現象の不完全は、神の業(わざ)が現われるためである。
生まれつきの盲人であるにしても、
彼は「神」の肖像(にすがた)として造られた“神の子”(霊的原型)なのである。
簡単にいえば彼は「神」なのである。
「神」には病気もなければ不完全も存在しないのである。
それはつまり、
神と神の子との父子関係を取り戻せば、
本来そうである「神性」を取り戻すので、
神の業が現われるのである。
本来神であるものが神の完全性を現わすのは
当たり前というしかない。
現象的には何か不完全があったものが完全になるわけだが、
それこそが神の業(わざ)であって、
そこに人々は「神」の存在を知るわけである。
目の器官が不完全であるのに
視力を取り戻したという例は、
イエスにあるのみならず、
ルールドの奇蹟にも記録があり、
藤原敏之先生の神癒例の中にもある。
これがニュー・ソートの神癒理論であり、
『神癒への道』「人生は心で支配せよ』
の説く所である。
人間の本体は全能の神なのである。
現象の不完全が完全になることで、
「神ってあるんだ」
とわかるのである。
【ヨハネ9章1~3
1イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
2弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。】
2弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。】
イエスは“神の子”の自覚が必要だ、と言っているのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます