暖冬気味の年が続き、この写真、昭和30年代のような雪の降り方は滅多にありません。
これは我が家から、北堀之内駅を見た風景。「雁木(がんぎ)」と呼ばれた家の前に着いた小屋根まで雪は積もっている。
まだ駅構内に跨線橋が見えず、昭和30年代だと言う事が分かる。
右に見える、トイレの臭気抜きが見える家が我が家で、朝は蟻が土を跳ねのけるように雪を跳ねて外に出ていた。
二つある木造の建物は保線の建物。左が線路班で、後にスベルべの職場となります。
これはまだ積雪の少ない時期で、普通は平屋の建物はすっぽり埋もれたものでした。
通過中の旅客列車をご覧ください。今で言う、「ブルートレイン」ですが、普通列車はすべてこの編成。
この時代の除雪は、専ら人力頼み。構内を除く本線はラッセル車主体の除雪でした。
その後、昭和40年代に入り、新型のロータリー除雪車も出来た。
昭和41年に国鉄に採用されたスベルべは、6年後の昭和47年頃から除雪車に乗務していました。
今は亡き良き相棒だった先輩とのツーショット。
これは新任間もない当時の国鉄の高木総裁をお乗せした際の記念写真ですね。
当時の国鉄で、いや日本でわずかに3台しか生産されなかったモンスターマシン「DD53型」除雪車です。
背丈を越える、巨大な回転掻き寄せ翼の前に立つのが若き日のスベルべです。
毎年、冬のシーズンには披露していますが、20歳代でこの巨大な機械の責任者として働いていました。
責任者は真ん中に一段飛び出した回転窓のある操縦席に座ります。
向かって、左後ろが副操縦者で右後ろが機関士の席になる。機関助手は3人の後ろに控えていました。
雪の吹き出し口は見えないが、整備担当の運転所係員が下りようとしている手前にあり幅が1mもある巨大さ。
天候の良い時はまだしも、吹雪や一度だけ経験した夜間の作業など視界は遮られ苦労したものでした。
でも、上越線で関東圏と新潟を結ぶ唯一の輸送路の確保と、使命感を燃やしながら取り組んでいたものだった。
今回の電車が長時間止まった原因は複合的ではあるけれど、まずは責任が分散されるシステムにもある。
個人の判断、個人の責任で事が進められる時代ではなくなってしまっているようです。
そして、乗務員も運行をコントロールする司令員も若者ばかりになっています。
JRに移行する際の無理な人事運用がたたり、年齢構成がゆがんでしまったのですね。
JR新潟支社長は、事件後一週間もしてようやく記者会見し、平身低頭と言う感じで頭を下げていた。
総責任者として、顔を出すのが遅すぎます。三条市からのマイクロバスの提供を断った事実が判明し出て来たようです。
インタビューを受けた乗客関係者の「マイクロバスで、お年寄りから先に救出してもらいたかった」に実感が。
死亡に繋がる大事故にならなかったのが不幸中の幸いです。集団での判断には限界があると感じた事件。
現代は今回の事件のように、責任者不在のようなあいまいな事件の発生が予期されます。
対策として、「監視カメラの設置」などが言われていましたが、些末なその場逃れの対策でしかありません。
さて、ほっこりするような昔の写真でもお見せしましょう。
「56豪雪」の際の光景でしょう。娘たちと曾祖母だけれど電線を自力で柱を設置して上げている。
こんな豪雪の中でも、上越線だけは全く止めることなく走らせていました。
近年は地球温暖化の影響で、こんな大雪に見舞われることが少ない。明らかに降雪は減っていますね。