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万教は久遠いのちの流れの中にある

2017-12-14 12:13:42 | 日記
正法眼蔵という道元禅師の仏教書は
全部、実相なるものを
いろいろな角度から説いているもので、
とても興味深い。
聖書も
特に新約聖書のヨハネ伝は
実相を説いているので、
仏教もキリスト教も
奥深いところは生命の実相そのものであるから、
そのような視点で実相を学んでいけば、
久遠いのちの流れの中に
誰もがいることがわかる。

(参考 正法眼蔵を読む 現成公案の巻 谷口清超著)
【<既にある実相>
そこで「現成」とは、本来完全なものがある、既にアルのであり、従ってそれが現れ鳴りひびかざるを得ないということである。「公案」とは公府の安牘(あんとく)。公府とは政府のことで、安牘とは法令のことだ。つまり動かすことの出来ぬ「法則」を「公案」という。従って真理とか法則とかという意味に使う。これも「実相」の一面であり、本来アルところの世界には、動かし難い“秩序”があり、“法則”があり、しかもそれは完全円満である。即ち「実相円満完全世界の法則」という意味が、「現成公案」であり、従って宇宙に遍満する大真理という意味である。それをこれから説示しようというのであるから、事は極めて重大である。】



ローマ人への手紙

2017-12-14 10:59:53 | 日記
<ローマ第11章>
イスラエルの救い(9・1-11・36)
神の計画の実現(11・11-24)
(19)すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。
(20)まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。
(21)もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
(22)神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
(23)しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。
(24)なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。

私の全托の方法

2017-12-14 10:40:35 | 日記
私はだんだんに
全托の実際的効果ある方法を
習得してきました。
自分の切羽詰まった体験と
長い信仰人生の中で
掴みとった方法であり、
他にもこれをやってくだされば必ず効果あると
証明できたことは、
その都度ブログで
お知らせしていきます。
だれにも自分ではどうしようもないほど追いつめられ、
もう現象的な方法では手の打ちようがないような、
ギリギリの追い詰められた状態になると、
神様におまかせすることになり、
完全におまかせ(全托)できた時に、
神は善であり、愛であり、
実相は神の国それ自体、自分は神の子それ自体であるので、
不思議と
神の聖霊の力で、
良い方向に転化するというものです。
私の場合
神想観は普通にやりそれがある程度深まったら
途中から
「南無実相円満完全大調和」という言葉を
念じるのです。
仏教の「南無阿弥陀仏」とか
「南無妙法蓮華経」と
同種のものですが、
これの生命の実相版だと思ってください。
この「南無実相円満完全大調和」と念ずる際に
合掌したその合掌の中に
「実相」が存在し
その「実相」を「神のみ心」だと思って
その「神のみ心」に無我全托するのです。
「ままよと思わねばおかげは得られぬ」と言われるように、
ここで我(が)の心がはいり、
病気が治りたいとか、
結果の良くなる状態を描いてはいけないのです。
結果についてどうであろうとも神におまかせするのです。
それだから「全托」というのです。
そして濡れタオルが釘にぶら下がるように
合掌した手の中の実相を拝みつつ、
「南無実相円満完全大調和」と念じつつ、
実相に全托します。
私はこのやり方で
全托ができるようになりました。
なお私はこうした方法を自分で編み出したのではなく、
生命の実相その他の
数多くの光明思想の本を読んで覚えていることや、
本部講師、地方講師先生方のおっしゃった言葉を思い出して、
工夫しながら次第に獲得していった方法なのであることを
つけ加えておきます。

実相独在の信念が体を楽に動かしてくれる

2017-12-14 10:00:01 | 日記
「感覚は信念の影を過ぎず」というように
今日は体調が良い、悪いとか、
あの人は良い人だとか間違っているとか、
こうしたことはみんな、
自分の信念の影です。
だから信念を変えればよい訳で
この為には聖典や聖経を長い間に
徹底的に読みこんでいくとか、
神想観を怠らない必要があるわけで、
つまり信念が変わればよいわけで、
あせらず地道にやっていけば良いのです。
聖経『続々甘露の法雨』にも
「物質がみずから進行し得ざるが如く
肉体的病気もみずから進行し得ざるなり。
物質が動くは、
心又は心が設計したる力にて動くなり。
肉体的病気の進行も心の力に依るものなれば、
心の力にて肉体的病気の進行を止(とど)め、
更にその働きを「無」にまで粉砕することも
亦可能なり。」
とあります。
聖経、聖典の継続的な読みによって
普段の状態においてでも
「ああ、自分は神の子なんだ、神のコトバなんだ」と
思えるようになるにつれて
肉体の状態のことを気にしないで済むようになり、
活動範囲も広がってきます。
つまり元気になってくるわけです。
ここが神の国であり、
自分がロゴス(神のコトバ)であり、
現象は本来ナイんだと思えば
その信念が体を楽に動かしてくれるのです。
こうした生命の実相哲学というものがあることを知らずに、
毎日体調の変化を気にしていて
改善できる本当の方法あることを
ほとんどの人は知らないことを、
私は残念に思いますので、
ブログにて
お知らせできればうれしいと
思っております。