも見て取れる。
三国連太郎がラストで、松井康子をつれて赤い船で逃げていくシーンは、追いかけてくる船の不気味なスリルと相まって素晴らしくホロリとさせられる。
開発批判という文脈は今日の目からすると定型的ではあるが、押し寄せる近代化の波に飲み込まれていく孤島の姿を描きながら、古い因習に縛られた社会の残酷さをも描いている。
大海原にただよう赤い帆の船は古い因習が葬られて近代化に飲み込まれていく象徴に思えるが、しかし近代化がなくては島の発展もないのだ。
そして村の旧習に染まらないと生きていけないのも村落共同体がもつ宿命ともいえる。
日本映画がひとつの到達点に達した作品でもあると思う。
監督 今村昌平
出演 三国連太郎 河原崎長一郎 北村和夫
沖山秀子 松井康子 加藤嘉 小松方正
細川ちか子 扇千景 浜村純 嵐寛寿郎
ストーリー
今日も大樹の下で、足の不自由な里徳里(浜村純)が蛇皮線を弾きながら、クラゲ島の剣世記を語っていた。
この島は、今から二十余年前、四昼夜にわたる暴風に襲われ津波にみまわれた。
台風一過、島人たちは、太根吉(三国連太郎)の作っている神田に真赤な巨岩が屹立しているのを発見し、神への畏敬と深い信仰を持つ島人たちは、この凶事の原因を詮議した。
そして、兵隊から帰った根吉の乱行が、神の怒りに触れたということになった。
根吉と彼の妹ウマ(松井康子)の関係が怪しいとの噂が流布した。
区長の竜立元(加藤嘉)は、根吉を鎖でつなぎ、穴を掘って巨岩の始末をするよう命じた。
ウマは竜の囲い者になり、根吉の息子亀太郎(河原崎長一郎)は若者たちから疎外された。
そんなおり、東京から製糖会社の技師・刈谷(北村和夫)が、水利工事の下調査に訪れた。
文明に憧れる亀太郎は、叔母のウマから製糖工場長をつとめる竜に頼んでもらい、刈谷の助手になった。
二人は水源の調査をしたが、随所で島人たちの妨害を受けて、水源発見への情熱を喪失していった。
刈谷は、ある日亀太郎の妹で知的障害者の娘のトリ子(沖山秀子)を抱いた。
トリ子の魅力に懇かれた刈谷は、根吉の穴掘りを手伝い、クラゲ島に骨を埋めようと決意するのだった。
だが、会社からの帰京命令と竜の説得で島を去った。
一方、根吉は穴を掘り続け、巨岩を埋め終る日も間近にせまっていたのだが、そこへ竜が現われ仕事の中止を命じた。
根吉は、二十余年もうち込んできた仕事を徒労にしたくなかった。
根吉は頑として竜の立退き命令をきき入れなかった。
寸評
これは古事記の世界かと思わせる内容に圧倒され続ける。
南方の孤島、クラゲ島の神事を司る太(ふとり)家は一方で近親相姦の家系である。
父嵐寛寿郎の子供が三国連太郎の根吉と松井康子の妹ウマであるが、二人は愛し合っているという関係。
根吉の子供が河原崎長一郎の亀太郎と沖山秀子のトリ子で、トリ子は知恵遅れである。
村の青年たちの多くがトリ子と関係を持っているが、その最初の相手は亀太郎だと噂しているといった具合だ。
俳優陣が人間の本性をむき出しにする演技を見せて原始社会を髣髴させるのだが、とりわけトリ子役の沖山秀子が凄くて、今村昌平の他に、この女優を使いこなせる人はいないと思わせる。
嵐寛寿郎は本作を回想して、撮影期間中に沖山秀子は監督と毎日関係を持っていたが、かくし立てをせず堂々たるもので、天真らんまん、先天性の露出狂で目を疑ったと述べている。
嵐寛先生はこの映画における沖山秀子を評して、奄美大島の出身らしいが日本人離れというよりも人間離れがしていて、そこがまた、この映画では取柄だったと論じている。
実際、沖山秀子のトリ子には鬼気迫るものを感じた。
クラゲ島は押し寄せる近代化の波にさらされながらも、信仰や旧習をかたくなに守っている村である。
南方の離れ小島であることで村落共同体を形作っている。
彼等は道徳や理性を無視して男女の交わりを行っている血族である。
血族の団結を保証するのがノロと呼ばれる巫女を中心とした信仰である。
卑弥呼の時代を思わせる社会で、村人の無邪気な様子が生き生きと描かれ、時折挿入される野生動物の姿が原始社会を連想させる。
日本では家族主義に起因する家の思想が長く有り、そのまとまりとして主義が存在している。
それが具現化したものが村々で行われる祭りであり、僕の村でも祭りが最大のイベントとなっている。
五穀豊穣を感謝する秋祭りには地車(だんじり)が出るが、お囃子は各村々によって違う。
かつては曳航する道でぶつかって血を見ることもあったと聞く。
若者がイベントに出そうとしたが、「神様を迎えて五穀豊穣に感謝し神事として引っ張るのがだんじりで、見せるために出すものではない」と長老たちから諫められたということが僕の村でもあった。
旧習を破ると言うことにはエネルギーと年月がいるものなのだ。
映画は日本と日本人の深層にあるものを表しているともいえるし、女の性の力強さの表明とも見て取れる。
三国連太郎がラストで、松井康子をつれて赤い船で逃げていくシーンは、追いかけてくる船の不気味なスリルと相まって素晴らしくホロリとさせられる。
開発批判という文脈は今日の目からすると定型的ではあるが、押し寄せる近代化の波に飲み込まれていく孤島の姿を描きながら、古い因習に縛られた社会の残酷さをも描いている。
大海原にただよう赤い帆の船は古い因習が葬られて近代化に飲み込まれていく象徴に思えるが、しかし近代化がなくては島の発展もないのだ。
そして村の旧習に染まらないと生きていけないのも村落共同体がもつ宿命ともいえる。
日本映画がひとつの到達点に達した作品でもあると思う。
許した日活の度量を感じます。
「にっぽん昆虫記」「“エロ事師たち”より 人類学入門」など、性を描きながら人間の本質に迫るものを感じます。
いかに日活が、今村を信頼していたかが分かりますが、これは少しやり過ぎでしたね。
途中で、助監督の磯見忠彦に『東シナ海』を作らせて、つなぎます。
だが、後のロマンポルノは、ほとんどが今村が日活時代にやっていたことの応用問題だったと思えます。
今村が作った作品は、性的表現で大ヒットばかりだったのです。