Creating yourself

「自分発見の旅から自分創造の旅へ」  

猫日記

2007-01-30 18:16:37 | ペット
ラブの余命は長くて数ヶ月、短くて...だから、ラブちゃんの様子を書きとめておきたい。

ミミはラブがペットのキャリーケースに入っているのを不審に思っている。だからフーッと威嚇してケースから出てこさせようとする。ラブはうるさいのでこっちにに向けて寝ている。

今日は私が帰ってくるとラブが迎えに来た。ちょっとしたことだけど、嬉しい。えさも少し食べていた。これも嬉しい。おしっこは相変わらずたくさんトイレの外にしていた。今はトイレの周りに新聞紙を敷き詰めている。病気のためにおいもしない。ラブのおしっこの後を始末するのは苦に思わない。大好きな猫ちゃんのためならえんやこーらという感じ。しかし、薬はやれない。粉薬なんて無理無理。おまけに効くか効かないかわからないのを無理矢理やるのもなぁーって感じ。

ラブにはことあるごとに「大好きだよ」って言ってあげる。このうちにもらわれてきて幸せだったなぁと思って欲しいから。


うちの猫ちゃんがリンパ腫に

2007-01-28 16:38:18 | ペット
このところおしっこをトイレの外でするし、食欲もない。朝になっても私を起こしに来ない。高いところにも上れず、げっそりしてる。首輪もだいぶゆるくなった。大スキなさしみや缶詰も高級を買って与えてもそれでも食べない。今朝獣医に連れて行ったところリンパ腫の疑いとのこと。肺の水を抜いてもらい、血液検査をし、レントゲンをとり、もう一回なんとかのためとか注射を打ち、かわいそうだった。帰りはニャーとも言わないくらいぐったりしてた。つい去年の夏はせみを追いかけて家出までしてしまうくらい元気だったのに。

元気なミミねこがちょっかいを出すのだけど、それもわずらわしくて、今朝使ったキャリーバッグの中に入って寝ている。こんな日が来るのを実は恐れていた。こんなに早く来るとは思わなかった。まだ、7歳。人が来るとお腹をひっくり返してなでてもらおうとするのんきな猫だったのに。抗がん剤も受け付けられないくらい、弱くなっている。とりあえず一週間分のステロイド剤をもらってきたが... 


失われた時間 - 癌になって

2007-01-26 18:17:44 | 日記
手術はJ病院は腹腔鏡手術(Laparoscopy)が主流だ。F先生は腹腔鏡手術の第一人者で、私は大船に乗った気分だ。F先生のチームにはさっぱりした性格の女性医師と、優しくて気さくな若い医師がいた。

手術室に行く前、移動用のベッドに横たわり、簡単な眠くなる注射をされた。その後手術室で全身麻酔を打ってもらうのだ。しばらくして私の名前を呼ぶ声がする。手術室に着いたのかな?と思ったら、
「手術、終わりましたよ」
「えっ、終わったの?」
目をあけたら母や娘、医師らの顔が私を見ていた。
麻酔って時間の感覚まで消すから、とても不思議。まるでその時間が存在しなかったようだ。

その晩は足や腕をマッサージする機械を装着され、手術室の隣の部屋に過ごした。他にも数人手術を終わったばかりの人たちがカーテンごしにいたようだ。私は麻酔から眠気が残っており、ぐっすり寝れた。ただ周りから苦しそうな声が時々聞こえてくるので、気の毒に思った。

翌日は早速歩かされた。麻酔が切れたあたり痛みが現れたけど、点滴と痛み止めの注射を打ってもらったのでさほどつらい思いはしていない。ただ、点滴がなくなるあたりにちゃんと看護士さんが来てくれるかどうか心配なので、しっかり数時間ごとには目を覚ました。

手術の翌日友人が「私、結婚するの。結婚式来てくれる?」なんてつぶやいているのが遠くに聞こえた。数日後、彼女がうめぼしを持って来てくれた。「Yuko さん梅干欲しいって言ってたからさ」
「あれっ、そんなこと言ってた?」
「うん、言ってたよ。覚えてないの?」
どうやら、そのときはまだ麻酔が効いてたみたい。記憶にないことを色々言ってたらしい。何年も会ってない友人がいきなり手術後にいるんだから、癌という病気の効力はすごいものだ。

手術後だったので数日は食事をとることができず、点滴だけが唯一の栄養源だった。なのに、もうすでに食べ物のことを考えていたのだ。

抗がん剤 - 癌になって

2007-01-25 19:38:47 | 日記
癌のステージの説明を受けたとき、リンパ節に転移がある場合は抗がん剤治療が必要だということだった。「でも、抗がん剤は効かないのよね。。。」と一言本音をもらした女性医師。私はリンパ節に転移がないことを祈った。しかし、転移は二つあった。そのうち一つは切除した腫瘍からわりに離れたところに。だから3bと診断されたのだ。これから効き難い抗がん剤治療か。

最初に吐き気止めの薬、次にフルオロウラシル(5-FU)+アイソボリンを3時間ぐらい(だったかな)点滴を受ける。これを一週間に一度6ヶ月。効き目のあやしい抗がん剤としてはかなりの時間と忍耐が必要だ。たいていの人は途中で白血球が下がって終わりまで続けられる人はいないらしい。私は白血球はわりに大丈夫だったが、明日は抗がん剤の日と思っただけで気持ち悪くなり始めた。気持ちって大切なのね。抗がん剤といえば髪の毛が抜ける話を聞くが、この抗がん剤は髪の毛には影響がなかった。ただ、1日2日は気持ちが悪かったけど。

病院ぎらいの私がよく毎週通ったものだと感心する。担当の先生に恩義を感じているのも大きな理由だ。もともと別の若い先生が担当だったけど、浦安のおばさんが一押しのF先生を一目見たときこの先生だと思った。しかし、むげに先生を代えてというわけにもいかない。ところが、手術の前の日いきなり担当医の札が取りはずさられ、かわりにF先生の札が私のベッドの後ろの壁にかけられた。それもなんの説明もなく。心当たりといえば、アンケート用紙に厳しい意見を書いたことが原因かなと思っている。理由はなんであれ、私は心の中で手をたたいて喜んだ。






同室の仲間 - 癌になって (3)

2007-01-22 20:50:35 | 日記
手術前2週間は休養と検査で過ぎた。恐らく検査のみなら一週間もあれば大丈夫だろう。また、通院しながらだって可能なはず。でも、癌という病名をもらったからには、家では平静にはしていられないだろうという、一応先生の親心で特別に入院待ちリストのトップにいれてくれたのだという。

胃カメラを飲んだり心臓の検査、CTと色々な検査を受けたが、1番つらかったのは下剤を飲むこと。たかが100mlのすっぱいクエン酸が飲めなくて、2時間もクエン酸の入ったコップとにらめっこした。冷たいといいとか氷をいれるといいとか聞いてためしたけど、すっぱさはさほど変わらず、量が増える分、飲むのにさらに時間がかかり、しまいには吐きそうになった。最初は、レモン汁を飲むような調子でわりに平気だったけど、2回目はなぜか飲めなかった。3回目になるとさらに飲めなくなる不思議な代物だ。異様なすっぱさがトラウマになるようだ。また、2リットルの塩水みたいなものも3時間かけても半分しか飲めない。平気な人はごくごく飲むのに、どうも私は得たいのしれないものに対して、異常に拒否反応が出る。

入院当初は、内科の病室に入れられた。同室には楽しいおばさんが二人いて、その二人の話を聞くのが楽しかった。腹の皮がよじれるくらい笑うことも度々。だんなの洗濯物は汚いので、自分のと別にして、だんなのは足で踏んで洗うという双子のかたわれのおばさん、神妙な顔をして入ってきたが、肺に影があるといわれ、すっかり癌だと思って身辺整理をしてきたそうな。癌でないとわかったら急に陽気になって、若い頃の丸の内オフィスガールの頃の話、ライバルである双子の姉の話。姉のだんなとの比較。色々な言葉を知っていて、テレビを見てもむずかしい言葉はすぐ辞書で調べて記録しておくという知的好奇心の旺盛なおばさんだ。

もうひとりのおばさん(というよりおばぁあさん)は、浦安でアパートを経営しているおばさん。検査入院だったが、検査で異常がないから退院しろというのに、もう一日入院させてくれと無理やり伸ばしていた。お医者さんでも看護士さんでも自分のそばを通る人は、「ちょっと、お姉さん」とか、「お兄さん」と呼び止めて、必ずなんらかの用事をいいつける。真夜中に急にイヤホンがラジオからはずれて民謡が大きな音で流れたときはびっくりした。バタンバタン大きな音を立てて引き出しをしめるので、私は「すみません。もう少し静かにしめてください」といったが「はーっ?」という具合に耳が遠くて聞こえないらしい。

同室の仲間とおしゃべりしてると気が紛れた。また、私は病気を会社の人に話しておりいろんな人が会いに来てくれたので、退屈しなかった。ただ、寝るときひとりになると途端に不安感が押し寄せてきた。看護士が気をきかして眠剤をもってきてくれていたが、その助けはあまりいらなかった。大腸癌は他の癌に比べて5年生存率が高いという言葉にかなり救われたせいもあったと思う。ラウンジで会った息子がJ病院の外科医だというおじさんの「天与の休暇だと思えばいい」という言葉が力強く心に響いた。




信じられない気持ち -癌になって(2)

2007-01-19 21:21:32 | 日記
目の前に見せ付けられた内視鏡で撮った写真、
「ほらこんなに大きなポリープが」
論より証拠。こんなものが私の身体の中に。
「癌ですか?」
「可能性があるね。組織の検査結果を待たなければわからないけど」
「治りますか」
「やってみなきゃわからない。みんな悪い方に考えるけど、くよくよしたって始まらないんだから..今日、入院しよう」
「先生、病室が空いてないんですが」
看護士と担当医の間で病室の都合をつける会話が聞こえる。

その間、別の看護士がベッドのある方に私を導く。ベッド脇にティッシュの箱をそっと置いた。気が済むまで泣いている間、彼女はすみっこでじっと見守っていた。ついてあげなければあまりに気の毒な病気。存分泣いた後、入院準備のため病院を後にした。バス乗り場に向かいながら、私は誰にどう話そうかと考えた。まず、会社。それから母に。母はショックだろうから、兄にうまく言ってもらおう。それから、同じ病気をもってる父親がいる親友にと。これは夢じゃないんだ、現実なんだ。心地良い初夏の空気がいとおしく感じられる。深緑の季節が生への執着を呼び覚ます。しかし、この景色は私のためではないような気がした。この世が借り物のように思え、死の影のない人々が途端に羨ましく思えた。こんなんだったら、子どもなんて産まなきゃよかった。幼い子を残してこの世を旅発たなければならなかった幾多の母達。どんなに口惜しくて辛い思いをしたのだろう。

治ると断定してくれなかった医師の言葉に、すっかり私は打ちひしがれていた。


友は私の言葉に動揺を一切見せなかった。それどころか落ち着いて、「でも、検査の結果はまだ出てないんでしょ?治らないと決まったわけでもないし」検査の結果を待たずとも、私を入院させるほど緊急ならほぼ間違いないと確信してた。ただ、彼女の冷静沈着な反応が、「だいじょうぶ」と受け止めてくれてるようで、私のあの状況の中ではもっとも適格な反応だったと思う。

腹痛が始まったのは3週間前。最初は鈍痛で始まった。1週間後、激痛が走り、日曜日だったが、病院にかけこんだ。CTとレントゲンを撮ったが、内視鏡の検査の予約もとらされた。入院する必要があるかもと言われた。入院の可能性を知った時点で、娘のめんどうをみてもらうため田舎の母に東京に来てもらった。処方された薬を数日服用していたら、腹痛が収まった。検査の結果が出る頃には、もう痛みもないから、もうそろそろ帰ってもいいよと言ってた矢先だった、再び激痛が走ったのは。


入院して、3日後、担当医に呼ばれて正式に結腸癌だと宣告された。癌の進行度合いを示すステージ1~4の説明があった。私の場合は、1でないことだけは確かだった。手術してリンパ節に転移があるかどうか、そしてその前に他の臓器に転移があるかどうかを検査しなければならないということだった。

リンパ節転移のある3bであることを知ったのは、それから3週間後のことだ。



癌になったら (1)

2007-01-15 23:25:57 | 日記
もしかして、今日、または昨日、または数日前に癌を宣告されて頭が真っ白になったという方のために書きます。こればっかりは経験のない人にどう励まされても慰められても、どうせわかってもらえないという絶望感があるでしょう。たとえ経験があっても初期癌だったりしても同様です。

自分のBlogでこの経験は、あまり書きたい題材ではなかったのですが、でも自分が最初癌を宣告されたとき、1番最初に求めたのはネットによる情報です。そこに希望を見つけたかったからです。ところが、ネットの情報は調べれば調べるほどこわくなるものが多く、たのみもしないのに看護士が毎晩出してくれる眠剤が、癌患者の心中を物語っています。実際、私が勇気をもらえたのは友人の実体験からです。

今でも私の周りにも癌になったという友人、知人の話が入ってきます。自分の経験が少しでも誰かの励ましになるのならと思い数回にわたって当時を思い出しながら、書いていきたいと思います。

癌を宣告されたのは、3年半前、まさに晴天の霹靂でした。まさか、癌だなんて夢にも思ってなかったから。入院が必要と最初言われたときは、疲れを感じてたから、入院して休むのはいいねなんて軽い気持ちで考えていたのですが、病名を聞いた途端、死というものがこんなに身近に感じたことはありませんでした。

「先生治りますか?」が真っ先に聞いた言葉です。「治るかどうかやってみなければわからないね。みんな悪い方に考えてしまうけど、くよくよしても始まらないよ」この言葉は私の癌の進行度を物語り、シングルマザーである私は12歳の娘のことを考え、頭が真っ白になりました。
                               

アンナマデリーナ

2007-01-14 00:03:50 | 映画
金城武主演のアンナマデリーナを見た。

二人の対照的な男性を見ていると、マンウォッチャーの友人のN君の言葉を思い出す。もてる男には二通りあって、一つはひたすら優しいタイプ、もう一つは逆に横柄で威張るタイプ。私はひたすら優しいタイプが好き。ゆえに、この映画では金城君の役が好きである。金城君が彼女に「ピアノ弾いてもいい?」と聞くと、女性は「〇〇君(彼の恋敵)はそんなこといちいち聞かないわ」と答える。

この映画のテーマとなっているバッハのあまりにも有名なメヌエットを聞いているうちに私も弾いてみたくなった。つまづかずに最後まで弾けるようになりたい。今の私は映画の中のレスリーチャンと同レベル。指を使うのはボケ防止にもなるというし、ピアノはいいかも。

サンフランシスコにて

2007-01-06 10:29:23 | 旅行
年末急きょ2泊でサンフランシスコに行った。カウントダウンを海外で迎えるのもいいねなんてのりで。ちなみに去年3回行った米国はすべて2泊旅行だ。

着いた初日は、一度行ってみたかったアルカトラス島へと思って問い合わせるがツアーは正月まで売り切れとのこと。人ごみの観光地を歩くより、いっそのこと美術館でゆっくりするのもよいかと思い、マリオットホテルのフレンドリーなマネージャーがロダンのThinker(考える人)のポーズをとりながら薦めてくれたFine Arts Museums―Legion of Honor に行くことにした。タクシーで約20分。たった2拍の旅行でいきなり一日を美術館で過ごす人も珍しいだろうが、意外とこれがぜいたくでよい選択だった。タクシーに乗ってる間はゴールデンゲートを見られたし、運転手のおしゃべりも楽しいものだ。彼はベトナムから移民してきて、色々なところに住んだが、1番サンフランシスコが好きだと言った。人々がフレンドリーでオープンマインドだからなのだそうだ。

美術館は建物そのものが厳かでギリシャ神殿のような趣がある。隅から隅までゆっくり見終わると、丁度閉館の時間になった。夕暮れになり、空がブルーとピンクを織りなし、太平洋をのぞむ美術館からの風景は、もう一つの巨大な絵画だ。

美術館からホテルまではタクシー以外はちょっと不便。タクシーを呼ぶにも携帯電話の普及した今、公衆電話はない。あたりは真っ暗に。昼間はあんなにいた人がいつの間にか皆各自の足でちり去り我々ともう2・3人ぐらいしか見えなくなった。美術館の職員の電話を借り、宿泊先のホテルのマネージャーに呼んでもらったタクシーがやっと到着したのは約40分後。普通人里はなれた場所には呼んでもタクシーは来ないことも多いそうだ。客が必ずしも待っているとは限らないからだ。そう、私一人だったらとりあえずバスに乗って町に出てから拾うもんね。今一度信じる心を奮い立たせた相棒は、あの親切なマネージャーがアレンジしてくれたのだから「信じる」と言いきった。

期待を裏切らず、タクシーは到着した。すると、我々と同様にどこかで待っていた男女のカップルが現れ、「私たちも呼んだのよ」と一瞬タクシーの奪い合いに?結局我々の呼んだものだと証明はできたけど、行き先がそう違わないので同乗させることに。彼らは2回ほど電話をしたのに来ないのでしびれを切らしていたところだったそうだ。男性がすかさず"Thank you very much"と言って10ドル紙幣を私ににぎらせた。降りるあたりに半額の金額をわたすのではなく、さっと最初にお金を渡すのはとてもスマートだと思った。

我々は東京から7時間。彼らはニューヨークから6時間。たいして変わらないね。それほどアメリカって大きい国なのね。目が聡明で神秘的な魅力さえたたえている男性は、「韓国までは何時間かな?もうすぐソウルに行くんだけど」と聞く。"I am Korean."というのでどこが?って感じなのだけど、韓国人とアメリカ人の混血なのだそうだ。空港からホテルまでのエアポートシャトルでも韓国人の女性と話して一度はいっしょにアルカトラスまで行こうかなんて話をしてたばかりで、ツアーがいっぱいでダメになったものの、またもや韓国の話が出て来て韓国づいている。36年も会っていないお母さんをさがしに韓国へ1ヶ月の旅。2歳のとき自分が混血だったのか母親が未婚だったためなのか、お母さんは、自分を養子に出し、ニューヨークのユダヤ人家庭に育てられたのだそうだ。

「会えないかもしれないし、もうしかしたら死んでるかもしれないと思うとこわい気もする」
「でも、育てのご両親のもとで幸せだったんでしょ?」
「彼らには実の子が二人いて、彼らは一つの家族で、僕はのけものって感じだったかな」
「あなたを養子にした後に生まれたの?」
と聞くとすでにに二人はいたのだそうだ。
「じゃ、なぜ?」と聞くと耳をダンボにしていたタクシードライバーが
「男の子が欲しかったんでしょ?」
そのとおりだった。彼らのお祖父さんが男の子を欲しかったのだそうだ。

たとえ、結果がどうであれ何かを知りたいという気持ちは私が同じ立場だったらすごくよく理解できる。彼はハンサムで聡明でハートもいい人間だと思う。きっと生みの母親は彼がこんなに立派に成長をしているのを見たら大いに涙ぐむことであろう。

Good luckと願わずにはいられない。韓国ドラマばかり見てる自分が、テレビドラマよりドラマチックな人間ドラマに遭遇して、感傷的な気持ちになるのだった。片言の韓国語と韓国人の友人がいるということで、何かできることはないのだろうかと考えメールアドレスを交換した。