今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

続:湊川神社が創建された日

2008-05-24 | 歴史
尊氏没後、室町幕府は、北朝の正当性を強調する中、後醍醐天皇の為に戦って殉じた正成は当時逆賊として扱われていたろうことは想像できる。以下参考に記載の「文芸ジャンキー・パラダイス【 あの人の人生を知ろう ~ 楠木 正成 】 によれば、正成の首は一時京都六条河原に晒されたが、死を惜しんだ尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられた。尊氏側の記録(『梅松論』)は、敵将・正成の死をこう記しているという「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」・・・と。正成終焉の地・湊川にあった小さな塚ともいえる墓は永らく荒廃していたが、彼の死後300年近くたった江戸時代には、摂津尼崎藩の第2代藩主青山幸利によって五輪の石塔も建てられていたようだ。
湊川神社本殿の西側奥には、「史跡楠木正成戦没地」の碑があるここが、自刃した場所と言われている。表門を入った東手前には、元禄5年(1692年)になり、徳川光圀が「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑と、それを建立した徳川光圀の像がある。しかし、光圀がここに来たわけではなく、この碑の建立の提案又、工事の監督を指揮したのは水戸黄門に出てくる助さん(佐々木助三郎)こと佐々宗淳(佐々介三郎とも)だといわれている。
『太平記』の現存流布本は全40巻があるが、以下参考に記載の「太平記・国民文庫本・全巻」で読める(原文に読み仮名付きのものあり)。この中で、湊川の戦いは巻第16○正成下向兵庫事から○正成兄弟討死事に書かれている。この作者・成立時期は不詳であるが、14世紀中ごろまでには後醍醐天皇の崩御が描かれる巻21あたりまでが編纂されていたものを増補・改訂されてゆき、応安2年(1370年)ころまでには現在の40巻からなる太平記が成立したと考えられているが、室町幕府3代将軍足利義満や管領細川頼之が修訂に関係していた可能性も指摘されている。内容は、一貫して南朝よりであるのは、南朝側の人物が書いたとも南朝方への鎮魂の意味があったとも推測されており、「ばさら」と呼ばれる当時の社会風潮や下剋上に対しても批判的に書かれているようだ。全体の構想にあるのが儒教的、仏教的思考が基調に有り、宋学の影響を受けたとされており、後醍醐天皇は作中でを欠いた天皇として描かれるが、光圀は修史事業として編纂していた『大日本史』において天皇親政をめざした後醍醐こそ正統な天皇であると主張。これにより足利尊氏は逆賊であり南朝側の楠木正成や新田義貞などは忠臣として美化された。徳川将軍家は新田氏の末裔を称しており、光圀も又徳川家の一族に過ぎない。そのようなこともあり、大楠公建碑の着手にもかかわったのだろう。
以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬され、幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至り、慶応3年(1867年)、尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。これが、後の太平洋戦争前の皇国史観へと至るのである。
「桜井の別れ」など太平洋戦争で敗戦するまでは、日本の国語及び修身の教科書に必ず掲載されており、忠臣楠公の美徳が教育されて生きた。
(画像は、昭和36年当時の湊川神社。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
湊川神社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE
楠木正成
http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kr/kr02/kr02003.htm
いざ兵庫・湊川へ、楠正成の戦い
http://www.ten-f.com/masashige.html
小さな資料室資料(208 朱舜水「楠公碑陰記」
http://www.geocities.jp/sybrma/208syusyunsui.nankouhiinki.htm
幕末最後の天皇「孝明天皇 」誕生日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/c0cb66e24709889767d2035fc54e5799
いざ兵庫・湊川へ、楠正成の戦い
http://www.ten-f.com/masashige.html
会下山公園と桜
http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/egeyamakouen.htm
太平記・国民文庫本・全巻
http://www.j-texts.com/sheet/thkm.html
梅松論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%9D%BE%E8%AB%96
芝蘭堂◆ 軍記で読む南北朝・室町 ◆
http://homepage1.nifty.com/sira/index.html
文芸ジャンキー・パラダイス【 あの人の人生を知ろう ~ 楠木 正成 】 
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic27.html
南北朝の写真
http://sky.zero.ad.jp/~zac28831/syashin-m2.htm
六条河原 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F
皇国史観 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3
修身教科書
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/siso/shushin.html
【換暦】暦変換ツール
http://maechan.net/kanreki/

一高生・藤村操が『嚴頭之感』の文を残し華厳の滝で投身自殺した日

2008-05-22 | 歴史
1903(明治36)年の今日 (5月22日)一高生・藤村操(ふじむら みさお)が『嚴頭之感』(がんとうのかん)の文を残し、日光華厳の滝で投身自殺をした。
華厳の滝近くの楢(ナラ)の大木の幹を大型ナイフで削って書き付けられた『嚴頭之感』全文は以下の通りである。
「悠々なる哉(かな)天壌、遼々(りょうりょう)なる哉古今、五尺の小躯を以て此の大をはからむとす。ホレーショの哲学、竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉(つく)す。曰く「不可解」。我この恨(うらみ)を懐(いだい)て煩悶終(つい)に死を決するに至る。既に厳頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。」 
日清戦争後、三国干渉による遼東半島返還の勧告を受諾した政府に対して世論は激しく反発。政府は臥薪嘗胆をスローガンに、これを対敵対心に振り向けて軍拡を進めた。論壇の雄・徳富蘇峰も、三国干渉に衝撃を受け、平民主義から強硬な国権論・国家膨脹主義に転じ、「富国強兵」の尖兵となって国民精神を鼓舞した(以下参考に記載の「※平民主義」参照)。
青年は列強に屈することのない強さを求め、尚武に名をかりた蛮風(野蛮な風俗。粗野な習慣、)が街には溢れ、そんな「バンカラ」は美少年を好み、黒木綿の紋付や薩摩下駄を着用した。薩摩隼人の人気は大変なもので、東京でも薩摩弁が使われるようになったという。一方、そんな当時の憂国の情に反発したのが「ドースル連」と呼ばれる青年の鬱屈した行動であったという。これらの青年は、満たされぬロマンチシズムの香気を、当時流行の娘義太夫が物語る情痴の世界に酔い痴れることで満たそうとし、娘義太夫目当てに寄席を梯子して回ったという。当時、娘義太夫の日本髪が熱演のあまり乱れ、内容が佳境にさしかかると、客席のいる書生らの熱心な見物から、「どうする、どうする」と声がかかった。このことから、そうした見物を「堂摺連=どうするれん」と呼んだ。特に激しい者は手拍子を打ち、茶碗の底を擦り合わせて騒ぐほど熱狂したという。旅順を攻略したことで知られる乃木希典は青年の怠惰な風潮が軍隊にも蔓延したことを憂い、山鹿素行の著作などから武士道の復権を説いたという。
自殺した時、満16歳10ヶ月(数え18歳)であった旧制一高(現:東京大学の前身)の学生であった藤村操は、そのような世情の中で 『嚴頭之感』の文を残して、華厳の滝に身を投じたのである。
この藤村自殺は「天人論」(以下参考に記載の「※黒岩涙香」を参照)を説く、『萬朝報(よろずちょうほう)』の創設者黒岩涙香 により、「我国に哲学者なし、この少年に於て始めて哲学者を見る。いな、哲学者なきにあらず、哲学のために抵死(ていし)する者なきなり。」(「少年哲学者を弔す」)・・・と、わが国初の哲学的自殺と紹介された。藤村は一高でも評判の「早熟秀才」であったようで、当時の一高同窓生はその死に、とりわけ大きなショックを受けたという。藤村の友人などの藤村への回想などは以下を参照されると良い。
日本ペンクラブ 電子文藝館・招待席・主権在民史料・藤村 操
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/essay/fujimuramisao.html
彼の書き残した『嚴頭之感』の名調子が、たちまち同時代及び後世の青年の心を深く捉えた。厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出。多くは警戒中の警察官に保護され未遂に終わったが、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者が185名(内未遂が40名)にのぼったという。藤村の自殺以降、日光の華厳の滝は自殺の名所となる。実際に藤村の遺体が発見されたのは彼の後に、この滝で自殺した早大生の遺体捜索の最中であったという。華厳の滝、熱海の錦ヶ浦などが多くの若者の命を飲み込み、それとともに観光名所としても全国に有名になったという。
彼の墓所は東京都港区の青山霊園にあり、藤村家墓地の右手に、「藤村操君絶命辞」碑がある。
藤村操が楢の大樹にナイフで削って書き付けた「巌頭之感」は、当局の手で抹消されたそうだが、その直前に、墨書したものを地元の写真館が写真に撮り、絵葉書として売り出したところ、飛ぶように売れたそうだ。事件の影響を恐れた当局は、ネガを没収し絵葉書を販売禁止にしたが、写真は既に雑誌(国木田独歩が編集を担当していた「東洋画報」明治36年7月発行と推定される)に掲載されてしまったあとだったという。平岩昭三著『検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』が、不二出版から2003(平成15)年に出ていて、「東洋画報」に掲載されていた巌頭之感と藤村操の写真がされているという。(以下参考に記載の「小さな資料室資料2 藤村操の「巌頭之感」」参照)。
夏目漱石は当時、一高で英語講師をしており、藤村はその教え子であった。彼の死は、漱石の精神にも大きな打撃を与えた。漱石は自殺直前の授業中、藤村に、「君の英文学の考え方は間違っている。」と叱っていた。この事件は漱石が後年、鬱(うつ)病となった一因とも言われているそうだ。
文中に出てくるホレーショは、シェイクスピアの戯曲「ハムレット」に登場する人物(友人)。
ハムレットが、「君なんかには分からない事もあるんだ」とホレーショに言うくだりがあるそうだ。確かに青年達にとっては、いつの世も人生は「不可解」なものなのであろう。ただ、朝日クロニクル「週刊20世紀」にに記載されているところによると、”藤村の自殺は、果たして、「哲学的自殺」か「失恋自殺」か、現在に至るも論争は絶えないようだ。自殺直前藤村は、恋人といわれる同郷の馬島千代さん宅を訪れ、手紙と高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)の『滝口入道』の本を手渡したそうで、手紙には、本に書き入れた傍線をよく読んで欲しいとあり、本には傍線数箇所、謎めいた書き込みもあるのだが、本音は結局よく判らない”という。同記事と共に掲載されている写真を見ると、非常に理知的な美人である。以下参考に記載の小さな資料室資料2 藤村操の「巌頭之感」でも、この女性のことについても触れているが、彼女は”東京工大名誉教授、崎川範行さんの御母堂で、「操より一つ年上だった。」「本郷の屋敷から人力車で麹町の女子学院に通う千代さんと、神田方向から一高に通う操とは道すがらあいさつを交わし、時折、操が手紙を手渡すような間柄だった。いわゆるプラトニックラブなのだが、年上の千代さんには、とても本気になれるような恋ではなく、操の気持ちがから回りしていたようだ。」・・・とある。
哲学などに興味を持つ頭の良い青年が、熱烈に愛した人への想いが叶わないことに気付く、煩悶の後、人生は観念だけではなく覚悟である。生きる覚悟の無い者は、真理をさとりながらも”終(つい)に死を決する”、そして、『嚴頭之感』最後の文中にあるように”既に巌頭(滝)に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、「大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。」”・・・となったのであろうが、青年期に特有の死への憧憬は誰もが経験するところであろうが、2年前に今年の漢字「命(いのち)」でも触れたように、「命(いのちを)」を与えられ、生かされている人間はその、「命」の尊さをよく学び、粗末にすべきではないだろう。
以下参考に記載の「純粋の経験Bと日本の哲学・藤村操」はNexをくってゆくと、当時の新聞記事〔1〕〔2〕ホレーショの哲学など詳しく書かれているよ。
(画像は、華厳の滝と藤村操。朝日クロニクル「週刊20世紀」)
参考:
藤村操 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%93%8D
小さな資料室資料2 藤村操の「巌頭之感」
http://www.geocities.jp/sybrma/02hujimura.htm
※平民主義
http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q214L200.HTM
日清戦争開戦 【東学党の乱と朝鮮改革交渉】
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/kokubou004.html
女義太夫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%BE%A9%E5%A4%AA%E5%A4%AB
武士道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93
黒岩涙香 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B2%A9%E6%B6%99%E9%A6%99
※黒岩涙香
http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/K/kuroiwaruiko.html
ホレーショの哲学
http://blog.goo.ne.jp/kamino-m/e/d66fff96451dccffbb174f3102d6ad54
自殺の名所 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA%E3%81%AE%E5%90%8D%E6%89%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9C%A8%E7%94%B0%E7%8B%AC%E6%AD%A9
Hugo Strikes Back!: 藤村操と夏目漱石
http://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/2004/11/post_82.html
高山樗牛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B
純粋の経験Bと日本の哲学・藤村操
http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site37/hujimu1.htm
綺堂事物 明治芝居風俗 女義太夫 寄席
http://hansichi.hp.infoseek.co.jp/contents/fuzoku01.html

森林の日(もりの日)

2008-05-20 | 記念日
日本記念日協会のを見ると今日(5月20日)の記念日として「森林の日(もりの日)」があった。
注釈によると、"岐阜県美並村等村名に「美」の字がつく村10村で結成した「美し村(うましさと)連邦」が制定。5月は「森林」の中に「木」が5つ入っていることから、20日は「森林」の総画数が20画であることから。"・・・とか。
かって、竹下登内閣が行った政策のひとつに「ふるさと創生事業」があり、1988(昭和63)年から1989(平成元)年にかけて、全国の市区町村に対し1億円を交付したことがある。正式名称は「自ら考え自ら行う地域づくり事業」・・・であった。同事業のための地方交付税について、その使い道については、地方交付税法第3条により、条件をつけるのは禁止されているのに「ふるさと創生」のために交付するのは問題なのではなどといった問題が指摘されもしたが、受け取った各自治体は、地域の活性化などを目的に観光整備などへ積極的に投資し、経済の活性化を促進したところも多い。
そんな、1989(平成元)年、村名の頭に「美」が付く全国10村(・岐阜県美並村 他、・茨城県美和村、美浦村 ・長野県美麻村 三重県美里村、美杉村 ・和歌山県美山村 ・岡山県美甘村 ・徳島県美郷村 ・愛媛県美川村)が「全国美しい村サミット」を開いて交流を深め、1999(平成11)年に連邦を発足。 10村は毎年、持ち回りで会議を開き、豊かな自然の保護や過疎、高齢化対策をテーマに活動。森林交付税(仮称)の創設を国に要望したりなどしてきたが、2003(平成15)年10月3日茨城県美和村で最後の会議を開き解散した。それは、美浦村以外のすべての美しい村は平成の大合併に飲み込まれた形で消滅してしまったからだ。連邦発足当時の「全国美しい村友好姉妹村提携盟約書」 や10村がどんな村でその後、どうなったかなど以下に記されている。
全国美しい村友好姉妹村提携盟約書
http://blogs.yahoo.co.jp/umino_takashi/37699132.html
goo国語辞書によれば、”森林は、多数の高木が広い範囲にわたって、枝と枝が接するように密生している所をいい、「もり」ともいう。「もり」は、「森」とも「杜」とも書くが、特に、神社をかこむくこんもりと生い茂っった木立をなどをいい。森林法上は、集団的に生育している、樹木や竹等とその生育に供されている土地を包括していう。”又、”林は樹木がたくさん群がって生えている所。樹木の群落。「森」にくらべて、木々の密集の度合が小さく、小規模の群落をさすことが多い。”・・・とある。そして、農林水産省は、”人工的なものを林、自然にできたものを森と定めている”ようだ。
いろいろと区別をしているが、これらを総合した上で、林と森の違いを言い換えれば、「林」は、人工的に同じ種類の木が沢山生えている所。「森」は色んな種類の木が自然に沢山密集して生えている所と考えて良いのだろう。
これらの自然林「森」は、放っておいてもそう問題は無いが、日本の森林の3分の2は人工林だとも言われており、このような人工林は人が手入れをしないと荒廃してしまう。
1997(昭和52)年12月京都市で開かれた地球温暖化防止京都会議(第3回気候変動枠組条約締約国会議、COP3)での議決した議定書京都議定書)では、2012年までに日本の二酸化炭素(CO2)の排出量を1990(平成 2)年の水準より6%削減することを約束している。そのうち3.9%を日本国内の森林による二酸化炭素の吸収量で達成しようとしている。しかし、日本では手入れが行き届かない森林の荒廃が進んでいるため、今のままでは、京都議定書の二酸化炭素削減目標達成が危ぶまれている。そのため、林野庁においては、2005(平成17)年度から国民運動として「木づかい運動」の取組みを開始し、国産材の積極的な利用を通じて山村を活性化し、二酸化炭素をたっぷり吸収する元気な森林づくりを進めようとしていることは以前に10月8日木の日でも書いた。
「国破れて山河あり」・・・という言葉がある。
これは、中国盛唐の詩人杜甫 の代表的な五言律詩『春望』の最初の一句である。「国破山河在 / 城春草木深 / 感時花濺涙 / 恨別鳥驚心 …」と続く。
これは安史の乱により、世の中が崩壊していくのをまざまざと体験した頃の杜甫の悲しみに満ちた詩であり、「国破れて山河あり」は、「長安の都(国)は戦乱のために破壊されてしまったが、自然の山や川は昔のまゝ残っている」・・・といった意味であるが、今の時代は、「国破れて山河あり」ではなく「国栄えて山河なし」・・・の状況といえるのではないか。
林業が盛んな時代には、お金を儲けるという経済行為によって人工林の杉や桧を副次的に維持すること出来たが、工業技術も進化し、昔のような木材一辺倒ではなく建築用材も多様化した上に、木材そのものも外国から安い外材が入ってくるようになり、林業は経済的に成り立たなくなった。
世界の森林面積は、地球環境の健康状態を見る主要なバロメーターであるといわれているが、地球温暖化等の環境問題も発生し、日本だけではなく世界中の森林が荒廃している。
「森林の日」を制定した「美し村連邦」の「全国森林環境・水源税(仮称)の創設に向けて」の趣意書には、”今日、国・地方ともに危機的な財政状況から、公共事業や地方交付税の削減などが行われてきている。森林、山村地域の市町村に残された税財源は、「森林の持つ公益的機能に対する新税の創設」しか想定できない。森林の有する公益的機能に着目し、水(飲料水、工業用水及び水力発電)や二酸化炭素排出源(化石燃料等)等を課税客体とし、全国民が負担をする国税(間接税)による新たな財源を創設し、森林、山村地域の維持発展を担う市町村の財政に寄与するための制度を実現していかなければならない。”・・・として、「全国森林環境・水源税」(仮称)を提唱している。
この提案は、いまだ、実現されていないようだが、豊かな森は我々の命をつなぐ水のためにも必要であることは間違いない。
5月からの、ガソリン税の暫定税率復活後、暫定税率を廃止するか一般財源化するかなどについて、与野党が対立しているが、これについて、石原慎太郎東京都知事が、5月2日の定例会見で、道路特定財源の一般財源化について「軽油と同じように引取税にして地方の税源とし、使い方は地方の裁量に任せた方がいいのではないか」と述べ、道路特定財源を地方に税源移譲すべきだとの考えを示している。私もそのような意見には基本的には賛成であるが、「道路の為に集めた税金を、別なものに使うのであれば、暫定税率を廃止すべき」との主張も正論であり、また、ガソリンなどのエネルギーの使用が、環境問題を悪化させる要因になっていることもあり、一般財源化して、日本の国の環境問題を解決するための財源に使用することも1つの方法ではないかとも思う。本来もっと早くから長期的な視野にたって対応していなければならないものを、政治の無策から放置されていたために、国としてのエネルギー確保の問題や食料自給問題、環境保全問題、ほか少子高齢化による年金や保険問題などがここに来て一気に噴出してきた感じである。長期政権のなか胡坐をかき、その場限りの場当たり的な政策、税金の無駄遣いをしてきた政権政党自民党や公明党の責任は大きいが、野党も責任を逃れられる問題ではない。税金を好き勝手に使っている行政の改革も含めて、税制そのものを基本的に考え直さなくてはいけないだろう。しかし、最近は、強者と弱者がはっきりとしてきた。あくまで、弱者をいじめるような税制度は導入しないようにしてもらいたいものだ。
森林の生き物、森林の環境、森林資源の利用、森林の管理と経営、地球環境などのことについては、以下を見られると良い。
森林総合研究所 Q&A
http://www.ffpri.affrc.go.jp/QandA/
(画像は、森林。フリー百科事典Wikipediaより)
森林 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9E%97
22世紀の森づくり・神代
http://www.fagus.jp/~jindai22/
美並村 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%B8%A6%E6%9D%91
ふるさと創生事業 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E5%89%B5%E7%94%9F%E4%BA%8B%E6%A5%AD
合併でユニーク連邦解散
http://www.47news.jp/CN/200310/CN2003100301000041.html
森林と木と人の情報総合サイト
http://www.zenmori.org/index.shtml
J-FICに本林業調査会・林業公社
http://www.j-fic.com/workbench/glossary/index.php/%E6%9E%97%E6%A5%AD%E5%85%AC%E7%A4%BE
私立PDD図書館
http://209.85.175.104/search?q=cache:k-aPDV9QuVAJ:www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/japanese/uha.htm+%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%9D%91%E3%82%B5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88+1989%E5%B9%B4&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp
日本記念日協会・今日の記念日・5月20日
http://www.kinenbi.gr.jp/
独立行政法人 森林総合研究所
http://www.ffpri.affrc.go.jp/index-j.html
森林整備法人の1兆2115億円の借金!!何故ここまで放置されたのか
http://blog.goo.ne.jp/kzuo007/e/d0e0bcc3a85e708a6442cf28d1bfa46a
杜甫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E7%94%AB
農林水産省/ホームページ
http://www.maff.go.jp/
林野庁/ホーム
http://www.rinya.maff.go.jp/
※森林法
http://www.houko.com/00/01/S26/249.HTM
古くて新しいガソリン税等石油の税金の話
http://www.kakimi.co.jp/2k6060.htm
道路特定財源制度 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E8%B7%AF%E7%89%B9%E5%AE%9A%E8%B2%A1%E6%BA%90

国際親善デー

2008-05-18 | 記念日
日本記念日協会の今日の記念日を見ると5月18日の今日は「国際親善デー」とある。
1899(明治32)年の今日、オランダのハーグで、ロシア皇帝ニコライ2世の主唱により26カ国が参加した第1回平和会議が開催。国際紛争平和的処理条約が結ばれたのを記念して、この日を「国際親善デー」とした。日本では1931年から実施され、国際交流を通して平和を実現するという目的のもと、さまざまな催しが行われている。 ・・・とあった。
しかし、どのようなことが行われているのか蔵書の朝日クロニクル「週刊20世紀」や「毎日ムック・戦後50年などを見ても特に何も行事があったようなことは掲載されていない。一体誰が?どんな機関が記念日登録したのであろうか?先ず、ロシア皇帝ニコライ2世と第1回平和会議について、見てみよう。
ロシア帝国皇帝ニコライ2世は1894年11月1日、父アレクサンドル3世の突然の死去にともない、26歳でロシア皇帝に即位した。彼は、民主主義を否定するコンスタンチン・ポベドノスツェフの教育に多大な影響を受けていた。ロシア帝国はまだ産業革命の以前にあったが、絶対君主制に反対する勢力は根強く、この反体制運動に対し彼は常に弾圧策で臨んだ。彼は初め、父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任(1903年まで)し、国家が市場に積極的に介入する経済政策を採用。フランス資本を中心とする外資の積極導入を図るなどし、工業化を推進してロシア経済の近代化につとめた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891年にフランスと結んだ協力関係を1894年露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア・ハンガリー帝国フランツ・ヨーゼフ1世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催をみずから提唱した。万国平和会議は、オランダのハーグで2度開かれ、第1回会議は1899年に、26ヵ国が参加して開催された。この会議ではハーグ陸戦条約が採択され、国際仲裁裁判を行う常設の機関である常設仲裁裁判所の設置などに関する条約(国際紛争平和的処理条約)も締結された。ダムダム弾使用禁止も決められた。
当時の日本は幕末の動乱をへて、江戸から明治(1868年=明治元年)の時代へと移る。薩長倒幕派を主力とする維新政府は天皇が国家の根軸であり、権力の主体であることを説き、万邦に対峙しうる独立国日本に基盤を固めて行く。そして、明治2年には東京へ実質的な遷都をし、ヨーロッパの諸制度に学び改革を進めてゆく。そんな中で征韓論で下野した西郷隆盛との西南戦争で反政府士族を一掃、西郷自刃によって1877(明治10年)年9月内戦が終了し、万国に対峙しうる政府の起立を目指す。1881(明治14)年の明治14年の政変で基盤を固めなおした政府は、内閣制度を発足させ、1889(明治22)年2月11日には大日本帝国憲法を発布して近代化を実現させた。当時、欧米列強にとっては、他国領土の切り取りは思うがままであった。そんな中で、重工業の発展、富国強兵への道は止むを得ない面もあった。そんな中、1884(明治17)年12月李氏朝鮮京城でクーデター。日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立を狙う、親日派の改革派が挙兵するが事件はの介入で失敗。金玉均が日本に亡命(甲申事変参照)。翌1885(明治18)年4月清国に特派の伊藤博文全権大使が中国の天津において天津条約を調印。日本、清国双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などが取り決められた。これから10年後、この事前通告に基づき清に続いて日本が朝鮮に派兵し、日清戦争(1894年7月~1895年4月)の火蓋が切られることとなる。この戦争で勝利した日本は日清戦争の講和条約である下関条約で清から割譲させた遼東半島をめぐって、ロシアはドイツ・フランスと手を組み日本に圧力をかけ、遼東半島獲得を日本に断念させた。
ロシアは極東進出のためにどうしても不凍港が必要であり、南下政策を取り満州における権益拡大をはかっていた。ロシアは遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れ、日本の極東進出阻止を目論んだのである。当初、日本が朝鮮の独立を尊重するならば日本が中国を占領してもよいと考えたが、ヴィッテは極東に艦隊を派遣するなど干渉に乗り出した。そして、同じく中国の分割に関心をもつイギリス、フランス、ドイツの3国に提唱し、仏・独の賛成を得て3国による勧告を行い、日本に遼東半島の返還をさせたのである。(三国干渉)。
この三国干渉は、近代日本が外交的にうけた最大の屈辱であった。日本の世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無かった。この苦い経験が、早く一等国の仲間入りをし、この屈辱をなんとしてでもはらそうと考え、富国強兵に拍車をかけることとなった。「臥薪嘗胆」をスローガンに耐え忍び、やがて来るであろうロシアとの戦いに備え国力を蓄えたのである。
1902(明治35)年、日英同盟が締結され、日本は外交的孤立から脱出。しかし、1900(明治33)年に起きた義和団の乱(北清事変ともいう)以来、ロシアは東清鉄道(東支鉄道)と長春旅順を結ぶ南満州支線(後の南満州鉄道)を完成させ、軍隊を満州東三省に永駐させる形勢を示していた。
そこで発生したのが龍岩浦事件である(以下参考に記載の「第一次大戦」の龍岩浦事件参照)。この事件に対応して、無隣庵会議(以下参考に記載の「第一次大戦」の無隣庵会議参照〕が開催され、ロシアが満韓交換論(以下参考に記載の「近代日本戦争史概説」の日露戦争 概説1参照)に応じることなく、朝鮮に軍事的地歩を占めるとすれば、日本は開戦を辞さないことが決められた。
そして、日露戦争(1904年〔明治37年〕2月6日 - 1905年〔明治38年〕9月5日〕)が勃発。ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大。1905(明治38)年1月9日には血の日曜日事件が起きる。これは、日本軍の明石元二郎による内部工作が発端となったといわれている。
工業化を推進し、ロシア経済の近代化につとめたヴィッテ自身は、専制政治を志向してはいたが、一方で現実的な保守主義者でもあり、故にあくまで王権神授説を奉ずるニコライ2世やその側近と齟齬(そご)をきたしていた。ニコライはそんなヴィッテを退け、ベゾブラーゾフという軍人を取り立てて極東政策を推進した。首相となっていたヴィッテは、ニコライ2世らが日本との戦争によって国内の不満をそらそうとしたことに対し、反対した。しかし、政敵であった内相プレーヴェや強硬派のベゾブラーゾフらの策動によってこの主張は退けられ日露戦争を招いた。
日本は、日本海海戦で勝利したとはいえ、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。日露戦争が実質的に日本の勝利に終わると、ヴィッテは、講和のためアメリカのポーツマスにロシア側全権として赴き、交渉に当たった。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905(明治38)年10月に締結されたポーツマス条約により正式に講和した(日露講和条約の締結)。この時、ヴィッテは外交官としても手腕を発揮して日本側を翻弄、賠償を最小限に留めることに成功している。
万国平和会議はオランダのハーグで2度開かれている。1度目は先に書いたが、第2回会議はジョン・ヘイアメリカ合衆国国務長官が提唱して1907(明治40)年に開かれた。ハーグ陸戦協定が改定され、中立法規なども決められた。
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続:国際親善デー

2008-05-18 | 記念日
そもそもこの会議の唱者者はロシアのニコライ2世によって、はじめられたが、拡張主義を押し進めたロシアが、このような平和会議の積極的な推進者であったということは、軍拡競争による財政負担に苦しんでいたことを示しており、これは他の列強各国も同様の事情があったからであった。
ハーグでの万国平和会議によって採択された陸戦条約は、交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されている。現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多いが、最も根源的な戦時国際法として、基本ルールに則って正々堂々と戦争を行うよう規定している。云わば「戦争のルール」で、日露戦争等のごく限られた戦争ではルールに沿って整然と行われていたものの、第3回会議を8年以内に開くことが勧告され、1915(大正 4)年に開催の予定だったが、第一次世界大戦の勃発を阻止することもできず会議は実現せず以降開催されていない。
また、その後、スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)から第二次世界大戦、ゲリラ戦術や途上国の戦闘などで凄惨な戦争が生じ、その精神は破られて、一向に遵守される様子もなかったが、これらの経験は国際連盟などの平和的機関に受け継がれることにはなった。
日本に関連するものとしては、ハーグでの第2回目の会議中に起きたハーグ密使事件がよく知られている。
日露戦争勃発後、日本は、戦局が優位に進む中、1905年4月に韓国保護権確立を閣議決定、7月29日には、アメリカとの間で、桂-タフト協定を結び、アメリカのフィリピンでの権益を認める代わりに朝鮮での権益を認めさせ、8月には第2回日英同盟を締結し、ロシアの南下に対抗する拠点として朝鮮支配の確約を得た。列強の支持を取り付けた日本は、日露戦争勝利後、11月17日第二次日韓協約を締結し、大韓帝国の外交権を剥奪し、日本の実質的な保護国としていた。一方、これらの動きの中で朝鮮国王・高宗が秘密裏に特使を派遣し、1905年に締結された日韓保護条約の無効を会議場で訴えることを計画したが、列国は既に日本の権益を認めていたために大韓帝国はすでに外交権を接収されていたとの理由で参加を認めなかった。この事件により、日本の意を受けた李完用などの勢力が、高宗の退位へと動いた。そして、第3次日韓協約を締結して韓国軍を解散させた。
前近代の東アジアの世界の中心は中華帝国であった。その中で、独立を保ってきた日本とは異なり、1392年に建国された李氏朝鮮王国は一貫して中国を中心とする国債システムの中に組み込まれ「本家」にたいする従属する関係を強いられていた。しかし、こうした関係が、日清戦争を機に大きく変った。朝鮮の独立が名実共に認められたからである。そして、東アジア世界には、中華帝国、大日本帝国、大韓帝国の3つの「帝国」が出現し、互いに独立を主張しあう状況が生まれた。しかし、めまぐるしく動く世界情勢の中で、東アジアに3つの帝国が共存しあう時代は10年と続かなかった。1910年に日本の韓国併合、1911年の辛亥革命による中華帝国の滅亡は、生き残った日本が、東洋に押し寄せてくる西洋列国に飲み込まれないためにも、文字通り、唯一アジアの帝国として、西洋列国に対抗するためにも、大陸に向かって領域を拡大してゆかざるを得なかった面もあったように思われる。それが、結果的に以後の第二次大戦の悲劇に巻き込まれることになるのだが・・・。
肝心の表題の「国際親善デー」について、日本では1931年から実施され、国際交流を通して平和を実現するという目的のもと、さまざまな催しが行われている・・・といったことについてはよくわからなかった。
(画像は、1864〔元治元〕年9月〔旧暦8月〕英、米、仏、オランダの4国連合艦隊が、長州の赤間ケ関〔馬関=下関〕砲台を攻撃。上陸して砲台を占領したイギリス兵。前年、薩摩や長州が主張してきた攘夷の実行は、先ず不可能と判明する。列強に追いつくにはどうすればようのか。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
ニコライ2世-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A42%E4%B8%96
陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約(ハーグ陸戦条約)
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/haug.htm
国際紛争 - naow
http://www.wikiroom.com/naow/index.php?%B9%F1%BA%DD%CA%B6%C1%E8
国際法を学ぼう
http://www4.ocn.ne.jp/~tishiki/kokusaihou.html
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%A5%9E%E6%8E%88%E8%AA%AC
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http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html?
坂の上の雲 > 秋山好古 > 第六章 > 第二 平和会議
http://sakanouenokumo.hp.infoseek.co.jp/yosihuru_denki6_2.htm
甲申政変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E7%94%B3%E6%94%BF%E5%A4%89
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極東 - Wikipedia
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F
日露戦争と日韓保護条約(乙巳条約)
http://toron.pepper.jp/jp/kr/textbook/nichiro.html
押し付け憲法論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E3%81%97%E4%BB%98%E3%81%91%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%AB%96
一進会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%80%B2%E4%BC%9A
社会奉仕(ロータリー財団)
http://www.kamojima-rc.jp/r_2/rotary2_3aaa.html