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ローマ人への手紙

2017-12-30 11:57:22 | 日記
<ローマ第14章>
キリスト者の倫理(12・1-15・13)
互いにさばくな(14・1―12)
3.食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。
4.他人の僕をさばくあなたは、、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。
5.また、ある人は、この日がほかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信をもっておるべきである。

現象に自己はない

2017-12-30 11:25:44 | 日記
私たちは
いつも
現象のことであたふたしている。
でも現象に起こっていることは、
全部自己の心内の表現であり、
良いことが起こっていれば自己の実相の表現だし、
負のことが起こっていれば実相の不自覚の表現だ。
実相を正観すべしということだ。
現象につかまれない習慣をつけていこう。
(参考 正法眼蔵を読む 現成公案の巻 谷口清超著)
<現象に自己はない>
「人、はじめて法を求むるとき」この「法」は現象という意味ではなく、「仏道」「真理」といった言葉の「法」である。はじめて真理、即ち仏道を求めようとするとき、人は自分の外に「真理」を置いて、“それ”を求めようとする。これでは、自分と真理とがバラバラになって別個であるから、「法」の世界からはるかにへだたっている。まるで、手をのばして天空の月を求めようとするようなもので、とても得られる道理がない。
ところが、実をいうと、「真理」は外にあるのではなくて、自分の中にある。つまり「すでにおのれに正伝せり」である。そのことがパッと分るとき、そのままが本分人、即ち“悟った人”ということになる。悟りは自己の中にあるのだが、それを外に求めているところに迷いがある。だから「仏道をならうというは“自己”をならう也」である。

実相独在を信じられるための習慣的訓練

2017-12-30 10:53:21 | 日記
実相独在と
頭で分っていても
信念にまではなかなか行かないと、
おっしゃる方は多いと思います。
実際このことが
大変といえば大変です。
私の体験からこれができる方法論を
お伝えします。
なおこれはほぼ実証ずみですので、
実相超入という奇跡的なやり方でなくても
どなたでも可能かと思います。
1.聖経四部経の一日10回読み(黙読でも可)せめて半年以上
2.神想観一日最低3回(できるだけ基本的神想観、これだと自己治療が可能)
3.最低限の愛行。真理の発信でもいいし、人への愛の行動であれば、何でも可。
これらの行を日常的に継続しているうちに、念が実相ばかりを念うことから、実相独在が次第に信念になってまいります。
(参考 生命の実相第8巻 無限生命に汲む道)
【そこでどうしたらこの絶対健康の自覚を得、絶対健康の意識を生長させうるかと申しますと、(1)自己生命について、神なるその本来の面目を念うことによって、(2)本来の面目“のみ”を念ずることによって、(3)本来の面目のみが存在のすべてであると知ることによって、この自覚は促進されるのであります。この三条件が完全に備わりますと、われらの念は“くるい”なく実相をうつし出し、真理に充たされ、真理そのものを念うのであります。そして念というものは習慣性をもっていて、最もたびたび考えるところのものにいよいよ深く這入り行くものでありますから、この思念の習慣をつづけて行きますれば、われらはいよいよますます真理の方向へ進み行き、実相の世界に属するいっさいの存在をいよいよますます深く意識するのであります。】
こうした実相顕現の行を集中的に行える状態に
身を置くことが稀有なのでありますが、
私は神様のはからいで、
できる状況に置かれ、
魂の救いを得られたわけであって、
神の摂理というものに
頭が下がります。
合掌