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ローマ人への手紙

2017-12-07 11:26:19 | 日記
<ローマ第10章>
イスラエルの救い(9・1-11・36)
イスラエルの不信仰(10・14-21)
(18)しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ
「その声は全地にひびきわたり、
その言葉は世界のはてにまで及んだ」。
(19)なお、わたしは言う、「イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、
「わたしはあなたがたに、
国民でない者に対してねたみを起させ、
無知な国民に対して、
怒りをいだかせるであろう」。
(20)イザヤも大胆に言っている、
「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、
わたしを尋ねない者に、自分を現した」。
(21)そして、イスラエルについては、
「わたしは服従せずに反抗する民に、
終日わたしの手をさし伸べていた」
と言っている。

実在(実相の世界)と一体になるべし!

2017-12-07 11:10:13 | 日記
大調和の神示は
「実在の世界」(即ち実相の世界)に入りなさい、
と教えている。
実在の世界に入ることこそ、
病気治癒は一例だが
あらゆる幸福の満つる国に入るのである。
ところが私が今いる場所自体が、
心を転ずれば実在の世界なのだ。
心を転ずるということは、
心が「愛の心・感謝の心」に
変化すればよいのである。
「天地一切のものに感謝すべし」である。
かくして実在の世界に入るとき、
人は苦しみから唯一逃れることが可能なのだ。

(参考 信仰の科学 谷口雅春 F.ホルムス共著 日本教文社)p258
【悦びは法則がもつ基本的様相である。春ともなれば、樹木の枝々に小さな緑の芽がほころび出す。美しい花が至るところで開花し、小鳥が楽しく囀る。これらは悉く法則の表現なのである。夫婦が仲よく散歩を楽しんでいる時、家族が揃って食卓に著いている時、そこに法則が働いているのであり、実相世界にある歓びが輝き出ているのである。
神から来る天的な悦びは知的な物質的見地から説明することは至難であり、心と霊の見地からのみ説明することが出来るのである。本当に純粋なる悦びの実感とはいかなるものか、具体的に深く自覚しなければならないのである。もしあなたが心の底の本心より湧出して来るところの真の悦びが自覚できないならば、あなたは未だ真理を発見しておらぬのである。それでは未だ真理が霧のベールに包まれているのである。それはあたかも一枚の薄葉の紙の如き絶縁体が、実在の真理とあなた自身の存在との間に介在していて、そのため法則の本質は悦びであるというのに、あなたが未だ真の悦びと感じていないということなのである。そこで、このような隔ての紙は取り去らなければならぬのである。この一枚の紙とは一体何であるか。それは自我であり、合理主義であり、凡そ何にてもあれ法則とは一致せぬところのものであり、あなたが大宇宙全体と一つに融和することを妨げるものなのである。法則それ自体の実相は至純なる天的な法悦なのである。しかし、あなたがもし法則を、一枚の紙のベールを通して観るならば、それはぼんやりとしか現れぬか、或いはちょうど太陽光線がプリズムを通して見られる時の如く、法則の明るさが屈折してしまうことになるのである。かくして法則は歪められた姿を現わすのである。
いかに偉大な哲学者といえども、又どんなに偉大な宗教家といえども、彼が天的な悦びに満たされた人生を送っておらぬ限り真に彼が澄み切った名鏡止水の心境にあるということはできないのである。この世界は神の生命に満たされているのである。もしわれわれが実際に“法則と一体となって存在する”自分を実感し、神の生命そのものと一体となって存在する自分を実感するならば、われわれはただ生きて歩むということがそれ自体悦びであることを痛切に悟らざるを得なくなるのである。真理は天来の神聖なる悦びであり、“実在”以外には何ものも存在しないものである。】