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ローマ人への手紙

2017-12-11 10:58:37 | 日記
<ローマ第10章>
イスラエルの救い(9・1-11・36)
神の計画の実現(11・11-24)
(11)そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
(12)しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。

実在の世界に入るにつれ現象の悩みは消えていく

2017-12-11 10:30:00 | 日記
現象の“我”と認めているものの本体がつまり真我が
“神”なのである、ということを
本当に納得すると(つまり潜在意識が受け容れる)と
現象の肉体の体調不良などは、
気にならなくなって、
実相の神の子(神の心、神のコトバ)に
すべておまかせしていれば大丈夫なのだと、
安心して生活できるようになってくる。
病気は“神の言葉”が活動してくれば
(実はいつでも活動しているのだか)、
本来ナイのだから消えてしまうことになる。
まさに
「はじめに言葉あり。言葉は神と共にあり。言葉は神なりき。」であって、
神のコトバつまりロゴスは
不断の創造活動を続けているからである。
私自身が「神の言葉」である。
生命の実相39巻に
「釈迦の成道」のことが書いてあり、
釈迦のお悟りの内容が
「万物助け合い」であったと記されているが、
正法眼蔵にも
実相世界は仏の拝み合い、助け合い、向上し合いの世界であることが、
つまり仏さまの鳴り響く交響曲みたいなものだと
いう譬えで説かれている。
要するに「神の言葉」は永遠なる運動体であるから、
それに全托できれば“すべてよし”なのである。
さてその全托の仕方であるが、
私のやり方であるが、
神想観中、
「南無実相円満完全大調和」と念じつつ
濡れタオルがくぎにぶらさがっているように
“神の御心”におまかせする。
くぎにあたるのが“神の御心”だ。
ここに“我”の心を入れず全托する。
私の最初の誌友会場主だったO・S講師は
「自分の合掌する中に『実相』があると思っても一向さしつかえはない」とおっしゃったのを思い出すが、
私は昨晩神想観で
合掌した中に実相があると思い、
それを拝みつつ全托した。
私たちは皆、拝み合い、祈り合いして
助け合っている。
私も多くの方々に
この間助けられ、祈られ、守られてきた。
だが最終的に自分の実相を顕現するのは、
自分自身なのである。
自分自身の実相探求である。
自分自身の修行とも言える。
物質にとらわれつかまれる心の傾向から
物質を支配し統御する実相の心へのの旅路は、
そう簡単で楽なものではないが、
その都度神様の助けがあるもので
終着点の素晴らしさは
旅の苦労を楽しかったと
思わせてくれるはずだ。
当ブログが弱い私の長旅の歴史を証明することにつながってくれるならば
これほどうれしいことはない。
金もなく、名誉も地位もなく、
ひたすら存在の探求を続けてきただけであるので、
せめてブログぐらいで
心の痕跡を残し、
人さまのお役に立ちたいものではある。