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ローマ人への手紙

2017-12-27 11:03:46 | 日記
<ローマ第12章>
キリスト者の倫理(12・1-15・13)
律法を完成する愛(13・8―10)
(8)互いに愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
(9)「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
(10)愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

仏道をならうというは、自己をならう也

2017-12-27 10:23:11 | 日記
道元禅師による「正法眼蔵」の
最もよく知られている部分
「仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり」
について、谷口清超先生が解説している箇所を見つけたので、
紹介したいと思う。大事な真理であるので・・・。

(参考 正法眼蔵を読む 現成公案の巻 谷口清超著)
【<身心脱落>
かくなるが故に、仏道を習うというのは、自己をならうのである。自己即仏だからである。しかして自己をならうというは、自己を忘れる。自己の本来性は、無我である。そのまま一切者に合一した自己を自己と知る。自己を忘れるというのは、何も無自覚になってボーっとしているのではない。それは凡ゆる現象が自(おのずか)らととのってきて、そっちの方から働きかけてきて、自己が押しあげられ、証されていく。自我がないのである。一切が仏の御力であり、万法の流れである。そこに自己が埋没して、ナイのである。即ち、自己の身心が脱落しているのであり、又他己の身心も脱落している。自も他もない。スカッとして、いささかの力みもない。“そのまま”がそこにある。】

ここでは禅語の「身心脱落、脱落身心」の意味まで解説されているのが、
とても参考になる。