私は昔、
残念ながら
智慧はあっても愛が不足していたと
反省します。
両方ないと
結局人を幸福にし、
自分も幸福にできないことが
以下の文章でわかります。
(参考 真理第7巻 谷口雅春著)
生長の家では、愛だけでは駄目だ、智慧に導かれた愛でなければならぬと説いているのです。(省略)愛というのは温める働きです。智慧というのは審判(さば)く働きです。審判(さば)くのは冷たい心です。そこで愛は火の燃えるかたち、火が燃える時は縦に燃え上るものであります。ところが智慧というのは水ですから横(水平)で冷たいのです。水は冷たく浄穢を区別して垢を洗い去る。是れが審判く働きです。汚れがあれば直ぐ洗い直す。悪を追放する。この智慧の水のように冷たい働きと、それから万物を悉く温める火の燃える働きの愛と、この二つが本当に調和しなかったならば本当に完全なものが実現しないということになるのです。ですから智慧の働きと愛の働きの両方兼ね備わらなければ、完全な人間とはいえないのです。
残念ながら
智慧はあっても愛が不足していたと
反省します。
両方ないと
結局人を幸福にし、
自分も幸福にできないことが
以下の文章でわかります。
(参考 真理第7巻 谷口雅春著)
生長の家では、愛だけでは駄目だ、智慧に導かれた愛でなければならぬと説いているのです。(省略)愛というのは温める働きです。智慧というのは審判(さば)く働きです。審判(さば)くのは冷たい心です。そこで愛は火の燃えるかたち、火が燃える時は縦に燃え上るものであります。ところが智慧というのは水ですから横(水平)で冷たいのです。水は冷たく浄穢を区別して垢を洗い去る。是れが審判く働きです。汚れがあれば直ぐ洗い直す。悪を追放する。この智慧の水のように冷たい働きと、それから万物を悉く温める火の燃える働きの愛と、この二つが本当に調和しなかったならば本当に完全なものが実現しないということになるのです。ですから智慧の働きと愛の働きの両方兼ね備わらなければ、完全な人間とはいえないのです。