前の記事で「月桂院」の名前が出てきましたが、もう少し詳しく説明したいと思います。
名越家の歴史がここから始まったと言えるお話です。
島津吉貴公(左奥)と月桂院様の御墓(中央)
☆1-後の月桂院・須磨さんは江戸高輪屋敷で島津の若君・又三郎(のち吉貴)様の目に留まり、三男三女をもうける。
☆2-月桂院は第22代藩主・島津継豊の実母で、その兄は妹の薩摩入りに伴い江戸から薩摩に入った後※、名越姓を名乗った名越恒渡(つねただ)です。
(※ この記事を書いたのちに教えて頂いたのですが、実際には薩摩入りする事なく江戸で亡くなったということでした 2023.4.10 追記)
☆3-名越恒渡の孫・恒篤の養子に町田久亮二男・盛尚、またその養子町田久輔二男・盛胤が左源太時敏の父、ということです
☆4-そして、盛胤次男で左源太時敏の実弟は、町田家に養子に入った町田内膳久憲(家老)
また、月桂院が生んだ三男三女のうち、長男は前述の通り、島津家第22代藩主・島津継豊。
そして二男は垂水島津家第9代当主・貴儔(たかとも)。貴儔の長女・都美は従兄である重年夫人となり長男(のちの重豪)を産んだ後、産褥で亡くなる。
※ 継豊の長男=宗信、同じく二男=重年
以上は、時成さんの子孫・内村八紘さんの『名越左源太と長男・時成(変名・三笠政之介)』に基づくもの。
また、一部は黎明館史料と照合・検証されています。
このように、いろんな事象がめまぐるしく我が身にのしかかってきた為、これまでの長きにわたりこのブログに書いてきました。
そろそろ一応の区切りをつけようと考えています。
左源太の父盛胤の妻について気になることがあります!
『薩陽武鑑』の名越家を見ていたところ、名越右膳盛胤の妻について、「室養父右膳盛尚女」とあったのですが、この女性は左源太の母にあたる人物なのでしょうか。
そして名越盛胤と養父盛尚は、実の叔父と甥の関係なので、いとこ同士の婚姻ということになるのか(養子の可能性はありますが…)すごく気になりました。
左源太の母についての記述を探してもなかなか見つからなかったので、参考までに<(_ _)>
その前の非表示コメント('19.10.13)も頂きましたが、川上家については私では調べようがなく、イサさんのお姑さんについてもわかりませんのでお返事もせずにいました。
左源太時行(盛貞)の母、私も気になるのですが、わかりません。
『薩陽武鑑』は未だ見た事はありません。
左源太の実母についても何かわかるといいのですが‥‥。
もし何か分かりましたら、またコメント下さいませ。ありがとうございました。