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ローマ人への手紙

2017-12-25 13:14:48 | 日記
<ローマ第12章>
キリスト者の倫理(12・1-15・13)
国家に対する義務(13・1―7)
(1)すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。
(2)したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。
(3)いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。

自分が「神の心」であるというのは?

2017-12-25 13:03:16 | 日記
「現象の心」がなかったら何があるのかと言えば
さっき散歩をしていて分ったのだが、
代わりにあるのが(というより本当にあるのが)
「神の心」なのである。
「アサガオの心」とか
「梅の木の心」とか言った類の「心」であるから
私の「実相人間の心」であり、
「神のいのち」そのものであり、
「神の子」である。
さっき葉を落とした梅の木が
農家だった人の転用農地に何本も植わっているのを見たが
あれがそのまま「神の心」である。
だから私も「神の心」そのものであり、
実相金剛心であり、
「神のいのち」それ自体である。
新約ヨハネ伝の
「初めに言葉あり。言葉は神と共にあり。言葉は神なりき。」
の「言葉」でもある。
(2017/12/25記す 投稿者)
*追記 「神の心」という言葉は
「神の理念」という言葉とも
同じだと今気付きましたので、
追記させていただきます。

現象の心ナシで実相の心のみある

2017-12-25 09:31:02 | 日記
昨日読んだ生命の実相8巻の「無限生命に汲む道」のおかげで
現象の心に関係なく、
その時本当にあるのは“実相の心”(神の心)のみなんだと、
確信するに至った。
現象は実際にはナイわけで実相の心のみがあるのだから、
現象的なことに心をつかまれることなく、
実相の心だけがあるのだと確信し、
心を自由にしてあげるべきである。
この考え方は常に把持できるようになると、
随分日常生活が楽にできるように
なれると思う。
ただこういう心境を日常的に保てるようになるには、
毎日の聖典、聖経読誦と神想観の
継続的な修行は必要である。



聖典50頁読みで神想観よりも霊的になれる日もある

2017-12-25 09:24:30 | 日記
心が現象的な何かにつかまれると
神想観をしても
終ったあとで、
実相に触れたという爽快感を
得られないことがある。
そのような時は
心を
実相の確信に転ずる必要がある。
無理にもう一度神想観をするよりも
谷口雅春先生の聖典の
霊感あふれる箇所を50頁くらい読み、
心を実相確信の霊的な状態に
もっていくことが大切である。
神想観は
観中実相を観じることが必要なので、
勿論神想観実修中に心を霊的な方向にもっていくことも
可能ではあるのだけれども、
それをやっても観の空回りするのを感じた時には、
聖典50頁よみに切り替えてしまった方が
心の状態が安心感を得て
実相の確信にいたる場合もある。
要は現象はナシ、実相独在の観念が
入ってくればよいのだから、
その都度自分で判断し、
上手に心をコントロールすべきである。