末つ森でひとやすみ

映画や音楽、読書メモを中心とした備忘録です。のんびり、マイペースに書いていこうと思います。

PJ版を振り返る:デネソール 編

2005-09-08 23:36:54 | PJ版:指輪物語

Denethor
“ My sons are spent.
  My line has ended. ”
               ( 映画 LOTR:RotK より )


今回の 「 登場人物別 :PJ版を振り返る 」 は、
デネソールについてです。

*~*~*~*~*~*~*~*~*

PJ版のデネソールは、映画化するにあたっての、
様々な改変のあおりを一身に受けてしまったというか、
いろいろな意味でお気の毒でした。

本来は、もっと誇り高く、大変有能な執政殿で、
ガンダルフですら、それと認める人物なのです。
長年にわたって、モルドールの脅威から、
ゴンドールという国を守り抜いてもきました。
原作の彼のあだとなったのは、自尊心の強さゆえに、
パランティアに手を出してしまったことでしょう。
そのことと、最愛の長男ボロミア亡き後に、
残された次男ファラミアまでもが危篤状態となったことを受け、
最後の緊張の糸が切れて正気を失い、
あのような悲劇的最期を遂げることになったわけです。

えぇ、もはや原作と映画では、まったく別の人格 なのでございます。

― と、これでは話が先に進まないので、
ここからは原作を離れて、PJ版のデネソールを見てみようと思います。

PJ版には、“ 人間 ” という種族における統治者が3人登場します。
アラゴルン、セオデン、デネソールがそうなのですが、
面白いことに、己の血筋や父祖について言及する台詞が、
この3人にはあるんですよね。


  ◇ アラゴルン : “ The same blood flows in my veins.
              Same weakness. ”




  ◇ セオデン : “ I go to my fathers,
            in whose mighty company I shall not now feel ashamed. ”




  ◇ デネソール : “ My sons are spent. My line has ended. ”


アラゴルンとセオデンについては、それぞれ、拙記事をご参照いただくとして、
デネソールは、瀕死のファラミアが運ばれてきた姿を見たあと、
上記の台詞をつぶやいて、完全なる狂気の人へと堕ちてしまいました。

血筋、または父祖への考え方にあらわれている、
それぞれの “ 自己存在 ” の認識の違いと、
3人が指輪戦争でたどった運命とを、
もっと上手く対応させながら、各パートを描いていけば、
物語の厚みも、随分と増したと思うんですけどね。。

RotK:SEEで追加された、ガンダルフが語るゴンドールの歴史のなかにも、


  Kings made tombs more splendid than the houses of the living,
  and counted the old names of their descent dearer
  than the names of their sons. ( 略 )
  And so the people of Gondor fell into ruin.


という、歴代のゴンドールの王たちが、王統としての血筋の重みに、
どのように執着して溺れていったかということと、
国が衰退していったことを、リンクさせる台詞があります。

このあたりをモチーフとして、
< 王 > と < 執政 >、 < 古の叡智 > と < 新しい勢力 > 、
< 第3紀までの旧世界を象徴する者 > と < 第4紀の新世界を担っていく者 > など、
もうちょっと、こう、脚本の構成として、何とかならなかったのでしょうかねぇ。

そして、なによりも、
デネソールの狂気へと至るまでの背景については、
ちゃんと説明すべきだった思います。

PJ版ではアラゴルンが改変されてしまった影響から、
パランティアをその原因にするわけにはいかない、というのであれば、
単純に、モルドールの脅威を原因としても良いと思うんですよね。
映画の場合、画面構成上の関係で、ゴンドールとモルドールの位置が、
ありえないくらい、ご近所状態となっています。
これを逆手にとって、ストーリーの伏線にすることはできなかったのでしょうか?

モルドールの脅威によって精神を蝕まれたことで、
執政としての誇りと自尊心が、統治権に対する執着へと捻じ曲げられた結果、
デネソールは、大国の執政としての役割をまっとうできなくなった。。

その経緯に、きちんと触れてあればですよ ―

原作未読者にも、
長男だけを偏愛するのは、
その狂気ゆえだと、納得できたかもしれない。
( 映画だけでは、ヌーメノールの血筋の件はわからないですし、
  決して、ファラミアが兄に劣っているからではないのです!
  だいたい、PJ版でファラミアが父の怒りをかった場面は、
  統治権に固執するデネソールの意思に反するかのような行動を
  彼がとったとして、エピソードを描いてあるのだから、
  その方が、より、わかりやすくなったと思うのです。。 )

あの、物議をかもしたお食事シーンだって、
デネソールの精神的な不安定さを象徴するものとして、
もうちょっと、受け入れやすくなったかもしれません。
( そうした演出に対する、好き嫌いは別にして )

そして、デネソールに対するガンダルフの厳しさも、
彼が囚われた闇から抜け出そうとせずに
自己の役割を放棄して、溺れているからなのだと、
筋が通った ・・ かもしれませんしね。
杖で殴るのは論外 ですが。。 )

まぁ、飛び蔭キックと、火だるまダッシュは、
どう頑張ってもフォローできませんけど。。

でも、「 ファラミア 編 」 にも書きましたが、
正直な話、PJ流のアレンジを視野に入れなければ、
映画のデネソールとファラミアのやり取りも、
役者たちの演技で、十分引きつけられるんですよね。
執政親子のあいだにある、緊張感がひしひしと伝わってきて、
血の繋がりがあるからこそ、どうしようもないほど拗れきってしまった、
執政家の悲劇の断片が、ちゃんと表現されていたように思えるのです。

どうして、もう少し原作にそった設定で描いてくれなかったのかなぁ。
もぉー、PJってば ~ (>_<)

*~*~*~*~*~*~*~*~*

 §edit. 『 デネソール 編 』 は、一部の文章を修正してあります ( 2005.9.9. )。


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