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初代「ミスタータイガース」と呼ばれる藤村富美男 の忌日

2008-05-28 | 人物
今日(5月28日)は初代「ミスタータイガース」と呼ばれる藤村富美男 の1992(平成4)年の忌日。
藤村富美男は、 1916(大正5)年8月14日、広島県の出身。初代「ミスタータイガース」として知られている。タイガースの黎明期を支え、また戦前から1950年代までのプロ野球創成期を代表するスター選手であった。かっての常勝南海を築いた鶴岡親分又、初代ミスターホークス、ドン鶴岡とも呼ばれた鶴岡一人と同学年で呉市のすぐ隣の小学校に入学。大正中学2年(5年制)、14歳で早くもエースとなり、春夏の甲子園に6度出場。エース兼主砲として活躍。藤村のワンマンチーム的な大正中学であったが、呉港中学(現:呉武田学園呉港高等学校)に校名変更した翌1934(昭和 9)年夏の選手権では、田川豊塚本博睦らを擁し、高い総合力で全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇を果たした。決勝では藤村が熊本工業を2安打14奪三振で完封し、川上哲治も3連続三振に抑えたという。この時のことを川上は「ヒゲをはやし、一人だけ大人が混ざっているようだった」と述懐しているという。以後、川上とは「永遠のライバル」となる。その翌1935(昭和10)年夏の対飯田商業戦では現在も大会記録として残る「最多奪三振数」1試合個人記録”19奪三振”を記録している。藤村が2年生から5年生まで、4年間1 人で投げ抜いて奪った三振は甲子園で12試合通算111個にのぼるという。この藤村登板の試合では外野スタンドで、空き箱の上に立って試合を見る最後列の観客のために「空箱屋」が大繁盛するほどの人気沸騰ぶりだったのだとか(藤村の甲子園での活躍は以下参考に記載の「激闘の記憶と栄光の記録」甲子園「名投手」「名選手」百選・藤村参照)。又、この年、前年末の大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ。現:読売ジャイアンツ)設立をうけて2番目のプロ野球チーム 「大阪野球倶楽部」(大阪タイガース。現:阪神タイガース)が設立された。
そして、藤村が呉港中学(大正中学が改称)を卒業した翌・1936(昭和11)年には、職業野球連盟が結成され、甲子園最大のスター選手であった藤村は、設立されたばかりの大阪タイガースの熱心な勧誘で前年末に投手として入団(背番号10)した。
プロ野球リーグ開幕の1936(昭和11)年、大阪タイガース最初の公式戦である第1回日本職業野球大会4月29日の対名古屋金鯱軍戦には、開幕投手として登板、1安打完封勝利(プロ野球におけるデビュー戦シャットアウトの第1号である) をあげるなど、好成績を収める(下記の※1参照)傍ら、内野手不足となったチームの穴を埋めるため、内野手(6番)としても出場し、同年秋季には本塁打王に輝いた。
球団設立最初のシーズン、大阪タイガースの成績はダントツの1位であったが、勝ち点で並んだ巨人に優勝決定戦で負け越しての2位だった。
翌・1937(昭和12)年からは、本格的に二塁手に転向し、2番打者としてチームの二連覇に貢献したが、当時のスター選手には、投手には、景浦 將(投手兼4番 右翼手でもある )、若林忠志西村幸生御園生崇男(投手兼外野手)、野手専門には松木謙治郎山口政信藤井勇などが数多く在籍していたため、藤村の立場は完全に脇役であったようだ。(以下参考に記載の「タイガース歴史研究室」のタイガース 年度別メンバー表1936年、<1937年 参照)
日中戦争の激化に伴い1939(昭和14)年7月8日、国家総動員法に基づいて 国民徴用令が公布され、同年から1942(昭和17)年までは兵役のため出場できなかったが、復帰後は戦力の落ちた阪神で主軸となり、1944(昭和19)年に4番打者に定着すると、打点王を獲得し、優勝に貢献した。
戦後のプロ野球は1946(昭和21)年から8球団で本格的なシーズンが再開され、占領政策の後押しも有り急激に成長を遂げるが、1946(昭和21)年藤村は監督代理をもつとめたため、投手兼5番打者であったものの、その後は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。1947(昭和22)年には、打点王として優勝に貢献し、同年設立されたベストナインの三塁手に選ばれると、以降6年連続で受賞している。また、1948(昭和23)年からは、「打撃の神様」と言われた川上哲治の赤バット、打球を簡単にポンポン飛ばすことから「ポンちゃん」といわれた大下弘の青バットに対して、「物干し竿」と呼ばれる通常の選手のものよりも長い37~38インチの長尺バットを用いて、本塁打を量産、この年140試合に出場し108打点をあげる。そして、 3年連続打点王となった。このような3人の人気選手の活躍もあり、プロ野球も蔑視されていた戦前とは一転して、戦後の苦難にあえぐ国民の数少ない娯楽として、人気が急上昇した。この結果一大レジャー産業として成長したプロ野球は1948(昭和23)年には半分以上の球団に黒字化の見通しとなる。
藤村は1949(昭和24)年、187安打、46本塁打、142打点と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという空前絶後の大活躍をみせたが、惜しくも首位打者は小鶴誠にゆずり、三冠王にはなれなかった。(因みに、この年、桁ちがいの本塁打量産がされた理由には、飛距離の出やすい「ラビットボール」が採用され、前年・1948年の川上哲治と青田昇の記録25本を越えた選手が7名もいる(ボール 〔野球〕を参照)。
この年、日本のプロ野球は事業面で画期をなす事件が起きている。2リーグへの分裂である。毎日新聞球団(毎日オリオンズ。現:千葉ロッテマリーンズ)などの加盟をめぐり、かねてから揉めてはいたが、結局、”阪神の寝返り”などをきっかけに、喧嘩別れの形となる。そして、セントラル・リーグパシフィック・リーグの今日に続く2リーグ制がこの年のオフシーズンに誕生した(詳細はプロ野球再編問題 〔1949年〕参照)。この分裂時には、若林忠志、別当薫土井垣武等をはじめとする主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれたが、藤村はタイガースに残留して弱体化したチームを支えた。
1950(昭和25)年、前年藤村の三冠王を阻んだ小鶴が本塁打、打点の二冠を手にすると、藤村は首位打者を獲得し、小鶴の三冠王を阻んだ。この年記録した191安打は、1994(平成 6)年イチロー(本名:鈴木 一朗)に破られるまで44年間日本記録であった(イチロー最終的には210本に)。また、1953(昭和28)年に再び、本塁打、打点の二冠王となるなど、常にタイトル争いに加わり、1955(昭和30)年まで一線でプレーした。しかし、凄いのが1951(昭和26)年まで投手としても登板し通算34勝11敗をあげていることだ。また、1955(昭和30)年、引責辞任(1954年の大阪球場での没収試合騒動の責任をとる形)した松木謙治郎の後任として当時全くの無名であった岸一郎が監督に就任。岸監督は世代交代を目指して、意欲的に藤村等ベテラン選手より若手選手を優先して起用。そのため主力選手の反発(特に藤村の反抗は強かったようだ)を招き、シーズン中に更迭(5月21日)されるという事件があり助監督(選手兼任も)をしていた藤村が監督として指揮を執ることとなった。そして、その翌・1956(昭和31)年6月24日の対広島カープ戦で、1点リードされている9回裏二死満塁で、三塁コーチャーズボックスに立っていた彼(選手兼監督)は、球審に「代打ワシ」と告げ打席に入ると、長谷川良平から代打満塁逆転サヨナラ本塁打を放ったが、この年限りで現役を引退して監督に専任することとなった。そこには、「藤村排斥事件」があった。彼が監督をした4シーズンの成績そのものは、そんなに悪いものではないが、そこには、彼のスタンドプレー的な面があったことや口が重い、怒りっぽい、むくれるといった性格が選手、マスコミの者などに嫌われたようだが、実際には、成績が悪い、チームのごたごたは監督の首をすげがえればよいという阪神タイガースと言う球団の悪しき伝統ともいえる体質が伏線としてあったようである(詳細は藤村排斥事件参照)。
監督を解任され、42歳で平選手にされた1958(昭和33)年は、先発は1試のみであり、結局、出場試合数24試合、26打数3安打のみの打率1割1分5厘で、生涯打率3割を保つため出場を止め引退した。記者会見は、甲子園球場の食堂で行われたが、阪神一筋の大選手に対する処遇としてはあまりに冷たいものだった。
この後の評論家・解説者もうまくいかず。水原茂、浜崎真二ら他チームの大監督からは請われて、東映打撃コーチ時代は、大杉勝男の入団を促すなどの成果は挙げたものの1968(昭和43)年、野球界からは完全に離れた。
その後、藤村が久しぶりにマスコミに登場するのは、役者としてであった。1977(昭和52)年、テレビ時代劇「新・必殺仕置人」に、元締・虎役でレギュラー出演。普段は、子供好きなご隠居さんとして過ごしているが、江戸の裏社会に「寅の会」を結成。その元締として、中村主水ら仕置人を束ねる。そして、会の掟を破った外道の仕置人を物干し竿一振りで仕置するシーンには現役時代のフィルムがカットイン(挿入)するなど遊び心十分であった。
大阪タイガース結成時から藤村が付け続けた背番号10は、球団初の永久欠番となっている。1974(昭和49)年野球殿堂入りした。タイガースの歴史上欠かせない人物であり、「藤村の前に藤村無し、藤村の後に藤村無し」言われる存在であったが、終生のライバルだった川上や鶴岡が、指導者としても大きな名声を得たのと比べると淋しい引退後だった。 藤村の同僚だった田宮謙次郎(後の東映監督)は「巨人と違ってOBを大事にしないのも阪神の悪しき伝統。藤村さんあたりが球場に顔を出してもみな知らんぷりだったよ」と発言しているそうだ(Wikipedia)。確かに、選手自身も割りと勝手気ままな選手が多かったようだが、過去の阪神は、報酬の高くなったベテラン選手は直ぐに放出していたし、監督問題など、ごたごたの多い球団であったように記憶している。以下で、懐かしい藤村の姿を見ることが出来る。
藤村富美男 @1st YouTube動画
http://video.1st-game.net/tag/%E8%97%A4%E6%9D%91%E5%AF%8C%E7%BE%8E%E7%94%B7
(画像は、藤村富美男 。アサヒクロニクル「週刊20世紀」スポーツの100年より)
参考:
日本のプロ野球選手一覧 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AD%E9%87%8E%E7%90%83%E9%81%B8%E6%89%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E3.81.AF
asahi.com:高校野球
http://www2.asahi.com/koshien/
激闘の記憶と栄光の記録
http://www.fanxfan.jp/bb/
タイガース歴史研究室
http://www.jttk.zaq.ne.jp/genmatsu/
NHK映像ファイル あの人に会いたい
http://www.nhk.or.jp/archives/anohito/index.html
阪神甲子園球場公式サイト
http://www.hanshin.co.jp/koshien/
阪神タイガース公式サイト
http://www.hanshintigers.jp/