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ローマ人への手紙

2017-12-06 10:58:52 | 日記
<ローマ第10章>
イスラエルの救い(9・1-11・36)
イスラエルの不信仰(10・14-21)
(14)しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
(15)つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
(16)しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
(17)したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。

実相を顕わすには観法が根本行である

2017-12-06 10:26:56 | 日記
道元禅師が正法眼蔵に書いている
この坐禅やるべしの教えは、
そっくりそのまま、
谷口雅春先生の「基本的神想観やるべし」のみ教えとして
置き換えることができるのではなかろうか。
基本的神想観の方法についても
沢山の資料があるのであるから・・・

【(参考 正法眼蔵を読む 弁道話の巻 谷口清超著)
<ひたすら修行せよ>
ところがあにはからんや、この東漸した仏教は、とかく教義の名目や儀式のあり方ばかりが複雑になり、一体何をどのように修行したらよいのか皆目分らなくなってしまった。やれ仏教学とか、宗教学といった教学がのさばり、本来の悟りが雑然たる知識にすりかえられた。しかし、今はもう本書によって正しい仏法を学びうるのであるから、破れ袈裟につぎ合わせた鉢盂(托鉢用食器)といった粗末な生活をして、静かな山奥に小庵を結び、端坐し実相を観じ修行すれば、人間本来仏であることがあきらめられ、さらには仏を越えて無限に向上する境涯が展開され、一生涯をかけた参学の大事がすみやかに実現するのである。これこそ、他ならぬ竜牙(りゅうげ)居遁(ことん)禅師の示されたところの教えであり、迦葉尊者(鶏足)の御遺風でもあるのだ。そしてこの場合の坐禅のやり方は、去る嘉禄3年に私(道元)が帰朝早々撰述したところの『普勧坐禅儀』という本にのっとってやってもらいたい。】

ただ投稿者思うに神想観は
一般人が職業をもち
普通の生活をしながら
神の子・神の国を顕現することが目的であるから、
僧が出家して坐禅を行うのとは
全く異なるところではあるが、
祈りの方法論が完成していて、
それ一つにいのちを打ちこんでいくことによって、
人間本来神の子・本来仏であることがあきらめられる
という点に関してだけいえば、
全く同一のことなのだと思うのである。
信仰に打ち込む時間が現代の人々には足りないということは、
間違いのない事実ではあるが、
それでも観法が実相を顕わす根本的な行法であるということは
正しいのである。